第3話 東から
陽が高い。
「兄ちゃん、痛い…」
さっきから遅れがちだった弟の
分かってる…だけど…
「止まっている余裕はない、分かっているだろ」
足首を抑えて蹲った弟が、目に涙をためて見上げている。直視出来ず目をそらす。まだ、5歳なんだ。もう何日もまともな物は食べて居ない。唇は乾いてひび割れ、声だって、囁くようにしか出ない。押さえた足首は、紫色に腫れている。大丈夫なはずが無い。休ませてあげたい…だけど…
「ここが安全だと思うか?」
コンクリートの建物が崩壊し、ゴロゴロと転がっている廃墟を見渡して、意地悪な質問をする。勝は、力なく首を横にふる。分かってる。安全な場所なんて、一度も無かった。
健気に立ち上がり、歩こうとする弟を見ることができず、黙って彼の肩のあたりを掴むと、背中に担ぎ上げた。
「兄ちゃん…」
何かを言おうとして、掠れる声は途絶えた。安心して気を失ったのだ。 力が抜けて、ずしりと重さが増した小さな身体を担ぎ直し、歩を進める。
どこまで行けば、安全だろう。兎に角、奴らが隠れられそうな場所が無い、入り口を封鎖出来る場所を探さないといけない。明るい内に。出来たら、水が欲しい。翔の足を冷やしてあげないと。勿論、乾きも癒したいけど。足は致命的だ。何かあった時に、逃げられない。自分に何かあったら、一人で生きなきゃいけないのに。達生は慌てて肩に顔を押し付け、滲んで来た涙を消した。
ごろごろとコンクリートが転がった場所を何とか抜け出し、小さな管理小屋の脇で一旦勝を下ろした。周囲を見渡し、見えない場所に押し込み、そっと小屋のドアに手を掛ける。一つ息を吐き、一気に引き開ける。埃っぽい空気が舞ったが、奴ら独特の腐敗臭はしなかった。そっと中を覗き込み、隠れる場所が無いか確認する。むき出しの棚や、壊れた冷蔵庫が有ったけど、中には何も無い。とっくに誰かが物色して持ち出した後だ。くそっ!と地面を蹴ると、溜まった埃が舞った。高い位置にある細い窓から射し込む光がそれを照らした。奴らが通れる程じゃない。勿論、自分たちも。まだ陽は高いけど、勝を休ませないと。達生は上着を脱ぎ、埃の上に広げて、勝を引っ張って、その上に下ろした。目をこすって起きようとする弟に、
「寝てろ。ちょっと周辺を、見てくるから。何かあったら、笛を吹くんだぞ」
達生に言われ、よれよれの洋服に上から手を入れ、首に下げた紐の先に、小さな笛が付いているのを確認し、小さな手で握りしめた。
それだけして、もう一度糸が切れたように眠りに落ちた弟の小さな頭にちょっとだけ触れ、その温かさに、思い掛けない嗚咽が込み上げてきた。そんなつもりじゃなかったから動揺した逹生は、手を引き戻して胸に抱いた。勝と同じ。皮膚はカサカサで、傷だらけで、骨と皮だけだ。だけど、温かい。血が流れている。それだけが救いだ。死んでしまったら、誰が勝を守るんだ!自分を叱りつけ、涙をその腕で乱暴に拭い、逹生は立ち上がった。
頭上を影が横切った気がして、びくりと空を見上げると、遠い空の上を、黒い鳥が飛んでいる。。…奴らを狩るのは無理だけど、何か啄むものがあるのかな…そう思ったが、心は動かない。奴らは人間の死体を食む。どこかに死体があるのか…それはゾンビなのか…そんな危険は知っているし、怯んじゃいられない。恐怖は疲れと空腹で麻痺している。ふと、気になって管理小屋の上に視線を向けた。素っ気なく四角いコンクリの小屋の屋上。あそこに死体があったら、鳥たちの餌皿のようだ。日が当たるからゾンビが隠れていることはないと思うけど、気が付かない隠れる場所があったら危険だ。
そう気が付いたら、心配になって来た。中には勝が寝ているのだ。瓦礫を足場にして、折れ曲がって剥がれかけているパイプに手を掛けて体を押し上げた。
「あ…」
達生の想像以上にガランとした屋上には死体はなかった。ただ隅に、倒れて割れた植木鉢がいくつかと、そこから溢れ自生したらしい緑の葉が茂っていた。そして、その所々に、小さな丸く赤い実が房になってぶら下がっていた。
憶えている。コレはプチトマトだ。
灰色の廃墟のような世界で、この色彩はとても眩しく、命を感じさせた。
色も、完璧な球体も、輝いている空の透明を映し出しているような表皮も、生い茂った緑の葉さえ、とても圧倒的に生きている。
思わず手を伸ばし、もぎ取って口に放り込んだ。
青臭い、甘酸っぱい、懐かしい、だけど格別な味覚が口の中に溢れた。
背負っていたリュックを乱暴に背中から剥ぎ取ると、中から布の袋を引っ張り出した。土を両手ですくい取り袋に詰めてから、トマトの木を傷付けないように抜いて、袋の中の土の上に置いた。持って歩けるかもしれない。
それから、割れた植木鉢も慎重に集めて別の袋に詰めた。武器として使えるかも知れない。
最後に、摘めるだけのプチトマトを摘んだ。青いのは残しておく。それでも、かなりの量になった。久し振りに、勝をお腹いっぱいにしてあげられる。
達生はリュックを背負い直し、袋をそれぞれ肩から下げ、来た時と同じようにパイプを掴んで降り始めた。だけど、パイプは本当にもう限界で、達生の足元で、バキッと折れてしまった。
あ…と思った時には、達生は地面に転げ落ちていた。とっさに体を丸め、袋を抱え込んだ。それでも、地面に叩きつけられた瞬間、ぐしゃっという感触を感じた。
思わず頭を抱え込んだ。痛いわけじゃ無い。痛いけど、そうじゃなくて、涙が溢れてきたから。泣くな…そう強く思った。
幼い弟を思った。カサカサな唇。小さな手…
遠い昔触れた、母さんの柔らかい手。ふかふかのパンの焼ける匂い。背中でカタカタ言ったランドセルの重み。
僕も欲しいと駄々をこねた勝。
僕がしっかりしないと…そう自分に言い聞かせて、込み上げてきた思いにぎゅっと蓋をした。あの日々は戻っては来ないのだから。
赤い染みが広がっている袋に手を突っ込んでみた。
丸くつるっとした感触にホッとした。全部潰れたわけじゃ無い。ちゃんと、勝に食べさせてあげられる。
涙をグイと拭い、折れたパイプを支えに立ち上がった足元に、何匹かネズミが転がっていた。
一瞬ポカンとそれを眺めて、手にしたパイプを眺めた。この中にいたのか…僕が潰した…?肉付きは良く無いけど、思いがけない食料だった。
それを躊躇なく鷲掴みし、呼吸を整えてから、小屋の戸を4回、一定の調子で叩いた。「ただいま」の意味だ。
昔、まだ勝が生まれたばかりの頃。パパと2人で公園に行った帰り。
これからは、勝が寝ているかもしれないから、静かに家に入らないといけないんだ。と言われた。2人で静かに玄関のドアを開け、目配せしてふふふ…と声に出さずに笑い合い、勝の部屋を覗いたら、小さなベビー用の布団で気持ち良さそうに眠っている勝の横に寄り添うように眠っているママが居た。レースのカーテンと、差し込む柔らかい陽光を風が緩やかに揺らして居て、パパも僕も入り口で2人を見下ろし、何だか胸の奥が柔らかくて温かいものでいっぱいになった気がしたんだ。ママはうっすらと目を開け、僕らに気がつくとにっこりと笑って、口を、おかえり…と動かした。パパも凄く優しい笑顔で、部屋のドアを、小さく四回叩いた。小さく、ただいま…と言いながら。
勝は、勿論、憶えていない。
こんな状態になって、2人のルールをたくさん作り、コレを合図に決めて実行しながら、その都度、兄がどんな気持ちに襲われているかも、知らない。
扉は静かに細く開いて、小さな不安そうな顔が覗いた。それから疲れた顔にあどけない笑顔が浮かぶ。
「おかえり」
何も知らない勝。
扉の中に滑り込むと、周囲を注意深く観察してからしっかりと閉めた。
「何か居た?」
そう聞いて来た勝に答える代わりに、2人の間に、赤い染みの出来た袋をどさっと置いた。
その赤に、一瞬ひっ…と声を上げたが、その中から覗いた赤い球体に、興味を引かれた。
「何…?」
恐る恐る兄と袋を見比べる。達生は袋に手を突っ込み、幾つかの粒を掴んで一つを口に突っ込み、それから一つを驚いて小さく開いた勝の口の中に突っ込んだ。驚いた顔のまま咀嚼する勝の手に、掴んでいた粒を乗せた。
「良いの…?」
と聞く勝の前で、袋を大きく開いてみせた。
勝は目を大きく見開いて、手の上のプチトマトを口一杯に頬張った。
本当に久しぶりにお腹いっぱいになった勝はまた眠りに落ち、達生は倒れた棚の上に座って口にプチトマトを放り込みながら細い窓から外を監視した。
ずっとそうして来た。注意は怠れない。もうすぐ外は暗くなる。暗くなると、誰も居なかった廃墟からもぞもぞと這い出して来る。それが、奴らだ。世界を壊した、奴らだ。達生と勝の幸せを壊した…両親が、奴らから2人を逃し、餌食になった。そして、奴らになった。あの絶望。だけど、逃がそうとしてくれた。それが、本当のパパとママだ。絶対に勝を逃す。絶対に守る。両親の代わりに。
絶対に注意は怠らない。だから子供2人でも生き抜いて来られたのだ。
寝返りをうちながら勝がうう…んと声を漏らした。
眠りは浅い。
「痛むのか?」
達生がそう問いかけると、
「大分良くなったよ。さっき、兄ちゃんが冷やしてくれたから…」
最後は寝言のようになりながら返事を返して来た。
(寝ぼけてるな)
弟を見下ろしながら、クスリと笑った。
確かに、勝の足はさっきより変色も腫れも引いて居る気がする。休んだのが良かったのか…
ここで休んで良かった。達生の気分も、久しぶりに良かった。
もうすぐだ…達生はもう一度小さなコンクリートの小屋のあちこちを点検した。天井、床、壁、窓。大丈夫。どこにも隙間は無い。
ドアの前には空っぽの冷蔵庫を置いたし、ドアの外には、さっき集めた植木鉢の破片をばら撒いた。奴らの足は止められないけど、何かが近付いたら音がする。油断するつもりは無いけれど。達生も疲れている。本当は、ふかふかの布団に倒れ込んで何も考えずに眠りたい。考えただけで身体中の力が抜けて行きそうだった。
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