消防車
ヒナタのその晴れ姿はどことなく母さんを思い出させた。
母さんは、若くてキレイな人だった。いつも鮮やかな色のスカートを穿いていた。
まさに、甘い蜜から蜜へ飛び回る蝶のような人だった。
物心がついた時には、すでに父親はいなかった。
そのかわりに、母さんにはいつも『彼氏』がいた。
母さんと俺は、古くて汚い木造の六畳二間のアパートで暮らしていた。
子供の頃は狭いとは思わなかった。
当然『彼氏』は、俺と母さんのうちに居座っていることが、しばしばあった。
小さい時はそれが当たり前のことだったが、次第に母さんの女の一面を見せびらかされることに違和感を感じ始めた。
『彼氏』という奴らは、どこに行くにも俺と母さんの間に入り込んできた。俺は、それがいつも不満で、ごねてばかりいた。
連れて行って貰えるまでが幸せだということにも気がつかずに。
『彼氏』というのは、ようやく俺が仲良くなると、いつの間にかいなくなり、『ケンちゃんよろしくね』と次の見知らぬお兄さんが現れる。
俺は何度も何度も捨て猫のような気分を味わった。
5歳くらいだろうか、幼稚園の年中さんくらいになると、母親と『彼氏』が奥の部屋で何をしているのか、すごく気になるようになった。
俺は手前の部屋にお気に入りの消防車のおもちゃと一緒に追いやられ、『お母さんが開けるまで襖を開けちゃダメよ。約束ね』と言われて、締め出される。そして、わけのわからない音楽が大音量で流れてくる。
最近になって、あの時の曲はマライアキャリーが歌っているものだということを知った。マライアに罪はないが、あの女をレコード屋で見かける度、吐き気が込み上げた。
どうしてもあの部屋で行われていただろう行いが頭をかすめる。
母さんは若い男と口づけを交わし、いちゃいちゃと性行為に励んでいたのに違いない。
幼かった俺は、それが一体どんな行為なのか分からなくても、時々聞こえてくるかすかな母親の声に歓喜と興奮を感じ取ることができた。
俺の孤独感はより一層高まり、次第に目の前の消防車にさえ興味を抱かなくなっていく。
襖からは、『約束』という重い契約を受けて、開けてはいけないオーラが漂い、まるで自分の家が自分のうちではなく、魔女の要塞に一人で紛れ込んでしまったかのようだった。
この時間が早く終わることを、ただひたすら願い、ぐるぐると壊れかけた消防車を回し続けた。
苦痛だった。
仲間外れにされた寂しさと母親を取られたという嫉妬は、母親に対する憎しみへと変わった。
俺は、愛情と憎悪とのはざまで、『母さんがいなくなれば、僕は幸せになれる』と強く思うようになった。
強い愛情は、見返りが得られない時、いとも簡単に憎悪に変わる。そして憎悪は、いとも簡単に殺意へと変わるのだ。
子供は純粋であるが故に、残酷で本能のままに生きている。
子供には殺意がないなどというのは大人の幻想でしかない。
子供にとって『殺す』ということは、ありんこも人間も大して変わらない。
そんな風に俺は、母さんを殺した。
俺は、母さんを、殺した。
7歳の時のことだ。今日のように蒸し暑い夏の日だった。セミの声がうるさいくらいに聞こえていた。
俺はおうちで一人、お留守番をさせられていた。
母さんと『彼氏』は、大きなスイカを持って帰ってきた。
母さんは、夏らしく白いワンピースに麦わら帽子を被っていて、流れ落ちる汗を拭いながら、『ただいま、ケンちゃん。スイカ買ってきたよ』と満面の笑みで言った。
『スイカ食べたい!』
『うん。夜ご飯のあと食べようね』
『イヤだ!今食べたい!』
『約束。ご飯のあと一緒に食べよう。約束しよ』
『……わかった。約束ね』
その約束は、守られることはなかった。
夕飯を食べてから、俺はうとうととしてしまい、そのまま眠ってしまった。起きてみると母さんの姿はなかった。
多分、奥の部屋だと思った。
その日は俺が寝ていたからか、音楽はかかっていなかった。
奥の部屋から、くちゃくちゃと嫌な音がしていた。
俺はスイカが食べたくて食べたくて、母さんを呼びに、とうとう襖を開けてしまった。
先に約束を守らなかったのは、お母さんの方だ。
僕は悪くない。
襖の奥には、俺が見たこともない母さんの姿があった。
母さんが裸で腰をかがめ、男の股間に顔をうずめていたのだ。
俺はただびっくりして、その場に立ち尽くしていた。
母さんはすぐに俺の存在に気づき、悲鳴をあげた。
『何してるの?お母さんが開けるまで開けちゃダメって言ったでしょ!』
母さんの手のひらが大きく振りかぶって、俺の頬をはたいていた。
まるで顔から血が溢れ出したかのごとく、じんじんと痛み、驚きと恐怖で涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
『僕はお母さんの何?そこで彼氏と、いつも何をしてるの』
そう心の中で叫んだが、うまく声にはならなかった。
僕の大好きだったお母さん、優しくてキレイなお母さん、スイカを食べようと約束してくれたお母さん。僕のお母さんは、もうどこにもいなかった。
俺は襖を閉めると、母さんが掛けてくれたであろうブランケットに顔をうずめて泣いた。
母さんはいつの間にかパジャマに着替えて、俺のそばに座った。
『ケンちゃん、ごめんね。お母さんが悪かった。ただちょっとびっくりして、叩いちゃった。ごめんね』
母さんはふわっと俺を包むように抱きしめた。
『汚い手で触るな! お前なんかもうお母さんじゃない!一人にしてよ!』
『わかった。明日、スイカ食べようね。約束』
母さんは、奥の部屋に戻っていった。
どうせ約束なんか守らないくせに!!
母さんなんていなくなればいい。
守られない約束を待ちわびるのは、もうたくさんだ。
顔をあげると、玄関には先週買った花火が目に入った。
『ケンちゃん、今度の日曜日、二人で花火しようか?』
『やったぁ!』
日曜日にお母さんの『彼氏』が風邪を引いて、お見舞いに行ってしまったことを思い出した。
俺の目からはまた涙がぼろぼろと溢れ出た。
結局、約束なんか守られないじゃないか。
なんだか、もう全てがどうでも良かった。
全部消えて無くなればいいんだ。
どうして母さんは僕なんか産んだんだ。
どうして僕はいつも待っていなければいけないんだ。
どうしてうちにはお父さんがいないんだ。
気づくと俺は玄関から花火を持ってきていた。
机の上には、タバコの灰皿とライターが置いてあった。
何度かライターを点けては消し、消しては点けてみた。
『これを花火に点けたら、どうなるかな。火事になるのかな。火事になったら、母さんも母さんの彼氏も僕もみんな死んじゃうのかな』などと考えていた。
俺は一体何時間そうやっていたんだろう。
新聞には、午前1時に出火と書いてあった。
ブランケットの中に花火を押し込んで、ライターに火を点けた。
火は驚くほど素早く燃え広がって、すぐに物凄い煙が部屋中に立ち込めた。
もう涙は出ていなかった。
お気に入りの消防車も、火を消し止めることもできず、ただどろどろと溶けていった。
母さんたちは、寝ているようだった。
苦しくて暑くて激しく咳き込んだ。
だけど、体を丸めて我慢した。
火が天井を覆った時だった。襖が開いて母さんが飛び出してきた。
『ケンちゃん、大丈夫?ケンちゃん早く逃げなさい』
激しく咳き込みながら母さんが叫んだ。しかしもうあたりは煙だらけで、どちらが玄関なのかも、よくわからなかった。苦しくて気が遠くなりそうだった。
『ケンちゃん、早く!』
母さんは俺の体を掴んで、必死に這いつくばって玄関を目指した。
最後に目をかすかに開けた時、母さんは『ケンちゃん生きるのよ』と笑顔で言ったような気がしたが、錯覚だったかもしれない。
それが母さんを見た最後だ。
俺は奇跡的に助かり、母さんと彼氏は焼け跡から発見された。
事件はタバコの不始末が原因ということで、片付けられ、俺は何か聞かれることすらなかった。
当時、近くで強盗殺人事件が起きていて、警察は忙しかったのかもしれない。
そして親戚もいなかった俺は、養護施設に預けられることとなり、今の両親に10歳の時に引き取られた。
勉強だけは得意で、頭の良かった俺は、子供の出来ない医者の息子としておあつらえ向きだったのだろう。
彼らは、身よりのない子をひきとって、まるで慈善事業をしてるかようだが、結局は自分の財産を赤の他人に取られたくないだけだ。
俺は、母親を火事で失った可哀想な子ではなく、実際は自分の母親を焼き殺した殺人者だということも知らずに。
あの時の火傷は今でも消えずに俺の右腕に張り付いている。傷が痛む度に母親の顔がちらついたが、何度も何度も闇に葬った。
そうやって何度も、記憶の中で母親を殺してきたのだ。
もう思い出さまい、と。
なのになぜ、こんなにもありありと覚えているのか。なぜ、今日こんなことを思い出してしまったんだろう。
右腕の火傷がひりひりと痛んだ。
母さん、アナタは何故、僕を産んだのですか?
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