外伝・初顔合わせ(37)〜女同士の舌戦は怖い〜

 長い風呂を終えて、姫美依菜と天ノ宮は天ノ宮部屋稽古場の上がり畳へと戻ってきた。

 そこに入る直前、いくつもの美味しい匂いが姫美依菜の鼻を突っついた。

「ちゃんこ、できてますね」

 握りしめた手を離しながら姫美依菜は天ノ宮に笑いかけた。

「ええ、うちのちゃんこ番たちが腕によりをかけて作ったちゃんこを十分味わってくださいな。……もっとも、料理自動製造機を使ったのも多いですけど」

 天ノ宮も笑みを返しながらそう言って三和土で草履を脱いだ。

 ちゃんこって部屋ごとに特徴があるけど、この部屋のちゃんこってどんなのかしら?

 姫美依菜は胸に期待を躍らせながら自分も草履を脱いだ。

 三和土にある草履の数は増えていた。つまり、自分たちが風呂に入っている間に部屋に帰ってきた女力士がいるのだ。

 天ノ宮部屋の所属女力士って……。

 表示窓ヒョウジウィンドを開く前に自分の記憶を探りながら姫美依菜は上がり畳の敷居をまたいだ。

「おかえりぃ〜。天ノ宮ちゃあ〜ん。姫美依菜関〜ぃ」

 聞き慣れた、良く言えば優しい声、悪く言えばふにゃふにゃした力のない声が姫美依菜の耳に聞こえてきた。

 天ノ宮部屋所属の親方、島村親方だ。

 かつて三矢事件と呼ばれた相撲スキャンダルで現役を追われた彼女は紆余曲折あってこの部屋の親方をしている。

 彼女は上がり畳にいくつか置かれた大きなちゃぶ台の一台の前に座っていた。

 島村親方があぐらをかいて座っている左右には、それぞれ違う色や湯文字の相撲浴衣を着た数名の女力士が思い思いの格好で座っていた。

 髪型が長い以外はそれぞれまちまちなので、姫美依菜にはどの階級の女力士なのかひと目で判別がついた。十両以上の力士、関取だ。

 天ノ宮部屋の設立時、部屋には天ノ宮以外の力士は凜花のように月詠部屋からの移籍力士、他の部屋からの移籍力士の他、三矢事件で追放された後、突然行われた再調査により無罪と判定され女角界に復帰した女力士が何名かいた。その力士たちは天ノ宮部屋の十両力士として再出発することになったのだ。

 そのような構成で天ノ宮部屋の女力士は構成されている。

 ちゃぶ台を囲んで座っている女力士のうちの一人、薄いピンクと白が混じったような色の相撲浴衣に身を包んだ細いながらも筋肉はありそうな、姫美依菜より背の低い、さっぱりとした美人顔の女性が二人、というか天ノ宮に声をかけた。

「天ノ宮関、おかえり」

「そちらこそおかえり、彩華姫あやかひめ関。きょうはどうでした?」

 彩華姫関、と呼ばれた肩程度まで伸びた栗色の髪の女力士が顔を傾け、

「……今日は負けちゃった。うーん、復帰してから勝負勘がまだまだ戻ってきてないわ。稽古と実戦で戻さないとね」

 苦笑した。

 彩華姫か。この人、三矢事件の復帰組ね。

 姫美依菜は表示窓で確認するより早く自分の記憶から彼女の詳細を思い出していた。

 彼女は三矢事件の際に追放された女力士の一人で、他の事件に関わった女力士の多くと同様に、三矢事件の中心人物と目された男子大相撲元大関、鬼金剛の恋人の一人だった。

 この世界は職能などが存在する関係から、上流階級の男子・女子は職能を持つ女性・男性などを複数、あるいは多数配偶者とすることが普通に行われている。

 また、主に男力士は気力・体力を回復させるために、その回復用の相手として「力巫女」と呼ばれる女性を付き人に置くのが通例である。

 そのような理由から鬼金剛は多数の女性を恋人としていたのだが、そのうちの一人、遊郭の「三矢」に勤めていた花魁の一人が、他の男力士や女力士などと通じて裏賭博などの連絡役となっていた。それが発覚したのが、「三矢事件」というわけなのだ。

 彩華姫の姿はブランクがありながらも全盛期のそれと変わらぬ佇まい、美しさであった。ただわずかに歳を重ねて艶やかさを増したようにも思えた。

 その彩華姫が自然をこちらに向けると、今度は明るい笑顔で話しかけてきた。

「貴女が新十両の姫美依菜関ね。はじめまして」

「こちらこそはじめまして、彩華姫関」

「島村親方に聞いたわよ。今日天ノ宮関に誘われてアンマに来たんですってね? いい稽古できた?」

 彩華姫の問いに姫美依菜は少し間を置き、

「ええ、たっぷりと。素相撲で天ノ宮関に勝ち越しましたもの」

 そう力強く応えて不敵な笑みを返した。

 その不遜とも言える応えに、彩華姫は髪の色と同じ目を大きく見開いて丸くして、

「そう……。天ノ宮関に勝ち越すなんて……」

 と心底意外そうな声を発した。

 彼女の驚いた表情を見て、姫美依菜は、でも、という表情を浮かべながら左右の手をいやいや、というように振り、

「今日の本割では天ノ宮関に負けちゃったんですけどね……」

 と苦笑気味の声を上げた。

 姫美依菜の心境は自慢と恥辱の間にあった。本割では負け、稽古では勝ったと言う意味で。どうやら午後の稽古もあるので、それで天ノ宮に対して優位を保っておかないと、次の対戦も同じような結果になる。彼女はそう危惧していた。

 そんな姫美依菜の心中を察してか、彩華姫は明るさを増した声で、

「いいのよ姫美依菜関、稽古を積んで、次勝てばいいんだから」

 彼女を励ました。

 その時、

「彩華姫さーん、美依菜ちゃんを自分の弟子みたいに言わないでよ……」

 二人の会話を聞いていた天ノ宮が両頬を膨らませ、両手をそれぞれの腰に当てて不満を表明した。

「ごめんごめん。この娘がつい可愛らしくて……」

 彩華姫は両手を合わせて天ノ宮に謝ると、次に姫美依菜の方を向き、

「まっ、あたしも一両目だし、勝ち星からするともしかすると貴女と対戦があるかもしれないから、そのときはよろしく頼むわね。負けないわよ」

 片目をつむった。

 姫美依菜は挑戦の言葉に、不敵な笑みを取り戻すと、

「わたし、負けませんから。今場所、また天ノ宮関と対戦したいですから」

 言葉の手袋を投げ返した。

「あら」彩華姫は再び目を丸くした。「天ノ宮関、姫美依菜関がこんなこと言ってますけど」

 姉弟子力士(女子大相撲歴ではそうである)の言葉を受けて、天ノ宮はまず彩華姫を、それから姫美依菜の方を向き、

「わたくしも、負けませんから」

 と唇の端を歪めた。

 天ノ宮は姫美依菜を、姫美依菜は天ノ宮を見合った。カブキタウン国技館の土俵上で、組衣にまわし姿で見合ったあの感覚が蘇った。

 

 ──今場所、これからも負けないから。もし負けても貴女には負けないから。


 ──一番ぐらい、負けてもらえないかなあ。そしたら、今度は勝つんだから。


 無言の言葉が、交差した。

 空気が、ぴーんと張り詰めた。

 ちゃぶ台を囲んでいた彩華姫以下十両力士、その近くでちゃぶ台近くに座っていたり、立ったり畳に座っていたりした幕下以下女力士たちが息を呑んだ。

 その刹那だった。


 ぱんっ、ぱんっ。


 手を叩くことで発生する破裂音が二連続で上がり畳中に鳴り響いた。

 そして続けざま、すべての人を脱力させる腑抜けた声が周囲へと飛んだ。


「そんなことより〜、ちゃんこの準備ができましたよ〜ぉ」


 周囲の視線がその声の持ち主へと集まった。


 見れば、島村親方が、変わらぬのほほんとした笑みで、天ノ宮と姫美依菜を見つめいていた。

 親方の力の抜けた声と表情を見るなり、姫美依菜と天ノ宮も、肩の力を抜き、ほっ、と一息吐くと、


「しょうがないわね、美依菜ちゃん」

「ええ、天ノ宮関」

 

 苦笑しあうのであった。



                              (続く)


 

 

 

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