赤毛の青年と、白毛の少女 два

 アパートに戻る途中、誰にも見られなかったことは幸運だった。薄着の少女を背負っている男なんて、ふつうに考えれば警官への通報案件だ。

 近代都市へと変貌する首都の遺物、戦前から建つ古い木造アパート、二階の隅の部屋。それが俺の家。ぎしっぎしっと歩く度に板が抜けてしまいそうな恐怖に抗いながら階段を上って、廊下を進み、部屋の鍵を開ける。

 室内には、机、椅子、寝台、生活するだけの最低限のものしか置いていない。他にあるのは、床に散乱する食料品の空き袋、脱いだままの靴下、酒瓶も。

 女の子を招待するなら、もう少し片づけておけばよかったと今更ながら悔やむ。

 寝台に散らかる服、下着を隅に寄せ、俺は眠る少女を横にする。

 彼女は俺が背におぶった後、すぐに眠ってしまったのだ。

 一瞬、まさか……と思ったが、背中越しに伝わる彼女の体は温かく、その心配は無かった。

 少女はすぅすぅと小さな寝息を立て、体を丸めている。

 その姿は子猫か子犬のような無邪気さで、俺はしばらく見つめていた。

 ……かわいい。異性にそんな感情が芽生えるのも久しぶりだった。

 その気持ちは、俺以外にも、年齢、男女問わず全ての者が持つだろう。

 純粋無垢の存在。天使が自分の前に現れれば。

 同時に、そんな触れざる者がこんな世俗じみた部屋にいるのに、俺はおかしな気分になった。

「……ん」

 少女の口から急に声が漏れ、体を動かす。

 そのため、ドレスの肩紐がずれてしまった。

「あ……」

 紐がずれ、肩が露わになった少女の姿に俺はどきりとして、思わず目をそむけた。

 これ以上彼女を見ているとまずいと思い、俺は冷えた体を温めようとお茶を沸かすことにした。もちろん、二人分のものを。

 しかし、茶葉が一人分しかなかった。なので、二人分の薄いお茶を作るよりも、濃い一人分を作ることに。

 お茶を沸かし終え、カップに注ぐ。安物でも、ほっとするような良い匂いが漂った。

「……いいにおい」

 はっとして、後ろを振り向くと少女が立っていた。

「……びっくりした。起こそうと思ったけど、その手間が省けたかな。お茶を沸かしたから、飲むといいよ。ほら、ベッドに腰掛けて」

 俺から指示された少女は寝台に座り、カップを受け取る。お茶をじっと見て、においをすんすんとかぎ、唇を近づけ、舌先でちろちろとなめた。

 そんな仕草を、俺は椅子に腰掛け観察する。

「ずいぶん変わった飲み方をするんだな。猫舌なのか?」

「……おいしい」

 お世辞かもしれないが、ほめられて悪い気分はしなかった。

「あなたは飲まないの?」

「俺はいいよ。全部飲むといいさ」

 俺の言葉に、少女は遠慮なしにカップを傾け、お茶を口に含ませる。

「あ、そんな急いで飲んだら……」

 口をふくらませた彼女は不意に、俺の元に寄り、

「なっ――」

 唇を重ね合わせた。

「お、おいっ?」

 思わず俺は彼女を引き離す。

「な、何を……」

 心臓がばくばくと鳴り、飛び出そうとするのを必死にこらえる。

 唇には少女のさくらんぼの触感が残っていた。

「だって、あなたにも飲んでほしかった」

 当の彼女は自分の行為が当然で、俺の反応を疑問に思っているようだった。

「あ、ああ……」

 だからといって、初めて会う男に、こんな……。

 結局、お茶は二人で半分ずつ飲んだ。もちろん、俺もカップで。

「そういえば、自己紹介がお互いまだだったな。俺は、マルス。君は?」

 気持ちが落ち着いた俺は少女に尋ねる。

「……ステッラって呼ばれてる」

「すてっら? 呼ばれてる? それって」

「……その名前、あんまり好きじゃない」

 帰りたくないといい、彼女の家庭環境はあまりよろしくないようだ。

「まるすは、ここで、一人で暮らしてるの?」

 ステッラは部屋を見回して聞く。

「ああ。仕事は……数日前にクビになった。勤務態度が悪いってさ」

「……あの人は?」

ステッラは机上にある写真立てを指さした。

 写真には、俺と、男性が写っている。

 その指示に、俺は内心しまったと思った。余計な詮索を避けるため、隠しておけばと。

「……あの人は、俺の……よそう。お互い、これ以上は踏み込まない。明日、警察に行こうか。そこで君がされていることを話すんだ。俺みたいな奴に、君の面倒を看ることはできないから」

「……」

 俺の答えに、ステッラは至極残念そうな顔……を見せた気がする。

「もう寝ようか。俺は床、君はベッドで。今日は寒いし、シーツはちゃんと被ったほうがいい、ほら」

 俺は寝台のよれよれになっているシーツを少女に被せる。彼女は特に抵抗も無く、横になった。次に床を適当に片付け、明かりを消し、コートをシーツ替わりに床に寝る。

「おやすみ、ステッラ」

 先程から彼女は喋らない。俺にがっかりして、言葉を交わしたくないのか。

 別にどうでもよかった。明日の夜には、この部屋はまた一人になるのだから。

 少し経って、懐にもこもことした暖かな感触があった。

「……ん、あっ?」

 まぶたを開ければ、コートの中にステッラがもぐりこんでいる。

 俺に寄り添って安眠している子犬を見ていると、母犬になったような気分だった。

「起こすのも悪いか。それに……」

 こうして人の温もりを感じるのも久しぶりだ。いつ以来だろう……。






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