第一幕
赤毛の青年と、白毛の少女 один
一九六〇年五月初旬。ソフィエス社会主義共和国連邦。首都ツェントル。
その日、季節外れの雪が降った。
朝から降った雪は夜になっても止むことはなく、市民は家に閉じこもる。そのため、いつもの風景である店の行列は無く、首都は幽霊街のようだった。
こんな日に、俺(マルス・ベロウソフ)は、街をさまよっていた。もう何時間は歩いたか分からない。既に頭の赤毛には白雪が積もり、年季の入ったコートはぐっしょりと濡れている。
足を停めれば、電信柱に政府のスローガンが記された張り紙を見つけた。
『労働は国を、同士達を豊かにする』
俺はその標語に冷めた頭が一気に沸き、思わず拳を叩きつけた。
「……ざけるな。お前達が俺達に何をしたっていうんだ」
俺は、政府を、いや、全てを信じられない。あの時から。
頭を上げ、空を見ても雲が覆い、星は見えない。
「父さん、もう一年が経つんだね。あの時から声も聞こえなくなった。俺はどうすればいいの……?」
今だけじゃない。一年前から、俺の見る空はいつも雲が覆っている。
かつてはどんな時も青空が広がり、俺に行くべき道を指し示してくれたのに。
何も答えてくれない空に見切りをつけ、俺は再び歩き出そうとする。
その時、
――わた……、……て。
誰かの声が聞こえた。
はっとし、周りを見回しても誰もいない。
さっきの声は幻聴か、それとも……。
――わたしを、見て。
再び声が聞こえる。今度ははっきりと。
その声の主は、俺を呼んでいるのだ。
そう確信した俺はいてもたってもいられず、走り出した。
この広い首都、走って誰かを探すなんて正気の沙汰じゃない。けれども、俺には分かっていた。声の主がどこにいるのかを。夢中になって走り、額に汗が垂れ、吐く息は蒸気に。まるで引力のように惹かれ、俺はその人の元に着く。
そこは街の片隅の路地裏。人々から忘れ去られたような寂しい場所だった。
そんな場所で俺が見たのは、小雪が散るなか、踊る少女。
雪と同化したような白い長髪を揺らし、純白のドレスをなびかせ、細い手足を振って。
彼女が踊るこの場は、今は路地裏などではなく、劇場だった。
小さいころ父さんと聞いたバレエ舞曲の白鳥の姫が、俺の目の前にいる。
現実なのか、幻なのか今はどうでもよかった。ただ、目に見えるこの光景を片時も見逃したくない。俺はその想いで彼女の姿を追っていた。
……いったいどれほどの時間が経ったのか分からない。
俺は体が凍っていくのも構わず、少女の踊りを見続ける。
だが、突然の横槍が舞台を終わらせてしまった。遠くから聞こえるサイレンの音で。
悲しそうに動きを停めた少女は、こちらを見た。
「――」
その視線に射すくめられ、俺の鼓動が高まる。
彼女の瞳は、あおいろ。俺がかつて憧れた空の色と同じで、儚く、美しかった。
彼女はゆっくりと俺の元に近づき、見上げて、小さな唇を開いた。
「あなたは、わたしが見えるの?」
発せられた声は俺を呼んだ声そのもの。
「え? 見え……あ、ああ」
少女に声をかけられた緊張と喜びで、俺はしどろもどろになる。
「……」
彼女は俺のことをじっと見て、視線を全く外さない。
逆に、俺は視線が泳ぎ、彼女の身体をくまなく見回した。
大きな二つの瞳に、つんと立った鼻、さくらんぼのような色をした小さな口……美少女だ。俺が今まで見た中で、一、二を争うほどの。肌も、まるでこの積もった雪のように白い。昼間この街の大通りを歩いていたら、さぞ目立つだろう。
でも……
「き、君はどうしてこんな場所で? それよりも、そんな格好で寒くないのか?」
少女の服はこの寒空の下で踊るにはあまりにも薄く、靴も、履いていなかったのだ。
「……寒い?」
少女は自分の姿を見て、何を言っているの? という反応を見せる。
こんな時間と低気温のなか、一人で踊る少女。いったい、何者か? 国立劇場で踊ることを夢見る少女……にしては、あまりにも浮世離れし過ぎている。
「……ありがとう。踊り、素敵だったよ。将来のプリマに贈るものとしては粗末だけど、これ」
俺は自分の着ていたコートを脱いで、彼女に渡そうとした。
「……なに?」
「何って家に帰るにしても寒いだろう。ぼろぼろだけど、今の君の格好よりはましかと思って」
「……あなた、優しい人?」
「よしてくれ、優しくなんかない。ほら、こんな時間に君のような子が外を出歩いちゃいけない。家に帰るんだ」
「いえ? ……あそこには帰りたくない」
「はぁ? いや、駄目だろう。今日みたいな日に屋外にいたら凍死……」
そこまで言って、俺は言葉を停めた。彼女にこれ以上関わっていいのか、と嫌な予感がしたのだ。この子はふつうじゃない。それに、俺はもう、人と関わるのは止めたはずだ。
だから、俺は彼女に強引にコートを渡し、去ろうとした。
その矢先、
「くちゅんっ」
と、少女がかわいいくしゃみをする。
「あ……」
くしゃみとともに鼻から水も垂れていた。
「ははっ……分かったよ。俺のアパートに来な」
俺は観念して、彼女にコートを着せ、背中におぶった。
背に乗せた瞬間、彼女の体が異常に軽いことに驚く。
「苦労、してるんだな」
少女を背負い、家路に着くと、いつのまにか空は晴れ、星が瞬いていた。
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