番外編「子守唄の丘」中編

 衛兵の聴収はすぐに終わった。総主教補佐は腕にかすり傷と、お腹を殴られているらしかった。

 蹲っていたのは、そういうことだったらしい。

 総主教補佐に家まで送ってもらって、ほとんど無理矢理部屋に上げる。

 往生際が悪いと思うんだけど!


「男色なんですか? 女じゃ反応しない?」


 いいながら服を脱いでいく。時間がもったいない。

 額を抱え込みながら、彼は深く溜息をついた。


「おそらく、君の倍以上生きてる。君から見たらおじさんだろう? 教会で会った時は普通だったじゃないか」

「普通の人に見えたんだもん。だけど、さっきは違った」


 じれったくて、下着のまま彼の服も脱がせ始めた。きっちりした神官服がはだけていくのは、少し色っぽい。


「……失敗したな」


 言いながら、彼は諦めたようにあたしの腰を引き寄せた。

 唇が重なる。

 その柔らかさに感動して、彼の手があたしに触れることに喜びを感じる。


「そ……しゅきょ、補佐…………って、色っぽくない。長いし。名前、教えてください。ここでしか呼びませんから」


 彼は片眉を上げて、一拍開けると、さもどうでもいいという風に答えた。


「フェエル」

「フェエル? ふふ。フェエル、大好き」


 キスをねだって、ベッドに倒れ込む。

 フェエルは慣れた様子であたしも自分も裸にしていく。部屋は寒くて、すぐに布団に潜り込んだ。

 さて、いよいよ……というところ。

 痛くて仕方ないのを我慢していた。こんなところでせっかくのチャンスを逃したくない。

 だけど、なかなか入らなくて、彼が訝しげにぐっと力を込めたところで限界が来てしまった。


「……!! い、いった……痛ぁい! ま、待って。あ、やだ。待たないで。離れちゃヤダ! やだやだ!」

「お、まえっ! 生娘か!!」


 思わず縋りついた腕も振り払う勢いで言われて、涙目になる。

 掴んでない方の手で頭を抱えて、フェエルは何度目かの深い溜息を吐いた。


「大丈夫! 我慢できるから、最後までして! だって、今日しかない! あたしみたいな庶民が、総主教補佐なんかといられるのは、今しか……」

「ああ……もう、面倒臭い……」


 偽らざる本音に、涙が零れる。


「ごめんなさい。ごめんなさい。でも、好きなの。どうしても欲しいの」

「俺みたいな罪人つみびとと交われば、お前も罪人になりかねんぞ」

「猊下のためにあなたが罪を犯すなら、あたしがあなたの罪を雪ぐわ。毎日祈る。だって、あなたが罪を犯すなら、その為なのでしょう? それでも神様がお許しにならないのなら、甘んじて罪を受け入れます。それとも、あなたを愛したいと思うことが、もう罪かしら」

「……なんでそこまで……」


 吐息と共に消えゆくような言葉を吐き出すと、彼はあたしの位置を少し壁際に寄せた。

 離れていく身体に、心が悲鳴を上げる。嫌がられても、すがりつきたい。


「おとなしくしてろ。俺も今日は疲れた……少し眠るから、もし起きなかったら、1刻の鐘の前には必ず起こせ」


 フェエルは隣に横になると、ぐいとあたしを抱き寄せて、胸に頭を寄せて目を瞑った。

 目の前に茶がかった金髪が広がる。


「フェエル……」

「明日……明日の夜、ちゃんとしてやる。猊下と同じ年頃の娘を、泣かせながら抱く趣味はないんだ」


 感情が篭らないように平坦に言われたけれど、それだけであたしの胸はいっぱいになった。

 フェエルの頭に腕を回し、意外と柔らかいその髪を梳きながら、ママがよく歌ってくれた子守唄を口ずさむ。

 何度も。何度も。

 フェエルが、眠るまで。


 ◇ ◆ ◇


 翌日も長蛇の列は続いていた。

 朝礼拝には出たけど、仕事も休みじゃなく、列に並ぶことはできない。でも機織り頭は少し早めに終わらせてくれたので、あたしはまた向かいの丘でぼんやりと教会を眺めていた。


 夕方には列はだいぶ短くなっていて、別れの時が近付いているのを実感して寂しくなる。

 フェエルは起こさなくても夜中に自分で起きだして、うとうといているあたしの頭を一撫でして出て行った。

 きっと寝不足だろうに、今日も忙しく働いてるんだろう。


 夕礼拝には今日は行かないつもり。

 朝は人が多くて後ろの方にいたけど、昨日みたいに主教様に気を使われたら、フェエルを見て挙動不審になりそうだった。

 そんなの、フェエルにも猊下にも迷惑がかかる。


 夕礼拝が終わる頃、あたしは食堂まで行って、おかみさんに持ち帰りで夕飯を作ってもらった。

 今日はなんとなく外で食べる気分じゃなかったのだ。

 とぼとぼと元来た道を戻って行く。


「なんでこんな所にいる」


 後ろから近付く足音に、追い抜いてもらおうと端に寄ったら、隣に誰か並んだ。

 質のいいコートを着ていて、都会から来た人みたいだった。視線を上げていって、驚きに口を開ける。


「……フェ……!!」


 慌てて自分で口を押えた。

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せてそこに立っていたのは、洋服を着たフェエルだった。コートの前を開けているので、中の服装がちらりと見えている。シンプルな白いシャツにベージュのパンツ。前髪も分け目をなくしているので、初めの印象からは少し若く見えた。


「夜行くと言っただろう? もういいなら、戻るぞ」


 踵を返しかけた彼の手を慌てて掴む。


「ば、晩御飯買いに来たの! それに、その……本当に来てくれるとは、思わなくて……昨日だって、もっと遅い時間だったし……」

「ほぅ。では、お前は俺が嘘をつくような人間だと思ってるんだな? 手を離せ」


 あたしは慌ててフェエルの手を離した。

 町の中の灯石の明かりは歩くのに困らない程度。少し離れれば顔は見えないけれど、馴れ馴れしくするのは駄目なんだろう。


「嘘っていうか……面倒臭がってたし、立場上、色々忙しいんだろうから無理だろうなって……」


 滞在が伸びて自由時間が増えたのか、店々を覗き込みながら連れだって歩く神官達とすれ違って、フェエルは少し顔を伏せ、あたしの背を押しながら声を潜める。


「ともかく、歩け。ここは宿が近い。他のやつらは誤魔化せても、猊下は気付くかもしれない」

「な、ナイショで来てるんですか?」


 足を動かしながら聞くと、フェエルは鼻で笑った。


「俺は疲れが出て部屋で寝てる。そういうことだ」

「嘘つきじゃないですか」


 口を尖らせると喉の奥で笑われる。


「お前の『部屋で』、お前と『寝る』。嘘はついてない」


 改めて言われると、急に恥ずかしくなった。赤くなった顔を見られたくなくて、少し下を向く。

 店通りを外れて人通りが少なくなってくると、フェエルはあたしの手を取った。


「え。だ、大丈夫、ですか」

「俺がしなさそうなことをした方がバレん。だてに地味な顔をしていない。猊下以外に気付かれる気はしないな」

「そんなことないでしょう?」

「一般服など着ないからな。バレたことはないぞ? お前がすぐに気付いて驚いたくらいだ」

「……こういうこと、結構してるんですね」


 フェエルはにやりと笑う。確かに、普段柔和な笑みしか浮かべていないのなら、この顔を見て彼だと思う人はいないのかもしれない。


「そうでもない。いつもしていたらさすがにバレる。ここぞという時だけだ」

「今日は『ここぞ』だって言ってくれるんだ」

「お嬢さん。ベッドを共にする時は、その前から雰囲気を作るものですよ。あなたは娼婦ではないのだから」


 総主教補佐の顔をして、窘められる。

 フェエルは「ちゃんとしてやる」って言った。だから、余計なことは言うなってことかな。

 繋がれた指に少し力を入れると、彼の指先が優しく撫で返してくれる。

 ドキドキする。ずっと、こうやって続けられるんじゃないかって、錯覚しそうになる。

 フェエルは慈悲をくれるだけ。

 あたしはもう一度、それを胸に刻んだ。




 部屋で持ち帰った晩御飯を2人で分け合った。

 フェエルは甘い焼き菓子を買ってきてくれていて、それも2人で分け合う。甘いお菓子を食べるのは誕生日以来かもしれない。

 始終優しいフェエルに、昨日とは違う緊張と恥じらいを感じていた。

 ああ。昨日のあたしはどうしてあんなに大胆にできたんだろう。


 フェエルは優しく丁寧にあたしを抱いてくれた。

 その瞬間も、緊張するあたしの耳元で甘く「ナトゥラ」と名を呼んだ。

 幸せで、幸せで、痛みさえも嬉しかった。

 ぎゅっと抱き着くと、優しく髪を撫でられる。


「まだ痛いか?」


 いたわるというよりは不満気な声でそう言われ、指先で目元を拭われて、泣いているのだと気付いた。

 ふるふると首を振る。


「今日は随分としおらしい。拍子抜けだ」

「……名前なんて呼ぶから。昨日は覚えてなかったでしょ?」

「人に名乗らせておいて、自分は名乗りもしない。マティス主教にそれとなく聞いた」

「あたしのことはどうせ忘れるんだから、いいの」

「忘れる? こんな強烈な女を?」

「忘れて」


 何を思っているのか、じっと彼に見つめられる。


「お前は、帝都に――」


 先を聞かないように、キスで塞ぐ。

 聞いちゃ駄目。


「あたしが独り占めできるのは、あなたがここにいる間だけ。あなたをくれればいい。他は何も要らない。あなたの愛も、未練が残るような物も、いらない。何も残さないで。あなたは中央に帰って、猊下と、猊下が愛するものを愛して。そうするあなたが、あたしは好きだから」


 鳶色の瞳が、1度伏せられて、もう1度ゆっくりと開いていく。


「ナトゥラ」


 彼が名を呼んだあとは、優しく。慣れてくると少し激しく、黙って時間が許す限り、あたし達は睦みあった。




「少し無理をさせたかも。すまない」


 身支度を済ませてベッドに腰掛けると、フェエルは横になったままのあたしの頭を撫でた。


「少し休んで、動けるようになったら『聖滴』を受けにおいで。君が最後だ。列が無くなっても、待っているから」


 総主教補佐の顔で最後のキスを落として、彼は帰って行った。彼の場所へ。

 気が抜けて、そのまま眠りに引き込まれる。休息日だから、他の心配がないのは幸いだった。


 2刻の鐘の音で目が覚めて、でも、起き上がるまでにあと鐘を2つ聞くことになった。昼前にはどうにか起き出して、体中につく赤い印にしばし呆然となった。

 何にも残すなって言ったのに!

 鏡で確かめて、首元にもあるのを発見した時、絶対わざとだって気が付いた。

 これで、『聖滴』を受けに来いだなんて、どういう嫌がらせだろう。

 行くけどね! 行きますけどね! 猊下の『聖滴』の為なら、あたし負けない!


 かっちり着込んで、スカーフと、念の為マフラーも巻いて、あたしは教会に向かった。

 列はもう外には無く、礼拝堂に数人並んでいるだけだった。

 猊下を無駄に待たせなくて済んだことに、あたしはほっとする。

 目の前の人が猊下の前に跪いた時、猊下の隣に立っていたフェエルと目が合った。相変わらず、柔和な笑みを浮かべているけれど、視線が一定ではない。逸らされたというわけでもなく、あたしを見ているのは確かなんだけど……


 首元、胸、お腹、内、もも? 少しづつ、下に降りていく視線に、自分でつけた痕を目でなぞっているのだと気付いて、顔に火が点きそうになった。

 猊下の前で!

 あたしが気付いたことに気付いて、ほんの一瞬、口の端が上がる。

 んもう! んもう! その性根、バレても知らないんだから!

 んもう! ……大好き……


 前の人が立ち上がると、主教様は礼拝堂内の人達を外へと誘導した。


「これにて、『聖滴』の受付は終わります。猊下に深い感謝を捧げるとともに、残りの儀式は関係者のみで行いますので、皆様はどうぞお引き取り願います」


 皆が移動する気配を感じながら、あたしは猊下の前に跪いた。

 いつもは頭を垂れているけれど、『聖滴』の時は少し上を向く。

 神秘的な瞳があたしを捉えて、にこりと笑った。


「お名前を」


 涼やかなお声が降ってくる。


「ナトゥラ」

「ナトゥラの新年が幸福でありますように」


 傍らに置かれた、小さな聖杯に入った聖水に指を浸し、猊下はその薬指をあたしの額へと軽く触れた。

 感動に黙って打ち震えているあたしに、猊下はもう1度にっこりと笑いかけた。


「こんなに私のことを歓迎していただいて、ありがとうございました。フェエルには随分我儘を言ったので、その分、と『聖滴』を終えた後の時間、休暇を願い出されてしまいました。自分は夜の間、随分自由にしていたと思ったのですが……」


 ごほんごほん、とわざとらしい咳が響く。


「猊下。彼女にそのような話をされても、彼女が困るだけでは」

「あら。私は同じ年頃の女性として、希望した朝の礼拝にも参加させてもらえないような振る舞いをする殿方に困らせられている気持ちを、共感しようと思っただけですよ」

「猊下は気軽に出歩いて良い人物ではございません。お気持ちを汲んで、希望者全員分の『聖滴』は許可したではございませんか」

「そうでした。フェエルは優秀ですね。いろいろと」


 にこにこと笑い合っているのに、火花が散っているようで、なんとなく、猊下もフェエルの本性を知っているのだなと納得した。周りに他の神官たちもいるから濁してはいるけれど、昨日抜け出していたことも気付いてるみたいじゃない?


「あなたはこの教会のお手伝いをして下さっていると聞きました。どうか、この祈りが終わった後も手伝ってあげてくださいね」


 そう言われて、あたしは猊下の祈りを間近で見られるのだと、顔を綻ばせて頷いた。

 礼拝とは違う、短い祈りだったけれど、猊下はやっぱり美しくて。

 思ったよりも気さくで、可愛らしい一面もあって、あたしの心はポカポカしていた。

 祈りが終わると、猊下は辺りをざっと見渡して、凛とした声で告げた。


「フェエル、こちらの片付けは貴方が残って責任を持っておやりなさい。その代わり、報告はせずに休みに入ってよろしい。他の者は私と共に戻りますよ」


 ざわりと、神官達がざわめいた。


「猊下。総主教補佐おひとりでとは……お休みの意味が……」

「問題ありません。私の優秀な補佐はそのくらいなんとかするでしょう」


 口元だけで笑って、つんと踵を返す猊下に、神官達は慌てて付き従う。いくつかの瞳がフェエルに向けられたけど、フェエルは軽く手を払って、猊下の後ろ姿に頭を下げた。

 扉が閉じられてから、ゆっくり体を起こしたフェエルにそっと聞いてみる。


「……怒られてるの?」


 フェエルはふっと笑った。


「気を使われたのですよ」


 片付けをしている間に、主教様がお昼を用意してくれて、休憩を兼ねて3人で食べる。

 床のモップ掛けまで終わる頃には4の鐘が近かった。

 冬の陽はこの時間にはもう夕陽の色を含んでくる。

 主教様はフェエルに深々と挨拶をして、あたしにもお礼を言って、見送ってくれた。

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