千穐楽
千穐楽:
女子大相撲、新京本場所、フヅキ場所千穐楽。
帝都新京にあるヨシワラ国技館にて、十両・幕下以下の表彰式が執り行われた。
天ノ宮も幕内の土俵にあがり、観衆の目前で、表彰状などを受け取った。
その瞬間、彼女はヨシワラ国技館の主役だという事実に、胸を張り、
──絶対に、この幕内の土俵に本割で上がってみせる。これからも頑張らなきゃ。
と、照れくささも入り混じりながら、表彰状と賞金を手に、土俵を降りるのであった。
表彰式後、女子大相撲雑誌などの聞き取り取材を受けた後、ヨシワラ国技館の優勝者などのための待機所へ続く、広々とした白い天井と壁、そして床の通路を歩いていた天ノ宮は、待ち人と出会った。
「依子皇女殿下、おめでとうございます」
「……鬼金剛師匠、ってわたくしの名前!?」
天ノ宮は足を早めて浴衣姿の男に詰め寄ると、その頭をしばき、
「わたくしの正体、知っていたんですか……」
とため息を吐いた。
鬼金剛ははたかれた頭頂部をさすりながら応える。
「おう、存じておりましたとも。最初からな」
「月詠親方に教えられたんですか?」
「いんや、この仕事を親方に頼まれた時、お前さんの情報を表示窓で見てひと目で確信したんだ。皇族や貴族の証である銀髪で、こんなに個有魔法がおかしくて、情報が巧妙に隠されているのは変だ。これはなにかある、その正体は多分……。と思って、面白そうだから話を受けた。その後で、お前さんの中等部卒業以来の足取りを調べてみたら、ドンピシャだったってわけさ」
「皇室情報部も工作が下手糞ですわね……」
そう言ってもう一度ため息を吐き、白い肌の頬をわずかに朱に染め、
「ともかく。鬼金剛師匠、本当に、本当に、ありがとうございました……」
と言って、大きくお辞儀をした。
そして、体を上げると、師匠へこう言葉を続けた。
その顔は、望みを叶えたものだけが見せる、達成感あふれる顔だった。
「来場所からもご指導ご鞭撻、よろしくお願いいたします。師匠」
「おう、これからもよろしくな」
快活な笑顔で返した鬼金剛に、天ノ宮は勝者の笑みを返すのであった。
その夜のことだった。
天ノ宮の優勝を祝う祝賀会が月詠部屋で開かれ、宴もたけなわ、というところである。
上がり座敷での人や物が立てる喧騒の中で一人酒を呑んでいた鬼金剛は、何かが足りないことに気が付きあたりを見渡した。
足りないと言うより、いない、が正確であろうか。
彼女らの姿を探しても全く見当たらないのである。そのことに気づいている人はこの場にいる人は誰一人としてない。
その時、耳元で魔法通信の着信音がした。外には着信音が聞こえない無音通告である。
「私だ」
いつも耳にする年齢不詳の女性の声だった。
「すぐに正装に着替えて外に出てこい。迎えの車が待っている」
その言葉だけで、何を意味するのか理解した鬼金剛は、
「あいよ」
とだけ応えると、周りで騒ぐ皆に気づかれないようそっと宴会の場をあとにした。
「なんで? とか、どうして? とか聞いてくるものと思っていたが、一つ返事とはな。……さすがにわかっていたか」
「……あれだけヒントが提示されていればすぐに分かりますよ。で、先方はなんと?」
それから十五分程度たった月詠部屋に近い幹線道路から少し離れた裏通りで、紋付袴を着込んだ鬼金剛と巫女装束姿の月詠親方が何かを待っていた。
「皇城の待機部屋で待っていろと。それ以上は到着してから話すと」
「流石にお忍びでの謁見だとしても、いい加減すぎやしませんかね……?」
「まあ、機密保持というのもあるだろうな。彼女本人のことについても。……来たぞ」
そう言われて鬼金剛が白髪に赤目の巫女が見た方へ顔をやると、車の前照灯が急速に近づいてきてわずかな駆動音を立てて止まった。
暗闇の中目を凝らしてみると、皇族や貴族やその筋の人などが使う黒塗りのリムジンだった。
そのリムジンの後部扉が開き、中から年老いた執事風の男が現れた。
その執事は丁寧なお辞儀をすると、
「月詠親方に、鬼金剛関ですね? 内裏からの使いのものです。さあ、お乗りになってください」
そう言ってきた。
二人は黙ってお辞儀を返すと、リムジンの中へと乗り込んだ。
扉が閉まると、車が走り出した……。と思いきや、急にふわっとした感覚が体を襲った。
窓の外を見れば、ビルや道路などがどんどん下へと流れていく。
リムジンは宙に浮き空を飛んでいるのだ。
鬼金剛はその景色を眺めながら、
「別世界からもたらされたものとはいえ、こうやって車が空を飛んでいるのって、いつでも不思議なもんだなあ……」
「相撲もおんなじようなもんだ。それはそれで、不思議な格技さ……」
月詠親方がそうつぶやくと、窓の外を見るなり黙り込んだ。
鬼金剛はそれを見ると、席の前にある表示窓を見た。
そこには、運転席から見える景色が映し出されていた。
あたりに映る様々な色に彩られた光が、夜空を照らし出す。
しかし少し遠くに見えるところに、何物の輝きを許さぬ漆黒が支配している地域があった。
いや正確には、その暗闇の面の中にわずかに白い点描があった。
その皇都新京の中心部、暗闇が大部分に少しの輝きが支配する場所。
──あれが、皇城。皇王一家がお住まいになられている居城か。
鬼金剛がそう思うと、車はわずかに高度を下げ始めた。
皇城宮殿の車寄せでリムジンから降りた鬼金剛と月詠親方を待っていたのは、思いもよらぬ(?)人物だった。
「おい、凜花……!?」
鬼金剛は案内のために現れた巫女服姿の少女を見て、驚きの声を上げた。
「いかにも、凜花です。鬼金剛師匠、ボクの姿、びっくりしました?」
「いやまあ……。お前がそういう関係の人間だとは薄々気がついていたけど、こう姿が変わると、びっくりさせられるな」
「センパイに会えばもっとびっくりすると思いますよ。さあ、皇王陛下以下、皆様方がお待ちです。参りましょう」
そう言うと、彼女は有無を言わさず歩き出した。
二人はあとを付いて歩く。
「こうしてみると、凜花の巫女姿も似合っているなぁ……」
「まあもともと彼女は、そのために生まれたからな」
「……」
親方の言葉に、鬼金剛は黙り込んだ。
やはり彼女の正体はそうなんだな。
そう一人合点すると、先をゆく皇室の侍女であり女相撲の力士でもある少女の後ろ姿を見た。
宮殿は明かりがどこもかしこも煌々としていて眩しいくらいであった。白い石面にいくつも飾られた絵画や彫像などが、一族の豪奢ぶりをよく現していた。
大きなビルの一階ほどの広さがある玄関で記帳すると、三人の前に人が一人乗れるほどの大きさの四角い白い板が四台現れた。
「これに乗ってください」
凜花にそう言われたので鬼金剛は言われるがまま乗ると、その板が彼を載せたまま宙に浮かんだ。と同時に掴まるためのT字型の棒が現れる。
「フローティングボードか。流石は皇城だな」
「この国で、最も広い皇族・貴族屋敷と定められているだけはありますので」
鬼金剛と凜花が言い合う間にも凜花と月詠親方、それに同行した執事もフローティングボードに乗った。そして何かに導かれるがまま、浮遊しながら移動する。
長い廊下には無数のドアと窓があり、車道が二車線は通れるくらいには広い廊下の真ん中に敷き詰められた赤い絨毯の上を四人は行く。
その端をフローティングボードに乗ったり歩いたりしている、侍女服や巫女服姿の女性や神主や執事服姿の男性、作業服姿の男女などが行き交う。
鬼金剛たちとすれ違うと同時に彼・彼女らは立ち止まり最敬礼をする。
「侍者である彼・彼女らは、常に廊下の端を行き、皇族や貴人、貴賓などとすれ違う際には最敬礼をする義務があるのです」
執事が丁寧に説明する。
──そんな説明をされるために来たわけじゃないがな。
鬼金剛は内心で苦笑した。
何回か角を曲がり、先ほどと同じような廊下を行くことどれほど経っただろうか。
四人は巨人が通るような金属製の両開き扉の前へと到着した。
凜花がこれまた大きな取手に触れると、扉は音も立てずに静かに内側へと開いていく。
その中は赤い絨毯敷の部屋で、白い豪奢な装飾がつけられた椅子が並んでいた。
壁には大きな絵画が飾られ、部屋の四隅には大理石製の彫刻。
天井にはシャンデリアがぶら下がっており、その天井にも大きな絵画が描かれていた。
そして奥には、入り口に負けないぐらい大きな金属製の扉があった。
「さて、ここでお待ち下さい」
執事はフローティングボードから降りると、そう言って奥の扉を開けそして消えていった。
ドアが閉じられると、静寂がその場を覆う。
「いよいよ、ご対面ってわけか」
鬼金剛はそう言うと浮遊する板から降り、椅子の一つに座った。
月詠親方と凜花もそれに習うと、四台のフローティングボードは取手が自動的に収納され、もと来た扉から出ていった。
そして入ってきた扉は自動的に、これまた音もなく閉じられた。
鬼金剛はあたりを見渡すと、
「彼女も、小さい頃はこういうものを見て触れて生活してきたんだな。それにしてはアイツ、豪奢ぶり、わがままぶりは微塵も見せなかったがな」
そう言って椅子の肘掛けを撫でた。
それに対して、月詠親方は思い出し笑いをしながら応えた。
「彼女は角界にあこがれて入門してきたからな。これが力士の生活なんですから、これくらいなんともないですよと、入門したての頃に尋ねたときにそう応えたよ」
「そういえば彼女、里帰りしたことは?」
「一回もなかったな。ずっと部屋にいたな」
「まあ正体が露見することを警戒して帰らなかったってこともあるんでしょうが、ずいぶんと力士生活が気に入ったものですね」
「そりゃ当然だろう。大好きな相撲で生活できることと、憧れだった力士に師匠として稽古をつけさせてもらうのは、力士としてこの上ないことだからな」
「後半やけに強調していませんかね? 親方」
「そりゃそうだ。あたしにとっても自慢だし、天上人の一家の娘を力士として可愛がるのは相撲人としてこの上ない名誉だからな」
「……彼女を幕下優勝まで導いたのは俺様なんですがね。まあ、いいですけど」
そう言って、鬼金剛が大きくため息を吐いたときだった。
先程閉じられた奥の扉が開き、その奥からさっきの執事が現れた。
彼は三人の前へ来ると、
「準備が整いました。さて、参りましょう」
そう言って促した。
わかりました。と月詠親方が応え、椅子から立ち上がる。
鬼金剛と凜花もそれにならう。
執事を先頭に、月詠親方、鬼金剛、凜花の順番で、扉の向こうへと入っていった。
扉の向こうは広大な板の間になっており、その壁は白く、吉兆を示す様々な生き物がかたどられた紋様が記されていた。
天井も木材の作りで、シャンデリアが等間隔で置かれ、広間の隅々まで照らしている。
広間の奥まった向こうには白と金の椅子が一つ。それに龍の紋章が一つ中央に記された屏風がその後ろにあり、そのすぐ近くの壁には、入り口に負けないぐらい大きな金属製の扉があった。入り口の扉の前で、左から凜花、鬼金剛、月詠親方、執事の順で横に並ぶ。
四人が並ぶと扉は先程と同じ様に、静かに閉じられた。
いよいよだ。
鬼金剛は息を呑んだ。
そして、執事が裂帛の号令をかけた。
「皇王一家の、おなーりー!」
その声の一拍あと。玉座のすぐ近くにある大きな扉が開かれた。
その掛け声とともに、執事と凜花が最敬礼をする。
ふたりにならって、鬼金剛も腰を大きく曲げ、最敬礼をした。
多数の人が立てる足音。
それがしばらく続き、止むと、わずかにドアが閉じられる音が聞こえた。
そして。
「面をあげよ」
優しい老人の声が、奥からかかった。
鬼金剛がそれに従い顔をあげるとそこには、皇族の印である龍をかたどった勲章などを胸につけた銀髪で初老のタキシードを着た男が椅子に座り、側には白のローブデコルテを着て、頭にティアラをかぶった初老の女性に、初老の男に顔がどことなく似た中年の男性と、どこかで見た少女に顔が似ている品の高い女性が一組。
その他にそれぞれ一組のつがいの男女が数組と、その子供らしい男性女性が初老の男の左右に並んでいた。
その初老の男と女性こそが、この秋津洲皇国の皇王陛下と皇后陛下であり、直ぐ側に控えているのが天ノ宮の両親である哲仁皇太子夫妻であり、皇子、皇女たちであった。
「月詠親方、鬼金剛関、今回の大事、誠にご苦労であった。心から感謝するぞ」
「ははっ」
そう労いの言葉をかけられ、鬼金剛と月詠親方は再び最敬礼をした。
そして顔をあげると、鬼金剛は眼の前の方々に、なにかが足りないと即座に気がついた。
彼、彼女の中にいるはずの見知った顔。
そう、彼女がいないのだ。
そうやって注視していると、
「おや、鬼金剛関、誰かお探しですかな?」
と皇王が意地の悪い顔で問いかけてきた。
鬼金剛は、やばい、と思い、悟られないように焦ったものの、
「わかっておる」そう皇王は笑って応え「彼女を探していたのであろう? ……無論おるよ」
そう言って手を二つほど叩き、
「
そう言うと、皇族方が入室してきた扉が再び開かれた。
そして、中から人影が現れる。
その人影は、ふわりとしたスカートを持った白いプリンセスドレスに、銀のティアラを頭に飾り付けて現れた。
彼女を見るなり、そのいつもの様とは違う美しさに、鬼金剛は息を呑んだ。
──着ているものが変わるとこうも違うものだな……!
そう、そこに現れたのは。
皇太子の娘依子皇女こと、天ノ宮であった。
白いドレスを身にまとった依子、いや、天ノ宮は、どことなく恥ずかしそうな表情を見せていた。
彼女は皇王に誘われるがまま、彼の隣へと立った。
それを見た鬼金剛は真顔になると、一礼をして彼女に向けてお褒めの言葉を述べた。
「依子殿下、本当にお美しゅうございます」
そう告げると、依子、いや天ノ宮は顔を真っ赤にして両手でダメダメと交差させながら、
「ちょちょちょっと、いつもの調子で言ってよ、もうっ!」
と応えた。それは怒っているのではなく、照れている声色であった。
「依子、恥ずかしがらずに、胸を張りなさい」
「そうよ依子、あの本場所での堂々とした態度を見せなさい」
天ノ宮のしゅう恥心あふれる返答に、側にいた皇太子夫妻が励ましたのか、叱りつけたのか、そういう声をかけた。
「もうっ、お父様もお母様も!」
そういうとさらに顔を真赤にしてしまう。耳まで赤くならんばかりだ。
その様子を、鬼金剛は内心ニヤニヤしながら見ていた。
──おー、これは天ノ宮のめったに見られない貴重な表情! こいつはナイスですねー。
と思っていると、尻をつねられた。
見れば、隣にいた月詠親方が怖い顔をしていた。
天ノ宮が落ち着くのを見ると、皇王は、
「依子よ。私達が差し向けた従者は役に立ったか?
と問いかけてきた。
天ノ宮は、偉大な祖父の方へと顔を向けると、
「はい、凜花は本当に役に立ってくれました。わたくしに個有魔法を与えてくれたり、稽古のアンマ(稽古相手)になってくれたり、わたくしを守ってくれたり……。それに、彼女はわたくしの本当の友達になってくれました。……本当に、本当に、ありがとう、凜花」
天ノ宮がそう言ってお辞儀をすると、凜花も最敬礼で返した。
そして顔を上げた時、目の端に光るものが見えた。
「そうか。従者として彼女を創り、送った朕も東宮もそれを聞いてほっとしておる。これからも、何かあったら、彼女を頼ってくれ。良いな?」
「はい!」
「凜花も、孫娘のことを、これからも頼むぞ」
「はい、かしこまりました。皇王陛下」
「まあ……、お前が皇城を出たくてウズウズしていたのは知っていたのでな。だが依子よ。人は一人で生きて行けるのではないぞ。誰かの支え、誰かと繋がりあってこそ、人間は生きて行けるのだ。それを忘れないようにな」
「もうっ……。こんなときにまでお説教だなんて、お祖父様ったら……」
「まあこれも稽古だと思うが良い。依子よ」
そのようなやり取りを孫娘や従者と交わしたあと、皇王は鬼金剛たちの方に顔を向け、
「さて、ここで立ち話をするのもなんだ。朕はそなたたちの話をゆっくりと聞きたい。宴席の間に晩餐を用意してある。そこへ参りましょう」
そう言って立ち上がると、この国を統べる国父である帝にふさわしい、おおらかな笑みを見せ、鬼金剛たちを誘うのであった。
「お前さん、こうしてみると流石に別嬪さんだな……。いでで! 尻をつねるな!」
「女力士に美しさなんて必要ありませんし……」
「それはそうと、天ノ峰こと政仁殿下はどうしたんだ?」
「政仁お兄様ね。今場所負け越したので、稽古に励むから欠席なさるって」
「まあ、不用意な星の落とし方多かったからな……。あれは稽古に精進しなきゃならんよな」
そう鬼金剛と天ノ宮が会話を交わしているのは、場所を移して宮中宴席の間である。
一番奥の横に長いテーブルに、皇王夫妻と貴賓である鬼金剛と月詠親方、そして天ノ宮と凜花が並んで座り、そのテーブルに対して縦位置に置かれた複数のテーブルに、他の皇室ご一家がお座りになってお食事を取られている。
食事は、様々な食材を使った料理が前菜、スープ、主食、デザートなどという形で少量ずつ出される方式の晩餐であった。
天ノ宮はその食事を、久しぶりのフォークとナイフで口にしながら、
「わたくし、本来は向こう側の方なのに……。これでは婚礼の披露宴みたいだわ……」
と、皇室の方々が居並ぶ向こう側の方を見てこぼした。
その表情にはもう一つ、出される晩餐の量が少ないという不満が鬼金剛には見て取れた。
──いつもあれだけちゃんことお菓子を食べているもんな。
鬼金剛は内心で笑いながら宮廷料理を口にした。
孫娘の愚痴を聞いた皇王は、
「依子よ。これはお前が主役の宴席なのだぞ。……まあ、お前がこぼしたくなるのもわかるが」
と苦笑した。
その様子を見て、鬼金剛は、
──こいつにも、こんな弱点があるんだな。なんだ、こいつすげえかわいいじゃん。
と内心でもう一度笑みをもらした。
──そういえば、月詠親方はっ、と……。
鬼金剛が彼女のいる席を見やると、そこには数名の皇族の方々が月詠親方の周りを取り囲んでいた。
何事かと耳をそばだてて聞いてみると、どうやら天ノ宮の一番一番についての話や、最近の女相撲界についての皇族方の質問に応えているらしい。
──さっすが親方。こういうときは輝いて見えるな。
そう思いながら目の前のメインディッシュの鳥のソテーを口にしようとしたときである。
「鬼金剛関どの」
天ノ宮を挟んで声が飛んできた。
皇王だった。彼は王たるに相応しい声で、こう問いかけてきた。
「今回の働き誠に素晴らしいものであった。そこで、そなたに褒美を与えたいのだが、そなたがあの三矢事件において、無実の罪で角界を追われたのは承知しておる。そこでだ。そなたの功績に鑑みて横綱審議委員会に掛け合い、そなたの角界復帰を手助けしたいのだが承知してくれるだろうか?」
そのお言葉に、鬼金剛の心は一瞬揺れた。
──もしかしたら、土俵に戻れるかもしれない。
心の中で何かが湧き上がってくる。
しかし。
鬼金剛の心の別の部分に、別の思いが湧き上がってきた。
──いいや、俺は約束したんだ。あいつらに……。
そう決心すると鬼金剛は皇王に向かって、彼は頭を垂れて応えた。
「その申し出、誠にありがたく思います。しかし……」
「しかし?」
「三矢事件において、無実の罪で角界を追われたのは、小生だけではありません。女相撲界でも、島村親方など、事件に巻き込まれて引退せざるを得なかった者が大勢おります。角界復帰の命を与えるなら、小生よりも彼女らに与えてやっていただけませんか。それが小生の願いであります……」
鬼金剛がそう言い終えると、天ノ宮が心配そうな顔をして見つめていた。
そして彼女は自分の祖父に顔を向け、
「わたくしからも心よりお願い申し上げます。わたくしの師匠の願い、どうか聞いていただけませんか」
そう言って同じ様に頭を下げた。
二人が夫婦のように頭を下げたのを見て、この国で神々を除けば最も敬愛される男はしばらく考えていたが、
「ふたりとも顔をあげよ」
そう優しく告げた。
二人が揃って顔をあげると、皇王は、小さくため息を付いて言った。
「……再び鬼金剛関が土俵に立つ姿を見られると思ったが残念だ。……しかし、かわいい孫娘の頼みもある。鬼金剛関、そなたの願い、叶えてやろう」
その瞬間、鬼の四股名をつけた元相撲力士の目に小さく光るものが生まれた。
それを見られるのが嫌なこともあって、彼は再び頭を下げながら応えた。
「ありがたきお言葉、心より感謝いたします!」
それは心からの本心であった。
彼は、自分の元彼女らの顔を思い浮かべながら、
──お前ら、よかったな……! これでまた相撲ができるぞ……!
顔を嬉しそうに歪めた。
そんな彼にすぐ近くから声が飛んできた。
「師匠、本当に良かったですね……! お祖父様、本当に、本当に、ありがとうございます……!」
天ノ宮も、心からホッとした、という声をしていた。
そんな彼に、周りから拍手が飛んできた。
皇族たちが立ち上がり、彼に祝福の拍手を与えているのだ。
鬼金剛は立ち上がると、何回も、何回も、お辞儀をした。
こうして、天ノ宮優勝の祝宴は、もう一つ別の祝福をあげてお開きになった。
「じゃあ、すぐに部屋に戻りますので」
「お前さん、パパやママ、おじいさんおばあちゃんにもう少し甘えてきてもいいんだぞ?」
「鬼金剛師匠、わたくしはこのきつい衣装をすぐにでも脱いで、ゆったりとした浴衣をまといたいのです! それにちゃんこもお菓子もお腹いっぱい食べたいですし!」
「……まあご家族との時間、ゆっくり過ごしてこい。天ノ宮。部屋に帰れば、忙しくなるからな」
「……月詠親方、わかりました」
「では、ボクも姫様と一緒に帰りますので」
「おう、よろしく頼んだぞ、凜花」
「それでは、失礼いたします、陛下、殿下」
天ノ宮と凜花、それに皇王夫妻、皇太子夫妻に見送られて、鬼金剛と月詠親方は行きに乗ってきた黒塗りのリムジンに乗り込んだ。
ドアが閉じられ車が動き出すと、月詠親方はどうしたものか、という顔で鬼金剛を見て言った。
「あれで良かったのか、お前?」
「後悔はしていませんよ。あの土俵に上がるには、俺は、悪評が多すぎますから」
そう独り言を言うような即答を彼は返した。
彼の感情は、まったくそのとおりだった。
「それよりかは、あいつらの方が悪評も少ないですし、土俵に立ってもさほど文句を言われませんよ」
「あいつらにありがとう、って言われたいだけじゃないのか?」
「そんな事ないですよ……」
「まあ、お前の犠牲精神とやらにはあきれるというかなんというかだが」
すると月詠親方は手を伸ばし、表示窓を表示させ鬼金剛の方へと向けるとこう言った。
「……陛下が代案として、お前に、一門……、いや、それだけに限らず、女相撲部屋や相撲教習所の巡回親方をさせてはどうかと、ご提案されてきた」
「え?」
「天ノ宮の件の評価も込みだが、お前の申し出を受けるかわりの条件としてこういう仕事はどうかと。……お前の能力にもぴったりだしな?」
そう言って唇の端を歪めた元女横綱に対し、鬼金剛は苦笑いを見せた。
「あのじいさん、優しい顔をして本当にえげつないこと言ってきやがるな……。交換条件だろ?」
「そのとおりだ」
にこやかに迫る月詠親方に、鬼金剛は黙り込む素振りを見せた。
しばらく無言を通したあと。
彼は後部座席のシートにずぼっと埋まりこむと、大きなため息を付いて応えた。
「……わかりました。そのご提案、お受けいたしましょう。陛下にそうお伝え下さい。……本当はご提案を頼んだのは貴女でしょ? 天ノ宮の依頼も」
「……お前のそういうところ、本当にかわいいんだよ。だからお前に頼んだんだ。何もかも」
月詠親方は赤い唇から白い八重歯をのぞかせると、隣の男の頭を撫でその肩に寄りかかった。その姿は誰にも見せたことがない女らしい姿だった。
リムジンは新京の空を音もなく飛んでいた。
その光景を、漆黒の空に浮かんだ小さな輝きの欠片が三つ、照らしていた。
翌日の朝。鬼金剛はあれから一睡もできなかった。色々な意味で。
月詠部屋が入っている集合住宅棟の最上階近くの、自分に与えられた部屋のベッドから起き上がると、隣に眠っている月詠親方を起こさないように静かにベッドから降りた。
洋服戸棚にかけてある浴衣を着ようとした時、何かの直感がひらめき、浴衣のすぐ側にかけてあるものに手を伸ばした。
それから草履を履き部屋を出て、昇降機口へ行き昇降機で一階に降りる。
そして目をつぶってもわかるぐらい手慣れた廊下を通り、土俵のある稽古場へ出た。
稽古場の壁にある窓から、優しい朝日のオレンジ光が差し込んでいた。
相撲部屋の土俵の壁には大抵神棚があり、そこには八百万の神が所属する
その土俵上に。
神棚に祈りを捧げている、黒い
彼女はしばらく祈りを捧げていたが、気配に気づくと後ろを振り向き、こちらを見た。
鬼金剛は彼女が挨拶するよりも先に挨拶した。
「やあ、天ノ宮。おはよう」
「天ノ宮です……、って、初めてまともに呼んでくれた!?」
「いや、真面目に名前呼んでいたこと結構あったぞ……?」
鬼金剛が頭をかくと、
「……これからはちゃんと四股名を呼んでくださいね、師匠。というわけで、これからもよろしくお願いいたします」
天ノ宮は、皇族らしい丁寧なお辞儀をした。
それに対し、鬼金剛は片目をつぶって、
「……こちらこそ。依子様」
と応えた。
それから草履を脱ぎ、裸足になる。
「……それよりもだ。ちょっと、一番取って見るか。お前さんの成長、見たくなったぞ」
言いながら浴衣を脱ぐと、彼の腹と股間には白い稽古用の廻しが締めてあった。
銀髪の乙女力士は少し驚いた表情を見せ、問う。
「用意がいいですね、師匠!?」
「まあ真面目なお前さんのことだ。帰ってきたら、一人でも稽古を始めるだろうと。……凜花は?」
「ちょっと疲れた模様で……。ぐっすり眠っておりますわ」
話を聞いて、あいつも色々皇城で忙しかったみたいだからな、と鬼金剛は理解の笑みを見せた。そして目の前の女力士の姿をひと目見ながら、体を動かす。
「……そういえば、お前さん十両に上がったら、組衣と廻しどうするんだ? もう決めてあるのか?」
「はい、もう決めてあります。わたくしにふさわしい組衣と廻しにするつもりです」
「どんなものだ?」
その問いに天ノ宮は不敵な笑みを見せ、
「それは、一番取ってからお教えいたします。それが交換条件ですわ」
言って土俵の仕切り線の前へと来ると、軽くしこを踏んだ。
鬼金剛は軽く苦笑した。
──まったく、お前さんっておじい様に似ているな。さすが血筋か。
そう思うと、
「ようしわかった。お前さんの本気、見せてくれ」
と言い天ノ宮と反対側の仕切り線の前に立ち、彼もまた四股を踏んだ。
二人は腰を下ろし、低く構える。
お互い、顔を見る。
天ノ宮は、笑っていた。
こうして相撲を取るのが、本当に楽しいという顔で。
鬼金剛も、自分が笑っているのを感じていた。
自分も、相撲を取るのが楽しいのだ。
鬼金剛がまず片手を土俵に付け、それから、もう一方の手を付けると。
天ノ宮はすばやく触るように両手を土俵につけ。
その瞬間。二人は立ち合い、ぶつかっていった。
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