外伝・初顔合わせ(5)〜誘われているのに逃げるとこうなります〜
「姫美依菜関は、いらっしゃるかしらー?」
カブキタウン国技館東側浴場の入口扉を開けるなり、浴場内へよく響き渡る済んだ大きな声でそう呼びかけたのは、姫美依菜が先程対戦した、天ノ宮関だった。
彼女は銀髪をアップにまとめ、手には白い自分の名入りタオルを持ち、その真っ白な肌の体は、まごうことなく生まれたままの姿であった。
取り組みから少し間が空いているので、彼女はとっくに風呂に入ってもいいはずだ
。それなのに。
──もしかして、私が風呂に入るのを待っていたのかしら……。
姫美依菜は訝しんだ。
そのまま、顔を半ば湯の中へと沈めたまま、じっと息を潜めていた。
天ノ宮は浴場内を見渡すと、ちら、とある一点を見やると、
「ふっふーん」
と笑い、それから空いているシャワーヘッドの元へと向かい、そこに置いてある風呂椅子に腰掛け、水栓に手をやる。
その様子を見ながら、浴槽に半ば水没した姫美依菜は、
──ようし、気付かれないように、そおっと、そおっと……。
ゆっくり、ゆっくりと足を動かしながら、風呂桶の縁を目指そうとしたときだった。
突如、
そこには極太の大文字でこう書かれていた。
『気づいてないと思った? 残念! とっくに気がついていました!』
その次の瞬間、姫美依菜の全身に電撃にも似たしびれが走った。
「……qうぇrちゅいおお!」
そのまま浴槽の中で身動きが取れなくなる。
なんとかもがいて体を浮かび上がらせ、顔だけはかろうじてだしておく。
手足が動かせないか試してみるが、神経が麻痺しているようで、まったく動かない。動かせない。
その間にも、目の前の洗い場で鼻歌を歌いながら体を洗っていた天ノ宮はあっという間にシャワーを終え、ゆっくりと立ち上がった。
そして振り返り、こちらを見ると、
「姫美依菜関、ゆっくりとお話しいたしましょ♡」
と屈託のない笑みを浮かべると、こちらに近づいてくる。
二人の距離は近いはずだったけれども、姫美依菜にとってはひどく遠いものに思えた。
姫美依菜は天ノ宮の顔を見た。
はっきり見ているはずなのに、ひどくぼんやりして見えた。
しかし、笑っていることだけはわかった。
その、彼女の笑顔に、姫美依菜の背中を冷たいものが一つ走った。
「〜〜〜〜〜! 〜〜〜〜〜〜〜!!」
姫美依菜は声にならない声で叫び、周りに助けを求めた。
しかし。
浴場にいた女力士たちは、一瞬彼女のことを見るものの、すぐさま何事もなかったかのように、湯船に浸かっていたり、体を洗っていたり、浴場をあとにしたりしていた。
ああ無情!
怯え顔の姫美依菜をよそに、銀髪に金の瞳の皇族姫巫女力士は変わらぬ笑みで浴槽の中に入ると、哀れな犠牲者の隣へと身を沈めた。
姫美依菜のすぐそばなのに、彼女にとっては何キロも遠くに思えた。
わずかに、水面が盛り上がる。
そして、そのまましばらく無言のときを迎えた。
姫美依菜は、生きた心地がしなかった。このまま死ぬのではないかとさえ思えた。
──なんで、なんでこっちに来たのよ! わざわざ……!
怯えた様子の姫美依菜の顔をしばらく慈愛の女神の顔で見つめていた姫君は、右手を姫美依菜の左手に重ねると、
『今日の対戦、本当に、本当にありがとうございました、姫美依菜関』
表示窓越しの音声通信でそう言ってきた。
突然のお礼の言葉に、一瞬何を言っているのかわからなくなり、ポカンと口を開けて、
『え、なんの、ことですか……?』
思わず尋ねてしまった。
天ノ宮の顔を見ずに。
天ノ宮はその問いを聞くと、すこし困った顔をした風に、
『ですから、今日の対戦、ありがとうございました、ですよ』
そう音声をかけてきた。
それでも姫美依菜はえ、あ、という顔をしていたが、相手の方を向き、顔を見た。
彼女の顔が、少しはっきりと見えてきた。
息遣いが聞こえてきたような気がした。
──姫様、心からそう言ってくださっているんだ。
彼女はそう理解すると、少しだけ笑みを見せて、
『こちらこそ、ありがとうございました、天ノ宮関』
と返した。
しかしすぐさま姫美依菜はむっとした顔を見せると、
『なんで今あんな仕打ちなさったんですか! ついでに土俵上でも!』
と声を荒げる。
その様に天ノ宮は少し目を細めて、口の端を歪め、意地の悪い表情を見せた。
まるで獲物を見た猛禽類のようである。
『あら、姫美依菜関、今こっそりと逃げようとしたでしょ? 逃げようとしてもそうはいきませんよ』
『……』
『それにね』天ノ宮は少し困った表情に顔を戻して言葉を続ける。『あなたが本気でわたくしに挑んでくれたから、つい本気になっちゃって。あんなことになっちゃって、本当に申し訳なく思っているわ。ごめんなさい』
天ノ宮は言って、頭を水面近くまで下げた。
突然の謝罪に、姫美依菜は軽く頭が混乱状態に陥った。
対戦相手の先輩力士、しかも皇族の姫君に、そこまで謝られてもどうすればいいのか、大抵の人は困ってしまう。
当たり前である。
『いやあのえっと、そ、そんな突然謝られても……』
頭を左右にぶんぶん振り、両手から水面から上げ、天ノ宮を止めるような仕草で、姫美依菜は顔を真っ赤にした。湯の暖かさのせいだけではなかった。
その様子に、天ノ宮は子を見守る親のような顔になって、
『いいんですよ。わたくしのような立場の人間に謝られても、戸惑うだけでしょうから』
と笑った。それからその笑顔のまま、こう告白してきた。
『姫美依菜関がわたくしとの対戦を楽しみにしていたように、わたくしも、姫美依菜関との対戦を楽しみにしていたんです』
『どうして……』
『姫美依菜関、いえ、巻島美依菜さん。わたくしにはじめてサインを求めてきた人が、あなただったから。わたくしのはじめてのファンが、あなただったからです』
──え。
姫君の告白に、元全秋津洲女子相撲選手権横綱は内心絶句した。
と同時に、浴場内に風呂桶が置かれる音が、一つ大きく響き渡った。
(続く)
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