参加作品紹介 『味が渡せない』

人は孤独なものである。そんなことはない、ときっと誰かはいうだろう。家族がいる、恋人がいる、友だちがいる、ペットがいる、SNSには無数のフレンドやフォロワーがいる。確かに、確かにそうではあるだろう。いや、家族も恋人も友人もいねぇし、ペットも飼ってねぇ、SNSの知人なんて情はねぇ。なんて人もいるだろう。だがぼくが今、言っている孤独とは、そのどちらの人にも共通する孤独だ。何が言いたいのかと言えば、湿原工房氏の詩、『孤独の飴玉』について書いているのだ。

味が渡せない、というタイトルが冠されているのだけどこれがすべてを表している。母親が甘いね、という。しかし、子どもはおいしいと思うのだけれど、母親が甘い、と言った味はどれだろう?と迷い、探すのだ。母にばれないように、と言う言葉がぼくの中に響く。母親の甘い、を共有できない幼い後ろめたさ、それははっきりと孤独という言葉に変換できるのだけれど、少年は甘い、を探し続けるのだ。

母親の甘い、と子どもの甘い、或いはおいしいは同じ言葉なのに違う。正確には同じか確かめられない。甘い、と感じる。おいしい、と感じる。りんごが赤い、と感じる。この感じるはクオリアと呼ばれるものだ。クオリアとは感覚の質感と言えばいいのか。りんごが赤い、と感じるとき、それはりんごに反射している光の波長の長さによって赤い、と人の目は受け止めて認識している。その仕組みは同じだが、ではぼくの赤い、とあなたの赤い感じが同じだとどうしたら、証明できるのか。それは無理だろう。極めて主観的な現象だからだ。(クオリアの解釈はもしかしたら間違っているかもしれないが)

同じことがこの詩の母親と子どもの間にも起きている。詩とは発見でもある。その意味では子どもという存在は、成長するにつれて大人と違うたくさんの発見をしているはずだ。ぼくらはそれをどこに忘れてきたのだろう。

湿原氏の詩に戻ると、最初にも書いたが分かち合えない孤独を子どもは認識したのだ。甘く、おいしい飴玉を口にしながら、彼は孤独の味を知ったのだろう。この孤独を感じ取ることが詩を書く人には必要な感性だと思うのだ。どれだけ近くに人がいても、ひとりで立っていなければ詩は書けないのではなかろうか。この詩を読みながらあらためて、ぼくはそう感じているのです。蛇足かもしれないが味が渡せない、というタイトルは秀逸だ。この言葉がなければ詩のおさまりは、また違った気がするのだ。

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