第6話 北から
「茉穂蕗、起きて!」
ううん…待って、後5分…後5分寝かせて…朝ごはん要らないから…
そう思った所で、凄く空腹な事に気が付いた。やっぱりさっきの無し!朝ごはん食べたい。
白いご飯に、甘〜い卵焼き。味噌汁は油揚げのが良いな、お母さん。
そろそろ台所から良い匂いがして………来ない…
「茉穂蕗!」
ばちん!と頬を叩かれて、
「痛いよ、咲ちゃん」
「本っ当に、あんた、この状況でよく寝られるね!」
瓦礫の上に寝転んだ茉穂蕗の上に、幼馴染みの咲の影が落ちている。
目を覚ましたら空腹は加速する。
「良い夢見てたんだもん…」
咲を見上げた茉穂蕗の顔が、悲しく歪む。
「そのくらいにしておけよ」
少し離れた場所から、クラスメイトの
「だって、こんな状況でこの子!起こされてすぐ起きなかったら、逃げ遅れるんだから!」
「うん。ごめんね、咲ちゃん」
茉穂蕗は立ち上がって伸びをした。身体中が痛いし、あの日から着たままの制服は汚れ擦り切れ、速い話がみすぼらしい。悲しくなるから考えないようにした。
「交代の時間?咲ちゃん、
布団替わりの擦り切れたカーテンを咲にバトンのように手渡す。
咲は不機嫌な顔のまま受け取ると、周囲を一度見渡し、瓦礫の上に丸まった。
落ち着かないように何度ももぞもぞと動き、それから小さな寝息を立て始めた。
甲士は
「おう。後頼む」
そう言って、倒れるように眠った。
茉穂蕗は春陽の側まで行き
「また怒られちゃった」
そう言って肩を竦めた。
「仕方ないよ。この状況じゃ、ぴりぴりもするさ」
春陽は、茉穂蕗の頭をポンポンと撫でた。
茉穂蕗はトロンと甘い顔になり、春陽の肩に自分の肩を寄せた。
春陽はチラリと寝ている2人に目を走らせ、それから茉穂蕗の甘えを受け入れた。
4人以外人っ子1人見当たらない廃墟の町で、青空の下2人きりの気分だった。
茉穂蕗は可愛い。春陽は肩に伝わる茉穂蕗の体温を、憎からず感じていた。
ほんの数週間前までは口も殆んどきいた事の無かった高校のクラスメイト。
茉穂蕗はクラスでも、高校全体から見ても、目立つグループにいた。
教室では、派手目な女子たちと、そこに群がる垢抜けた運動部のモテ男たちとつるんでいたし、何より、ベタなくらいにモテる男前なバスケ部の先輩と付き合ってた。
「手、止まってるんだけど⁉︎」
あの日、春陽が初めて茉穂蕗を意識した瞬間、背後から咲の怒気を含む声が飛んで来た。
慌てて振り返ると、仁王立ちしたクラス委員の咲が、さっき春陽が気を取られていた方に視線を向けた、その先には茉穂蕗たちが、応援団とチアの練習をしている。思わず
「アイツらしっかり練習してくれないと困るよな…」
とイライラした口調で言ってみた。
咲はチラッと春陽を見てから、
「大丈夫でしょ。格好悪い事嫌いな人たちだから、そつなくこなすわよ」
そう答えた。
「それより、応援看板仕上がらなかったら目も当てられ無いんだから、しっかり頼むわ」
そう続けられて、春陽は肩を竦めた。
「絵とか、得意じゃ無いんだけど」
「仕方ないじゃ無い。私も苦手だけど、下絵を塗るだけだし、皆部活だとか何だって逃げて暇な人君位だったんだから!」
咲はそう言って、ツンと顔を背けた。
知ってる。クラス委員長の咲は、人手が足りない地味な看板作りの手伝いをクラスメートに頼み回り、自分も手伝っている。
「暇で悪かったな」
春陽がわざとそう言うと
「悪いなんて言ってないでしょ!助かってるのに。ちゃんと文節読んで?」
そう言って叱る。
クラス委員長と言うより、クラスのお母さんみたいだな…と春陽は思った。
「本当は暇じゃ無いの知ってるし。だけど、せっかくの初めてのおっきな学校行事なんだから、たまには参加しても良いでしょ」
付け足した言葉は呟くようで、春陽の耳に届けようとした言葉では無かった。
実際、春陽は暇では無かった。
ある日突然出現して、肺炎に似た症状で人を死に至らしめるウイルスに対抗する為の研究者として、春陽の両親は研究所に連れて行かれた。
残った春陽と幼い弟妹は、国の保護の下3人で暮らしていた。
高校に入学したら無条件に味わえる筈の輝く日々への期待は、しゃぼん玉みたいに危うく膨らむ事も無く萎んでこぼれ落ちた。
そんな事も、きっと咲は知っているのだ。
クラス全員にそんな風に目を配り、力になろうとしているのだろうか。
同じ高1なのに。
遠くで応援団に選ばれたモテ男たちの声に混じって、茉穂蕗の笑い声が聞こえて来る。
ただそっちを見ないように、春陽は筆を動かし続けた。
茜色に染まっていた空は、既に色を失い、周囲は闇に染まって行く。
「そろそろ終わりにしようか」
咲はそう言って立ち上がったけど、
「もうちょっと。この色の場所だけ塗り終えるから、先帰って良いよ」
「ふうん?」
咲はそう言ったまま帰らず、春陽の手元が見える位置に座り直した。
先に帰る気はないらしい。
「折角の運動会だし…」
そう照れ臭そうに言って咲を見ると、なんだか凄く嬉しそうに、はにかんだように、笑っていた。
だけど、そんな運動会も消え去った。
最初の変化は、目が感じたのか、耳が感じたのか、今はもう思い出せない。準備を進めていた春陽たちのいたグランドの外側に、変化は一瞬で訪れた。
咲の笑顔のはるか向こう側で、ガシャン‼︎と金網が音を立てて揺れた。血だらけの人がしがみ付き、揺らしていた。
一瞬の事で、事態が分からなかった。
だけど、前夜の両親の、
「暗くなったら、隠れて!噛まれちゃダメ!兄妹でも、友だちでも、すぐ逃げて明るくなるまで隠れて‼︎」
と言う、謎のメッセージを思い出した。
何だコレ?定期連絡にしては妙だし、不気味で、弟妹には見せられないじゃないか…って思った。
ゾワッ…とリアルな恐怖が沸き起こり、春陽は立ち上がった。
「な、何…アレ…」
つられて立ち上がって振り返った咲の声が震えている。
「あそこだ!隠れて!」
春陽はグランド脇に有る道具小屋を指差した。
「春陽君は⁉︎」
「茉穂蕗たちを連れて来る!」
「待って!私も…」
「俺の方が早い!隠れて!」
そう叫んで飛び出した。
グランドのあちこちに部活中の生徒や、運動会準備の生徒がチラホラいる。
「逃げて‼︎コッチ‼︎」
咲は精一杯叫んだ。
声は届いただろうか。遠くまでは無理か…
茉穂蕗たちに駆け寄りながら、
「あっちだ!早く!逃げろ!」
叫んだが、楽しそうに話している彼らは中々気が付かない。
気が付いて騒ぎ出す人や、わざわざ寄って行く奴らもいる。
茉穂蕗の肩に手を置いて笑っていた応援団の男が、春陽に気が付き、
「何?あいつ」
と鼻で笑った。
口きいた事も無い、確かサッカー部のヤツ。
え〜?と笑ったまま振り向いた茉穂蕗は、春陽が指差した方を見て、笑顔が強張った。
「な…に?アレ…」
「あっちに委員長が居るから!急いで隠れて!」
春陽の声に数人が動いたが、
「なんだよアレ。変質者?追い払おうぜ」
運動神経に下手に自信のある応援団たちは、そんな事を言い出した。
「馬鹿!隠れるんだよ!」
春陽が叫んでも、ニヤニヤしている。
「え…やめようよ。何か変だよ」
そう言って戸惑う子たちの背中を押し、
「早く行こう!」
もう一度そう叫んだ。
バタバタバタ…と音が大きくなり、揺れが激しくなる。
数が増えているんだ。
面白がってはやしているのは陸上部だ。
「マジか!」
声が一段と騒がしくなったと思ったら、金網にしがみ付いている奴を踏み台にしてよじ登りだした。
あっという間だった。1人、2人、よじ登りグランド側に落下し、腕や足や首まで変な方向に曲がったまま、ずりずり…と近づいて来る。
近くではやしていた連中は、不気味そうに、それでもニヤニヤして見ていた。
1人目が、噛み付かれるまでは。
「何しやがる!」
と助けに入ったヤツも、囲まれてあっという間に襲われた。
流石に、ヤバイと気が付いて、皆、距離を取る。
「橋本⁉︎どうしたんだよ⁉︎」
「陸⁉︎陸君‼︎」
叫び声が悲鳴に変わり、消えて行く。
何が起きてる…?
「何…?何なの⁉︎」
そう叫ぶ茉穂蕗に
「見ちゃ駄目だ!」
そう言って、抱えるように走った。
隣の女子が
「西郷くんは⁉︎」
そう叫んで止まろうとしたから、腕をつかんで止めた。
「噛まれたら終わりだ!」
そう両親に言われた。
「彼氏なのよ!」
激しく抵抗され、
「噛まれたら、もう違う‼︎」
そう叫んだ。
どうなるのかは分からないけど、両親が伝えようとしたのは、コレに違いない。
「真由、逃げよう!西郷君の足なら大丈夫だから!」
茉穂蕗がそう叫んで抱きかかえた。
あちこちで悲鳴が上がるけど、振り返りたくない。
「春陽君!茉穂蕗!皆走って!」
咲の声が前方から聞こえ、何かが頭上を飛んで行った。
「甲士君!あっち!」
「任せろ!」
そんな声と共にまた、何かが飛ぶ。
「咲ちゃん〜‼︎」
茉穂蕗の甘えた声が応え、
「甲士君‼︎」
歓声が上がった。
確か、野球部の2番手ピッチャー。1年でベンチ入りは凄い。
そこそこの強豪校だ。
飛んで行ったのは、白球だった。
道具小屋に入っていたバッティングマシーン用の白球の山から、咲が甲士に球を渡し、襲って来る奴らに投げ付けていた。
「助かった!」
そう叫んで追いついて来た男に、
「西郷君!」
と真由が抱きついた。
皆で用具小屋に飛び込み、振り返ると、とても言葉には出来ない…
見慣れたグランドは血だらけでうごめく連中に埋め尽くされていた。
「閉めるよ」
咲が叫び、扉を閉めて、バッティングマシーンを扉に押しつけ、皆何となくバットを手にした。
「咲ちゃん〜もう大丈夫だよね!」
茉穂蕗が咲にしがみ付き、
「多分」
咲はそうだよね?と言うように春陽を見つめた。
「明るくなるまで待てば、大丈夫」
そう答えた。
何も分からないけど、とりあえず、両親がそれだけは教えてくれたんだ。
春陽はドキドキが収まらないまま、咲を見つめ返した。
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