Happy Wallet
藤光
Happy Wallet
それは妻に買ってもらったばかりの長財布だった。ファスナーのついた小銭入れに硬貨は一枚も入っていなかった。
――嘘だろ。
給料日前の金曜日に、薄くなった財布を見ると寂しい思いをするのは毎月のこととして、遣った覚えのない現金が姿を消してしまったとなると話が変わってくる。
「抜いた?」
「抜くわけないでしょ」
ネクタイを締め、スーツの上着に袖を通しながら、妻にそれとなく訊いてみたが、馬鹿にするなと言わんばかりに否定された。そりゃ、そうだ。妻はケチ……もとい、倹約家だが黙って夫の財布からお金を抜くような女ではない。
「どうしたの。お金、なくなったの?」
「あるよあるよ、大丈夫」
逆に尋ねられてあわてて取り繕う。朝から『せっかく財布を買ってあげたのに、無駄遣いするからよ』なんて嫌味は聞かされたくない。が、妻の手前を取り繕ったところでお金が戻ってくるわけではない。確か……千円札でジュースを買ったおつり、九百円近くが小銭入れには残っていたはずだ。
会社へは、定期券があれば通勤できるので問題ないが、困るのは昼食だ。「弁当を作ってくれ」なんて言おうものなら、なんでお小遣いで買わないの? とやぶ蛇になりかねない。仕方がないので不安を抱えながら出勤してきたのだが……。
昼休みを知らせるチャイムが鳴り、やおら取り出した財布にお金は、やはり一円も入っていなかった。朝のは何かの見間違いかもしれないと期待していたのだが、ぼくの認知能力に異状はなかったようだ。
未練がましく小銭入れの底を矯めつ眇めつしていると、そこに星の印が刻印されているのに気がついた。
なんだこれは、ブランドマークと違うぞと思いながら指でなぞると、突然、持っていた財布がぐんぐんと大きくなってきた。それともぼくが小さくなっているのだろうか。いずれにしろぼくは、ぼくの体よりも大きく口を開けた小銭入れの中へ転がり落ちていくことになった。
財布の中には、どちらが上なのか、また下なのかも分からぬくらいに大小様々な大きさや長さの配管が張り巡らされ、――それも新しいのやら古いのやら、塩ビのやら鉄管のやらで、埋め尽くされていた。ぼくが今まさに立っている足元も赤錆の浮いた太い鉄管が這っており、脆くなって崩れ落ちそうだった。
「あんた危ねえぞ」
足元からやってくる声に下を覗き見ると、幾重にも重なった配管の向こう側で、紺地に大きく星印が染め抜かれた法被に黒の股引、白鉢巻の男がひとり、忙しそうに立ち働いていた。
驚いたぼくが踏ん張った拍子に、錆びた配管を踏み抜いてしまった。すると、足元の裂けた配管から、蒸気と紙切れが勢いよく噴き出してきて、何十枚もぼくの顔に当たった。そのうちの一枚を引き剥がすと……。
「千円札?」
飛び出してきたのは千円紙幣だった。
「大丈夫かい」
するすると身軽に配管をよじ登ってきた法被の男は、破れた鉄管に繋がるバルブを、きゅきゅっと手早く閉じて蒸気の噴出を止めてくれた。いったいここで何してるんだと男に訊くと、世の中のお金の流れを決めているのだという。
「金は天下の回りものっていうだろ」
ここでは硬貨や紙幣が流れる配管を繋いだり、外したり、バルブを開けたり、閉めたりして、世界中のどこの誰の財布にどれだけお金を回すのかを決めているらしい。ここに伸びている配管は、あらゆる人のすべての財布に繋がっていてお金を送り込んだり、吸い取ったりしているらしい。
「吸い取ってる?」
ぴんときたぼくが、財布からいつの間にかお金がなくなっていることを訴えると、法被の男は頭を掻きながら謝った。
「すまねえ。そりゃきっと、おいらの配管間違いだ。ほんとなら億万長者の財布に繋ぐはずの配管を、あんたの財布に繋いじまったに違いねえ」
なるほど桁外れの大金持ちなら、少々財布が軽くなったところで、持ち主はお金が吸い取られたことに気づかないかもしれない。
「すぐ直すよ」男はひょいと配管を渡っていって、ぼくの財布に繋がる太い『排金用』配管を取り外し、逆に『給金用』を設置した。
「これで元どおりになるはずさ」
じゃあなと言い残して、法被の男は来た時と同じように、素軽く林立する配管の列を奥の方へ見えなくなった。彼の仕事は忙しそうだ。
よく見ると財布に繋がっている配管は、『給金用』が一本と『排金用』が二本だ。入ってくるのが1に対して出ていくのが2ということになる。道理で入るお金より出ていくお金が多いわけだ。
ここは思案のしどころだぞ。法被の男が戻るまでに、ぼくの財布に『給金用』の配管を増設したらどうなるだろう……。
ふと気づいてみると、ぼくは財布を手に社員食堂の前に立っていて、小銭入れを覗き込んでいた。
――八百六十円。
財布にお金が戻ってきてる……と考えるより、今まで財布からお金がなくなったと考えてたぼくがどうにかしていたのだ。その証拠に、小銭入れに星印などついていない。理由はともかく、給料日前の危機は脱した。今日は給与振込日なのだ。
ところが、帰宅後、妻が「今月もお疲れ様でした。お給料が振り込まれていたから、お小遣いを入れておくわね」と、鞄から取り出したぼくの財布に来月分のお小遣いを入れようとして、その手が止まった――。
「どうしてお給料日なのに、三万円も入ってるの? どうしたの、このお金!」
三万円は妻に取り上げられてしまった。
小心者のぼくは、どうせ妻に回収されるならもっと配管を増設すればよかったと後悔した。
Happy Wallet 藤光 @gigan_280614
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