夜の蝶
『ケンちゃん、ケンちゃんはどのお花が好き?』
『お花?僕チューリップが好き!ママは?』
『ママはね、タンポポが好きよ』
『どうして?』
『タンポポってさ、あんなに小さくて可愛い花なのに、どんなに土が無いコンクリートの隙間でも咲いてるでしょ?すごく強くて一生懸命に生きてるんだよね。ママは、タンポポみたいな人になりたいな』
『僕も!僕もタンポポみたいに強くてたくましい人になるよ!ママと一緒に』
目が覚めると、まだ夜中の3時だった。
どうしてこんな夢を見たのだろう。たいして暑くはなかったが、俺のTシャツは雨を被ったようにびしょ濡れになっていた。
あれはいつだっただろうか。
もう母さんの顔さえうまく思い出せなかったはずなのに、まだこんなことを覚えていたなんて。
あれは確か、幼稚園の帰り道だった。
母さんはいつも仕事で、俺は一人で園バスから家まで歩いて帰っていて、その日だけ、なぜか園バスを降りると母さんが笑顔で立っていて、『ケンちゃん一緒に帰ろうか』と手をつないでくれたんだ。
その手が温かくて大きくて、俺はすごく嬉しかった。
また眠りにつこうとしたが、うまく寝付けなかった。薄闇にうっすらと吐き気が混じる。
俺にとって思い出とは、真夜中に口に押し込まれるラーメンのようなものかもしれない。食べれば苦しいのは知ってるが、空腹に抗うことはできない。そして、罪悪感と膨満感に苛まれる。
キッチンに水を飲みに行くと、カーテンが開いていて月明かりが射し込んでいた。
ヒナタはまた猫みたいに丸まって、ソファに横になっている。光が当たり、髪はキラキラと煌めき、肌は透き通って見えた。
まるで、ガラス細工の人形のようだった。
「どうしたんですか?」
猫みたいに丸まったままのヒナタの口だけが、突然、動いた。
「あ、起こしちゃった?」
慌てて持ち上げたグラスをシンクに置く。
「いえ、起きていましたから」
ヒナタは目も開かずに、そのまま口だけを動かしながら話し続けた。
「そうなの?もう3時だけど」
「うなされていました」
「どんな夢を見たの?」
「いえ、アナタが」
「あぁ、うん……」
「どんな夢を見てたの?」
ヒナタは俺の口調を真似するように、同じ質問を向けた。
「言いたくないよ」
俺がそう言うと、月明かりの中で、彼女はゆっくりと目を開いた。
「大丈夫。夢というものは、時に残酷であり、時には自分の願望を叶えてくれます。怖い夢を見るというのは人間が成長する過程で、必要不可欠なものです」
まるで、何もかも彼女には見透かされてしまいそうなほど、美しい瞳をしていた。
その瞳で、彼女は真っ直ぐに俺を見つめた。
「不思議だな。ヒナタに慰められるなんて。それと、もう敬語はやめてくれない?多分俺より年上だろ?それと、『アナタ』も。俺にも名前があるからさ」
「わかりました。これからは”タメ口”で話します」
彼女は暫く黙って何かを思い出すように言った。
「それ、私が最初に言ったんだよね」
「何を?」
「うん、アナタって呼ばないでって」
「そうだよ」
「アナタもアナタって呼ばれると嫌?」
「いや、その……最初はケンちゃんて呼んでただろ?」
「ケンちゃんと呼んだら、すごく不快そうな顔をしてた」
「そうかな…」
「どうして?」
「いいよ。ケンちゃんで。拒む理由なんて何もない」
「言いたくないのね。いずれ話せる時が来るといいね。……おやすみ」
ヒナタはそう言うと、またソファーに同じ様に潜り込んで、目を閉じた。
「明日、渋谷に洋服でも買いに行く?そのワンピしかないんじゃ困るだろ?」
「困りはしないけど、不衛生だよね」
ヒナタは目を閉じたまま答えた。
なんだかヒナタの『タメ口』が少しおかしくて、その前に見ていた夢のことは、忘れてしまえた。
俺たちは次の日、朝から渋谷に出掛けた。ヒナタがうちに来てからは渋谷にもあまり行っていなかった。別にいつだって、何か目的があって渋谷にいるわけでもなかった。
ヒナタは朝から少し嬉しそうだった。
やっぱりもっと早く洋服を買ってやれば良かったなと思った。
男は、女が何をして欲しいのか言われなければよく分からない鈍感な生き物だ。そして女は、男が女心を理解していないことをよく分かっていない鈍感な生き物だ。
「どこに買いに行く?」
スクランブル交差点の湧き返るような人混みの中で、彼女に話しかけた。
「どこって?どの店に行くかってこと?」
「そう」
「私、お店がわからないから」
「渋谷は初めて?」
「初めてじゃない。この前ケンちゃんを探しに来た」
「あぁ、あれが最初?」
「うん」
「それにしても、俺があそこにいるってどうやって調べたの?」
「お父さんに、教えてもらった」
「君のお父さんて、どんな人?なんで俺のことを知ってたのかな」
長い沈黙のあとに、ようやくヒナタは口を開いた。
「お父さんは……殺されたの」
ヒナタの苦しそうな表情を見て、これは冗談なんかじゃないと思った。
それでも、まるでなんて答えてあげればいいのか、よくわからなかった。
信号は青に変わり、次々と人が交差点に散らばっていく。
その中で、俺とヒナタはまるで水の流れを変える岩のように立ち止まって見つめ合っていた。
「正確に言えば、自殺だった。……お父さんは、お仕事のことで、とっても苦しんでいて。ケンちゃんの話を聞いたのは、お父さんが死ぬ前の日のこと。私が分かっているのは、これくらい」
「お父さんの仕事って何してたの?」
俺は緊張して、体が堅くなっているのを感じた。
何かヒナタの『お父さん』について、思い当たる節がないでもなかったからだ。
「お父さんの仕事は、よく知らない。難しいお仕事みたい」
「そっか」
なんだかほっとして体の力が抜けた。
「109って知ってる?あそこに行こうか?」
「可愛い服、あるかな?」
「わかんない。俺も行くの初めてだから」
俺たちは、そのまま109に向かった。
109とは、渋谷にある女子高生やギャル御用達のアパレルブランドのテナントがぎっしり入った8F建てのビルだ。
渋谷の交差点を渡ると正面に銀色の安っぽい未来をイメージしたような丸いデザインのビルが見えてくる。
大きな109と型どられた赤い看板が上のほうについている。
俺は男だから一度も入ったことはなかったが、よく109前を通るので、かなりなじみ深い存在だった。
渋谷に歩いている女の子で、ここに入った事がない人間はいないのではないか。
109には、いわゆるギャル服ばかりが並んでいて、ヒナタに似合うものは無さそうだったが、本人は嬉しそうにしていた。もうすぐ夏だからか店頭には、ワンピースが目立った。
それにしても、過剰な露出のワンピースが多くて、どれを選んであげればいいのか、正直言ってよくわからなかった。
「そのワンピース昨日入ってきたばっかりなんですよぉ。良かったらゼンゼン試着してもらっちゃっていいんでぇ。すっごいお姉さんにお似合いだと思いますよぉ」
俺はこういう適当なセールストークの店員は苦手だ。
なんで服屋の店員はどいつもこいつもこんなに適当なんだろう。
たまにはビシッと『お客様にはその柄は似合ってませんね。』くらい言って欲しい。
そのくらいハッキリ言う奴の勧める服なら、信用できる気がする。
そんなことを考えている間にヒナタは試着室に連れて行かれていた。
しょうがなく俺は後を追いかけるようについていった。こんな店で一人にされたらたまったもんじゃない。
試着室は薄茶色のカーテンで丸く仕切られていた。
ヒナタは店員に勧められた黒に紫のラインが入ていて胸が大きく開いたワンピースを試着するようだ。
とても彼女のイメージとはかけ離れていて、着ている姿が想像できなかった。
「彼女さん、すごく綺麗ですねぇ。スタイルいいから、ああゆうワンピとか超似合いますよぉ」
ヒナタは彼女じゃなかったが、あえて否定するのもためらわれた。たとえわざとらしいお世辞だとしても、どことなく嬉しくないではなかった。飼い猫が誉められたような気分と一緒だろう。
「ケンちゃん、いる?後ろのジッパーが髪の毛に引っかかっちゃって取れないの……」
いつの間にか店員は別の客に話しかけられて、どこかへ行ってしまった。
俺は試着室に2人きりで入るのは気まずい気がしたが、店員に『彼女さん』のジッパーを頼むのも不自然に思われた。
しょうがない、服は着ているんだから問題ないと言い聞かせて、恐る恐るカーテンを開け、そのまま試着室に入った。
開けたカーテンを閉めた方がいいのか、開けたままにした方がいいのか分からず、とっさに閉めてしまった。
試着室は人一人分しかなく、なんだか薄暗くて、ヒナタと密着せざるをえなかった。
見下ろすとヒナタの白いうなじがぼんやりと浮かび上がっていて、長い髪を前に掻き分けてジッパーをまさぐっていた。
俺は正直に言うと、かすかに興奮していた。
心臓が今にも口から飛び出てきそうだ。
ヒナタに心臓の音が聞こえないように、吐息がかからないようにしようとすればするほど、呼吸が荒くなってしてしまいそうで、俺は息を殺していた。なのに、こんな時に限って、喉がごくっと音を鳴らしてしまう。
「ケンちゃん?どうしたの?後ろのジッパーのとこ、髪の毛がひっかかってるみたいだから、外してくれる?」
「う、うん」
ジッパーに右手を伸ばすと、薬指がヒナタの首筋に触れた。
ひんやりとしていた。
左手で髪を掴んでみると、なんだかシャンプーの甘い匂いがした。
俺と同じシャンプーの匂いに、ヒナタ自身の香りが混じっていた。
女性の後ろ姿が、こんなに官能的なものとは、感じたことがなかった。手が震えて、うまく髪の毛を外せなかった。
「緊張してるね。大丈夫、ゆっくりやっていいよ」
いつも子供みたいなヒナタが、突然にすごく大人の女性に見えて、バカにされてるようで悔しかった。
「別に緊張してないよ。すごく絡まってたから、なかなか取れなかっただけ。出来たよ」
俺はぶっきらぼうに早口で返答した。
「心拍数が高いみたいだったから。ありがとう」
頭にカーっと血がのぼってくるのが分かった。俺は急いで試着室を出る。
多分、今俺の顔は、茹で蛸みたいに真っ赤になってるに違いない。恥ずかしくて悔しくて、穴があったら入りたい気分だった。
ちょうどその時、あのいちいち語尾をやたらと伸ばす下品な口調の店員が戻ってきた。
「彼女さん、どおでしたかぁ?」
「まだ見てないから」
「あー、そうだったんだぁ。お姉さん、サイズどうですかぁ?」
店員は、試着室のヒナタに向かって呼びかけた。
「あ、サイズはぴったりだと思います」
「お姉さん、開けちゃってもいいですかぁ?」
店員は、返事も待たずに試着室のカーテンに手をかけた。
「あ、はい」
「うわぁ、マジでかわいぃ。出てきてこっちの鏡で見ちゃってくださいぃ」
俺はヒナタと顔を合わせるのが気まずくて、下を向いていた。
ヒナタがカーテンの奥から出てきた瞬間、まるでスローモーションのようにゆっくりと、新しいヒナタが俺の視界に入ってきた。
それはまるで、蝶がさなぎから美しい姿になって出てくるかのような神秘的な光景だった。
ヒナタがヒナタでないかのような錯覚にさえ囚われた。
彼女の黒い大きな瞳と長い黒髪と白い肌に黒いワンピースがよく映えていた。
そして、紫のラインは今まで彼女から感じたことのない妖艶な色気を演出していた。
下品だと思っていたワンピースも、彼女が着ると、まるで別の神秘的な装束のように感じられる。
まさに彼女は、暗がりから飛んで現れた夜の蝶のように不思議な光を放っているように見えた。
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