第9話

 第四の壁というのはご存知だろうか。


 元々は演劇用語で、舞台と観客席の間に隔てられた境界のようなものであるらしい。


 それは壁としての役割を果たすと同時に、逆に舞台と観客席、つまりどれだけ拡張しても決して交わることのない世界同士を繋ぎ止める機能も果たしていると解釈ことも出来なくはない。


 最近ではアニメや映画において、登場する登場人物が劇中には存在しないはずの製作者や観客を意識した言動を取るようなシーンが散見する。


 そう言った演出を「第四の壁を壊す」と呼ばれるそうだ。


 劇中で巻き起こっている出来事を画面やスクリーンの外で呑気に眺めている観客に対し、あたかも意識を劇中に引きずり込もうとすることで臨場感を出そうとしているのだろう。


 とはいえやはり観客は観客で劇に対して何も干渉し得ないし、劇中の登場人物も観客に対して物理的に危害を加えたりすることも出来ない。


 なので第四の壁を壊したと言ったところで、劇中の登場人物は観客に語りかけたり弄ったりしたとしても単なる演出に止まるだけで、結局のところ第四の壁とやらは壊れていないのである。


 それはこの先どれほどエンターテイメントが進化しても、それがエンターテイメントである限り決して破られる事のない絶対のルールなのだ。


 しかし今、アラタ達はその第四の壁が脆くも崩れ去っていくのを目の当たりにしていた。


 もっともアラタには、自分の目の前で繰り広げられている非現実的で絶望的な光景を到底受け入れることができず、呆然と立ち尽くすことしか出来ないでいた。


 彼の目には異形のモンスターの身体から何本も生えた巨大でグロテスクな兇刃が、一度に何人もの逃げ惑うプレイヤーの体を次々なぎ払い、あたりを血飛沫と人の臓物で赤く染め上げている光景が映っている。


 血飛沫とともに撒き散らされた人間の身体の一部や臓器と思われる大量の肉片が、周辺で呆気にとられていたプレイヤー達に降りかかり、彼らの意識は瞬く間に混乱の渦へと叩き落とされ、目の前で起きている恐怖に悲鳴を上げた。


 それまで事態を受け入れることができずに立ち尽くすだけだったプレイヤーも、次第に立ち込める血なまぐさい臭気、ヌメヌメとした不気味な暖かさを帯びた鮮血や肉片が自分の身に降りかかることで、今起きている事態を確かな現実として受け入れる他なかった。


 「熱いぃぃぃぃぃぃぃっ!あつぅいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」


 「ヒールを……!?」


 モンスターが吐いた炎を浴びて火達磨になって悶え苦しむ仲間の助けを求めた男は、ぐしゃり、とあえなくモンスターの尻尾なのか足なのか、よくわからないような巨大な肉塊によってすり潰されてしまい、無残にも身体中の穴という穴から血液を吹き出し、そして骨や筋肉で皮を突き破ぶらせながらあっさり事切れた。


 「そ、そんな、ヒ、ヒールってたって……こ、こんなの治せるわけないじゃない……!!」


 さっきまでは人間の形をしていた骸と、消し炭になろうとしている骸の仲間と思わしきヒーラーは、目に涙を浮かべてその場から逃げ出そうとするが、地面から唐突に巨大な顎が現れ、彼女の身体はガブリと丸ごと飲み込まれた。


 顎の中からは骨が噛み砕かれる音や、粘着性のある肉がすり潰すような音に混じって、ヒーラーの悲鳴らしき声もわずかに聞こえるのだが、モンスターが何度か咀嚼を繰り返す度に、それも間も無く聞こえなくなってしまった。


 顎のモンスターは喉や胃袋が無くて飲み込むことができないのか、口の中のものを噛み砕き終えると、顎の回りにある細かなヒダがめくり上がり、露わになった無数の小さな穴から鯨が潮を吹き上げるように肉片と血潮を撒き散らした。


 そして顎のモンスターは決して満たされることのない食欲を抱えながら次のターゲットを探すべく再び地中へと消えて行くのであった。


 次々と殺されていくプレイヤーを何もできずに見つめていたアラタは、冷たく強烈な感情が全身を駆け巡り、それに自分の体が支配されて行くことを感じていた。


 恐怖なのか悲嘆なのか、あるいは絶望なのか、それがなんなのか判別つかないほどの圧倒的な負の感情が、アラタの全てを蹂躙していく。


 震えが骨の髄から軋みを上げるように沸き立ち、それは身体を制御しようとする意思すら許さない。


 アラタはへたりこむように膝を地面に付けて、ただ虚空を見つめるように仰いでは涙や鼻水やヨダレを垂れ流しながらヘラヘラと笑みを浮かべるしかなかった。


 もはやアラタの意識は、嵐の夜海のように黒くて冷たい荒波に揉まれながら、なす術もなく粉々に砕けようとしていた。


 そんな時だ。


 不意にアラタは目の前から暖かな六つの光が差し込み、アラタの意識を優しく包み込んでバラバラに壊れかけた心が修復されていくのを感じた。


 「安心して……。アラタは私が守ってあげるから……」


 それはあまりにも純粋で、慈愛に溢れた声音であった。


 「だから、だいじょうぶ……」


 朦朧としていた意識が明瞭になっていくにつれ、アラタは次第に自分が何に包まれているのかを認識し始めた。


 まったく、自分の精神とやらは、あまりにも単純な構造で、これだけのことで正気をとりもどしてしまうのだな、とアラタは自分自身に呆れかえってしまった。


 アラタは自分の目の前を覆うのは、2つの豊満な物体でできた柔らかで乳色の谷間であった。それはまるで天上の雲のようで、息を深く吸い込むごとに生きる力がみなぎっていく。


 正気が戻っていくうちに、アラタは今自分が置かれている状況を理解した。


 アラタの目の前にいるのはセラだった。


 セラは、考えることだけでなく生きることすらも放棄しまったアラタの頭を、包み込むように優しく抱擁しているのであった。


 しかもいつもセラが装備しているクルセイダー専用ヘビーメイルは、姿形もない。見る影もない。


 そこにあるのはキャラクター作成時にデフォルトで設定できる下着で覆われた豊満な胸であった。


 俺はこの世の真理を知った、アラタはそう硬く確信した。


 この二つの慈悲深き物体は、決してバーチャルで表現されたものでなく、そこに確かに存在するのだと魂のレベルで確信した。


 この世が例え絶望が溢れていたとしても、この希望の丘がある限り、俺は、人類は生きるのを辞めてはいけないのだ。静かな呼吸の音と共にトクン、トクンとわずかに伝わってくる鼓動を聴きながら、アラタは思わず、二つの丘に頬ずりを……。


 「こら……。ダーメ」


 「グホォォォッ!!」


 セラの小さな拳がアラタの肝臓リバーを的確に抉り、アラタの体は横にくの字に折れ曲って吹き飛んだ。


 セラは恥ずかしそうに俯きながら手を組み、細くて小さな腕で胸の前を覆い隠しながらこう言った。


 「アラタの……えっち……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る