四日目
四日目:
「おい天津国」
「天ノ宮です」
「これからちょっと出稽古に行くぞ。部屋は高千穂部屋だ」
「出稽古……、ですか?」
天ノ宮が鬼金剛と出会った次の日。
準備運動程度の稽古が終わった月詠部屋の土俵の上で、いつもの黒い組衣と廻し姿の天ノ宮は、上がり座敷にいる鬼金剛にそう声をかけられた。
天ノ宮本人は申し合いなどをするつもりだったが、突然の指示にえ、という顔をした。
「もう決まったんですか? 早いですね」
「おう、俺様はこう見えても角界に顔が利くからな。無論高千穂部屋にも知り合いがいるって寸法さ」
「悪名じゃなければいいですけれど……」
その心配にごほん、と一つ咳払いをした鬼金剛は、
「と、ともかく、さっさと行くぞ。凜花や南洙たちも一緒に行きたいって言うから連れて行くぞ」
「凜花たちもですか……」
天ノ宮はちょっとの間顔を傾けると、
「わかりました。準備しますね。師匠」
「あいよ」
と言い、出稽古の準備をしようと思うと、自分の部屋へとぱたぱたと可愛らしい走り方で向かった。その後姿を、上がり畳で、稽古後の一休みという風情で足を投げ出して座っている美穂乃月と、その取り巻き達が見ていた。
彼女の目は、冷たいなにかにあふれていた。
「そういえば疑問なんですけれども」
「なんだ?」
「なぜ高千穂部屋なのでしょうか?」
皇都新京の高千穂部屋へ向かう全自動運行型大型タクシーの中で、中央部シートの天ノ宮は、前部シートの鬼金剛に疑問を投げかけた。
前部には鬼金剛の他に御笠親方も乗っており、引率者の役割を果たしている。
「ああ、お前さんにはまだ言ってなかったがな」
鬼金剛は後ろを向きながら言った。
「高千穂部屋には
「わたしに習得させるためですか……」
氷雪華は十両下位の力士で、幕下上位の天ノ宮に出稽古させるにはピッタリの相手だ。
無論、それより上位の力士にも、氷系の個有魔法を持った女力士は当然いるが、番付が遠すぎて稽古するには実力差もあるし、女相撲の上位下位の礼儀にも反する。
そういうわけで、鬼金剛は個有魔法を「盗む」相手を彼女にしたのであった。
「そうだ」鬼金剛はもう一度前を向いた。
しかし言葉がどうにも歯切れが悪い。
──師匠に関するなにかがあるわね。出稽古先には。
天ノ宮は、女の持つ直感でそう感じていた。
彼女の目には、鬼金剛を挟んで目前に、ビル群の間を通る大きな幅の道路と、人工的な騒音を発しながら進む魔力で動く車の後ろ姿達が映っていた。
この風景は、ある程度の文明が進んだ世界なら、どんな異世界でも変わらない。
天ノ宮の片手には、大きな樹脂製の袋が握られていた。もう片の方の空いた手でその中にあるものを掴むと、口に投げ入れ美味しそうに噛む。
彼女が立てる咀嚼音が気になったのか、鬼金剛は天ノ宮の方をもう一度振り返ると顔をしかめた。
「お前さん、良く喰うなあ……。ちゃんこもそうだし、お菓子だって暇なときはいつだって食ってるじゃないか」
「だって美味しいんだもーん」
「そんなに食ってその体型がよく維持できるな……」
「その分良く稽古しておりますのでっ。みんなには『燃費が悪いなあ』と言われたりしますけどっ」
「まあお前さん、めちゃくちゃ稽古するしちゃんこもめちゃくちゃ食うよな……」
鬼金剛が呆れたため息をついたその時、タクシーが車線を変えて、左折車線へと入った。
「おっ、もうそろそろ部屋につく頃だな。後ろにいる凜花たちも、準備しろよ」
「はいっ」
黒色の浴衣に身を包んだ凜花は、元気よく返事をした。
「凜花ちゃあ〜ん、出稽古久しぶりね〜。どんな相手とするのかなあ〜?」
後部左側の席にいるピンク色の浴衣の女子力士は希世乃月。
凜花と同じく二段目の女力士で、少しのんびりしたところがある、黒髪で黒い目、凹凸の少ない顔で、背高の力士だ。
個有魔法は「盾」の個有魔法で、それで相手の突っ張りや個有魔法をしのいだり受け流したりしつつ、逆に盾で突き押すという戦法が得意だ。
「まあ天ノ宮先輩のおまけで来たんだし、部屋にいる大体の力士には稽古させてもらえるんじゃないの?」
凜花を挟んで後部座席右席にいる、黄色い浴衣姿の女子は南洙。
三段目の女力士で、金髪に碧眼の白い肌で鼻が高く、凹凸のはっきりした、美人の少女だ。小柄だが筋力強化系、いわゆる<怪力>個有魔法があり、強烈な筋力を持っている。
彼女らは、天ノ宮を含めて部屋の仲良しグループなのだ。
彼女らが出稽古に同行することになったのは、そういうわけなのだった。
ちなみに、希世乃月は貴族出身の力士で、南洙は中学を卒業してから各界入りした、典型的な貧困層の出身者だ。
それでも、なぜかこの二人は馬が合い、同じように馬が合う天ノ宮と凜花とともに、仲良しグループを作っているのであった。
「そうだといいですけどね〜。凜花ちゃん〜」
「ですね。しっかり稽古しましょう」
彼女らの会話を耳で聞いていた天ノ宮は、お菓子を口に頬張り、口をモゴモゴと動かしながら、
──いよいよ出稽古ね。しっかり稽古して技を磨いて、個有魔法をちゃんと身に着けないと。
頑張るわよ。
と心の中で気合を入れ、小さくうなずき、拳を握りしめた。
そうこうするうちに、自動タクシーは幹線道路から左へと曲がり、下町の入り組んだ道へと入った。
目指す高千穂部屋は、すぐそこだった。
それからさほどかからず、出稽古先の高千穂部屋があるビルに到着した。
鬼金剛が自動タクシーから降りると、彼にとって懐かしいような、会いたくもなかったような浴衣姿の女性が高千穂部屋の玄関前に立っていた。
「どうも鬼吉さぁん。あいからわず女の子引っ掛けてますかー?」
朗らかな声でそう呼びかけたのは高千穂部屋の部屋付き親方、島村親方だ。
力士とは思えないスマートな体つきで、笑顔が似合う美人の、黒のボブカットで黒目の彼女は、現役時代は志乃姫という名前の女力士で、鬼金剛にはコーチ役以上の関係があった女力士の一人だ。
「や、やあ……、志乃ちゃん……。今は全然してないけど……」
鬼金剛は顔を引きつらせながら挨拶を返した。
なにやら因縁以上のなにかがあるような態度だった。
そんな態度を見せる鬼金剛に対し彼と同じくらいの年頃で、親方としてはまだまだ若い島村親方は、
「そんなー、いけずな態度を取っちゃってー。ま、こんなところでだべっててもなんだし、積もる話は中で話しましょ? 出稽古に来たんだし、早速準備してよねっ」
と鬼金剛の手を取ると、玄関の中へと引きずり込む。
「チョッ待ておまえ、何すんだぐわあああああ!?」
天ノ宮たちが見ている前で、哀れな犠牲者は扉の奥へと姿を消した。
「なあ、あれなんなんだ……?」
南洙が呆然とした顔で天ノ宮に問いかけたが、当の天ノ宮でさえも、わけがわからず、困惑した表情を見せる。
そんな天ノ宮、ひいては他の皆に向かって凜花が平然とした顔で、
「島村親方がああ言っているんだし、皆も早く行きましょう」
と、玄関の中へと歩き出した。
天ノ宮は、
──凜花はすごいわね、わたくしより大物になりそう。でも、わたくしよりもそうそう大物って、この世界にはいらっしゃらないわよね。お父様とか、おじいさま、あと、神々とか。
そう思うと、
「わたしたちも行きましょう」
そう御笠親方たちに言うと、凜花のあとを追うのであった。
高千穂部屋も、他の相撲部屋と似たような作りになっていたが、広さは月詠部屋よりも小ぶりで、所属する女力士の人数もそれに似合った数だった。
それでも松島親方という部屋持ちの親方がいる他に、島村親方という部屋付きの親方が一人いるほどには大きい部屋だった。
着替えて稽古場に入るなり、稽古場特有のムッとした水素と酸素が結合したものが生み出す湿り気と熱気が体を覆う。
稽古場では既に、女力士たちが元気の良い掛け声を出しながら、押したり引いたりぶつかったりしている。
「じゃ、今日はよろしくお願いするよ、島村親方」
「鬼吉さぁん、なんか他人行儀な態度ですねぇ。昔のように、もっと積極的になってもいいのよ?」
「……だから本名の名前で呼ぶんじゃねえ! それにベタベタと体にくっつくんじゃねえ!」
相変わらず居心地の悪そうな声で、鬼金剛が島村親方と漫才のようなやり取りをするのを聞いて、天ノ宮は、
「あのー、師匠。島村親方とは、どんなご関係で?」
答えがわかっているような声で尋ねた。すると、
「あー、こいつとは現役の時に少し教えてやったことがあるだけだよ。それだ……」
鬼金剛が言い、さらに言葉を続けようとした。が、
「ああーん、鬼吉さんたらいけずぅ。あたしとは布団の中で一夜を何度も明かした仲でしょぉ?」
島村親方が、鬼金剛の腕に体をさらに密着させながら、うっとりとした顔で割り込んできた。
天ノ宮はその様子を見ながら、あ、やっぱり、という顔で、
「やっぱり師匠と島村親方って、そういうご関係でいらしたんですねっ」
当然そうでしょうねー、というような明るい声と笑顔で応えた。
「いや、違うから! そうじゃないから! お前のせいだぞ志乃!」
鬼金剛が弁解と叱責をするが、
「もう、そんな嫌わんといてー。まあ三矢事件の時はいろいろ迷惑かけたけどなぁんー」
と何故か訛りの入った言葉で島村親方こと志乃姫がさらにすり寄る。
天ノ宮は、温かさを持った目で、もう、しょうがないな、という顔をして、
「それより師匠、今日主に相手をする氷雪華関って……」
と言い、話題を強引に切り替えた。
そう問われた鬼金剛は、お、という顔をすると、
「彼女だ」
と空いている手で一人の女力士を指した。
その先には、ぶつかり稽古でぶつかり役をしている一人の女力士がいた。
年頃は二十代前半、髪の色は薄い水色で、目の色は青色。顔の輪郭や、目や鼻、口の大きさや形、その位置といった顔立ちはどことなく冷静さというよりは、無表情と言った言葉が似合いそうな顔立ちだった。
体つきはどちらかと言うとソップ型だが背は高く、この場にいる月詠部屋組の中で最も背が高い天ノ宮よりも、若干背が低いという程度だった。
全体としてみれば印象は薄く、多数いる新京女子大相撲の力士の中ではどこにでもいる印象を持った力士だった。
そんな女丈夫が、自分よりも一回り体の大きな相手を軽々と土俵中央から場外へ押し出した。
そして、稽古場入り口にいる天ノ宮たちに気がつくと、静かに一礼をした。
見るからにクールな女性だ。そう感じた天ノ宮は、
「あれが氷雪華関ですか」
「そうだ。実は以前、お前さんと一度対戦したことがあるらしい。その時はあっという間に寄り切られてお前さんは負けたらしいがな」
「印象、ありません……」
事実だった。比較的早いスピードで昇進してきた天ノ宮だが、負けの印象が強いのはここ最近数場所負け越しが多くなってきてからで、彼女と対戦したのは幕下に上がった頃だった。
そんなわけで、彼女とは初顔合わせのような気分だった。
鬼金剛は、強引に島村親方の手を振りほどくと彼女から少し離れ、天ノ宮の側に寄ると声の大きさをかなり落とし、
「昨日いくつか個有魔法を確かめてみたら、彼女と対戦しても氷結系統の個有魔法がなかったのは、あっという間に一番が終わって、習得する時間がなかったかららしいな。だから、今日は氷雪華関と集中して申し合いをして、氷結魔法を習得するのが目的だ。わかったな?」
と言ってきた。
天ノ宮もつられて小さめの声で、
「はい。わかりました、師匠」
と言うと、小さいが、力強くうなずいた。
そんな二人に、南珠がヒョイッと頭を出して尋ねてきた。
「ねえねえ、相手氷の個有魔法の力士でしょ? 氷って土俵を凍らせて滑らせたりするし、なんか卑怯ものっていう気がするんだよなあ〜。油使いみたいに」
「南珠!」
天ノ宮が叱るが、南珠は堪えた様子はなかった。小さく舌を出す。
が、彼女が何かを観た瞬間それこそ氷のように凍りついた。
天ノ宮がその方向を見ると。
氷雪華が、冷たい視線でこちらを見ていた。
十両下位の女力士、氷雪華にとって、月詠部屋の力士が出稽古に来たのはちょっとした驚きだった。
島村親方経由で、松島親方に話が来たのは昨日の夜のことで、部屋の女力士たちには今日の朝の稽古前の朝礼で知らされた。
角界的には出稽古はよくあることなので慣れたことだが、これほど急な申し出でこちらが簡単に受け入れたのは、ちょっと意外だなと彼女は思った。
朝礼後松島親方に聞いてわかったのだが、月詠部屋の部屋付きの男親方(というには怪しい関係らしいが)と、島村親方が親しい仲だったようで、それであっという間に話が決まったとのことだった。
そんなわけで、自分がぶつかり稽古の時に、月詠部屋の男親方が声をかけていた若い女力士の姿を見て、
──彼女のために出稽古を組んだんだな。
と自然に思えたのは当然のことだった。
そして、自分は一も二もなく稽古を申し出を受けた。
さっき南珠とかいう女力士にも言われたように、氷の個有魔法を使う力士は女相撲界ではいい印象を持たれていないのだ。
その認識を改めるためにも、誰とでも稽古し、一番を取る。
それが彼女の決意であった。
「あの、天ノ宮と申します。氷雪華関、本日は三番稽古よろしくお願いいたします」
「天ノ宮さん、こちらこそよろしく」
幕下筆頭の女力士(とはいっても前場所のことで、負け越したので来場所は番付が少し落ちるが)の天ノ宮の丁寧な挨拶に、氷雪華は軽く会釈を返した。
彼女から見た相手の印象は、やっぱり、銀の髪がきれいな人だな、ということだった。
そして顔も体つきも、それに見合ったものだった。相撲を取るより、歌姫や通信網の女優、あるいは舞踏会の姫君が似合うような風貌と体型だと彼女は思った。
銀髪ということは皇族かそれに近しい貴族の出だとひと目でわかった。
そして彼女の顔を見て、
──どこかで見たことがあるような……? それも皇族の誰かに……。
……もしかして。
氷雪華は自分の問いにある応えを抱いた。
が、自分と彼女が属している世界は角界。番付がすべての世界だ。
そのため挨拶も、こちらが目上という態度で接した。
既に月詠部屋の出稽古力士達は準備運動を終え、組衣に黒の廻し姿という出で立ちで、高千穂部屋の女力士たちに混じり、土俵の周りで備えていた。
自分の出で立ちは、白の稽古用廻しに黒の稽古用シングレット《組衣》という姿だ。
稽古用と本場所用の装束が別々なのは、十両以上の関取の特権の一つだ。
「じゃ、始めようか。天ノ宮さん」
「はい」
「……あたし、あの南珠とかいう子が言うみたいに卑怯な手は使わないから。氷の力士の正統派力相撲、見せてあげるわ」
「うん、楽しみにしています。では、よろしくおねがいします」
そして二人は土俵の左右に離れた。
実は天ノ宮とは逆に、氷雪華は彼女との対戦を覚えていた。
自分はその当時幕下の上位にいて、勝ち越していた。
幕下以下の対戦は、同じ星同士の力士が対戦するという方式になっているため、同じ勝ち星だった天ノ宮と対戦が組まれたのだ。
俵上で相対した時も、銀髪が綺麗な人だな。姫様みたい、という印象だった。
対戦は、あっという間にかたがついてしまった。自分が四つに組んで、一気に寄ってからの寄り切り。それだけで済んでしまった。自分の個有魔法を使うこともなかった。
それからすぐに十両に上がってしまったため、彼女との対戦はなかったけれども、どこか気になる力士だな、また対戦してみたいな、と彼女は思っていた。
それが今日、思わぬ形でかなった。土俵の仕切り線の前で腰を下ろしながら、彼女は嬉しい気分で胸がいっぱいになった。
「氷雪華ー。本割と同じ様にやっちゃっていいってー」
島村親方が座敷から声を飛ばしてきた。
どうやら月詠部屋の親方からのリクエストらしい。
つまり個有魔法を使ってもいいということだ。
「はい」
それだけ応えると、彼女は前を向いて対戦相手を見つめた。
相手──天ノ宮は先程の気品ある笑顔から一変して、厳しい表情でこちらを見つめていた。
──良いわね。力士の
そう思うと、彼女は体から雪色の魔力を吹き出しながら、両手を土俵につけた。
すぐさま、天ノ宮も土俵に手を付ける。土俵が氷雪華の白と、ぼんやりとした色──それは虹にも似ていた──に輝き出す。
弾けるように、お互い立ち会う。
そして氷雪華が見たのは──。
鮮烈な、炎の紅色だった。
自分の冷気を込めた張り手と、相手の炎の張り手が交差し、お互いの体にぶつかる。
衝撃。そして刺すような熱さ。だが、氷雪華が受けた衝撃はそれだけではなかった。
──この
朝聞いた話では、天ノ宮は特に個有魔法らしい個有魔法は持っていないという話だった。
それが。
氷雪華は冷気をまとった反対の腕を突き出し、引き、その反対の腕を突き出し、引きを繰り返しながら戸惑う。
──話と、違う。
続けざまに突きながら思う。
──この炎……。前に対戦したあの力士に似ている。そう。
彼女は動き回りながら、天ノ宮が繰り出す突きをいなし、突き返しながら、
──野須ノ姫。彼女に似ている。
冷静に相手を見ながらそう結論づけた。
野須ノ姫とは、幕下の頃に幾度となく対戦し、十両に上がり、彼女も十両に上がった時一度対戦している。
その印象としては、彼女の炎の個有魔法は大したものであるが、その威力は自分の氷結能力よりかは劣っていた。だから、それを補うために色々なことを仕掛けてくる。そんな印象を持つ女力士だった。
そして、この天ノ宮という女力士が持つ火炎個有魔法(?)は。野須ノ姫のものより、同じぐらいかやや弱い。そのような程度の威力だと、身に受けながら感じていた。
だから。
──こんな炎、怖くない。
そう思うと、魔力を集中させ、冷気をさらに強くして突きを繰り出す。
天ノ宮は炎をまとった自分の手で突きをいなそうとした。
冷気と炎がぶつかる。そして、炎は冷気に負け、小さくなる。
その勢いのまま、突きによって相手の腕がのけぞる。そして体が揺らぐ。
──
そう見た氷雪華は懐に飛び込もうとした。
しかし、天ノ宮は体勢をすばやく立て直し、
その叩きに逆に姿勢を崩すが、氷雪華も強い体幹で残し、身を起こす。
しかしその代償に両脇が空いた。
天ノ宮はそれを逃さず、両腕を差し込んで組んだ。
もろ差し。両方の手が下手で廻しを取った状態だ。
その瞬間、氷雪華の体になにかピリッ、という刺す痛みが走ったような気がしたが、ごく僅かだったこともあり、彼女は気にもとめなかった。
氷雪華は、慌てず相手の両差し手を外側から入れて肘関節を締め上げる。
腕を極めようというのだ。と同時に、足を前後に開いて姿勢を良くすることも忘れない。
彼我の動きが止まった。お互いは相手の方に顔を乗せ、相手の出方をじっと伺う。
自分と相手の、荒い吐息と心音が聞こえてくる。
天ノ宮は廻しを掴んだまま腕を上下左右に動かし、腕の極めを解こうとするが、その力より氷雪華の
氷雪華はそのまま腕に魔力を込める。
すると、冷気が腕から放出され、相手の腕を冷やし、凍らせていく。
氷雪華は自分の型にはまった、と思った。相手にわざと組ませ、その組ませた腕を極めながら凍らせて腕力と体力を奪い、極め出して勝つというのが彼女の型なのだ。
みるみるうちに天ノ宮の腕が氷に包まれていく。
こうもなれば相手は腕の感覚もなくなり、体力も奪われていくのだ。
しかし。
天ノ宮は腕が凍りついても、こらえ続けた。既に感覚では三分以上は経過していると氷雪華は感じていたが、それでも荒い息をさらに荒くしつつ、四つを維持しているのだ。
──……なんて体力。
彼女はそう驚嘆しながら、次の手を打った。
足をさらに開き、すぐさま腕を極めたままそのまま体を捻ろうとする。
それに気がついた天ノ宮は前進しながら腕を動かそうとするが、腕が動かない。
氷雪華はこらえる天ノ宮の体を無理やり捻り倒した。極めながらの上手捻りだ。
どう、と部屋中に大きな音が響き渡り、土埃が上がる。
氷雪華は立ち上がりながら大きく息を吐いた。
見れば、倒れた天ノ宮は腕が凍りついたままで、腕を動かすことが出来ず、立ち上がれない。
「あ、う……」
「だっ、大丈夫ですか!? 天ノ宮センパイ!?」
土俵の周りで控えていた、月詠部屋の力士が慌てて駆け寄って助け起こす。
と同時に小さな炎を手にともして、氷を溶かそうとする。炎の共通魔法の一つだ。
氷雪華は、その女力士が処置を行うのを見ながら、
──体力はかなりあるわねこの子。
これで魔法がもっと強かったりしたら……。
内心、冷や汗を流した。
結果論から言えばこちらの型にはまったのが幸いだったが、手の内を知られた次からはそれも難しいだろう。
しかし気になることはもう一つあった。
天ノ宮の個有魔法のことだ。どうにも引っかかるものがある。
個有魔法というのは同じ個有魔法でも個人によって微妙に違いがあり、威力や効果、色、出方や形など、それぞれ細かい違いというのがあるのだ。
だが、天ノ宮のそれは、威力以外はあまりにも野須ノ姫のそれと似すぎていた。いわば、野須ノ姫の炎の個有魔法の下級互換バージョンが、天ノ宮の炎の個有魔法に思えるのだ。
──けれども、本当にそうなのだろうか。
天ノ宮の本当の個有魔法は、別なものではないだろうか。
背筋に冷たいものがさらに一つ走った時、稽古場に声が一つ飛んだ。
「雨蛙、大丈夫か?」
「天ノ宮です。はい、いけます!」
その声の方を見ると、土俵の反対側で天ノ宮が、元気な姿で揚座敷の男親方の方を見ていた。
氷漬けにされた両腕も、なんともないようだ。
氷雪華はその平然とした彼女の表情に、恐ろしささえ感じた。
──なんて子だ。
あれだけ氷結魔法で腕や体にダメージを受けながら、それを感じさせないほどまでに回復するなんて。
あの女力士の治療魔法の良さもあるけど、天ノ宮自身の自己治癒能力の高さがなければ、この短時間ですぐには回復できない。
そんな事を思っていると、
「氷雪華関、もう一番お願いします!」
と天ノ宮が頭を下げてきた。
彼女の元気の良さに押されながらも、それを感じさせないよう表情を作り、
「受けて立つわ」
冷静さを見せかけた声でそう応え、土俵の中央、仕切り線の前へと氷雪華は戻る。
天ノ宮もそれに習う。
二人は仕切り線前で蹲踞してから、前傾姿勢になり、手を土俵につける。土俵が先程と同じように白と虹に輝き出す。
そして、両方の手をお互いに土俵につけ──、
立ち合った。
その瞬間、天ノ宮の手が輝いた。個有魔法発動の証だ。
また炎の個有魔法か、と氷雪華は思いながらも自らも氷の個有魔法を発動させる。
そうしてまたぶつかりあったが。
今度は先程とは違っていた。
氷雪華の目前に、直径十五センチぐらいの光で形作られた円盾が現れたのだ。
その盾と、氷雪華の突きがぶつかり、氷雪華の手が弾かれる。
彼女の、心と体に衝撃が走った。
──なんですって……!?
天ノ宮は個有魔法がないどころか、複数の個有魔法を持っていたのだ。
──これも話に聞いてない!
氷雪華は心に焦りを浮かべながら、横に動きながら突きを繰り出そうとする。
彼女の氷の飛沫が宙に舞う。しかし、その飛沫は天ノ宮には当たらず、光の盾の熱か、それとも直接あたったものか、盾で消えてしまう。
対する天ノ宮は、単純な盾で防ぐではなかった。その手の動きと連動して宙に浮いている光の盾を普段の突き押しする要領で手を引いて突くと、その魔法の盾も動いてこちらへと向かってくる。
衝撃。
横に動こうとした氷雪華に魔法の盾の衝撃が襲う。魔法で作られた盾であったが、その衝撃の重さは、鋼鉄のそれに負けないぐらいの重みと痛みがあった。
──この盾の使い方……。手慣れてる……!
そんな感想を抱きつつ、天ノ宮の盾を避けつつ、なんとか天ノ宮に突きの一撃二撃を与えていた氷雪華だったが。
ここで彼女に不運が襲った。
彼女の右手の突きが、天ノ宮の盾とまともにぶつかってしまったのだ。
今までの突きと痛みとは違った質の衝撃と痛みが右手の手首を襲った。
──くっ!
その痛みに一瞬顔をしかめたがそれを表に出すわけにもいかない。すぐに相撲人の顔に戻すと、残った左手で手を伸ばす。
できれば、廻しでも取っておきたい。それが出来なくても、体に触れ、凍らせることぐらいはしておきたい。
氷雪華は、そんな淡い期待を抱きつつも低い姿勢を取り、相手の懐へ飛び込んだ。
その時だった。
頭の上で重く大きな音が鳴り響いた。
と同時に、頭部にそれに比例するかのような痛みと衝撃が突き刺さり、広がっていった。
「グワッ!?」
眼の前の光景が揺れ動き、その後、体全体に別の質の衝撃が走ったかと思うと、目の前が闇に覆われた。
──ミスった。
次の瞬間、氷雪華の目の前が真っ暗になり、その直後衝撃を一つ覚えると、彼女はそのまま気を失った。
次に気がついた時、氷雪華は自分が土とは違う場所にいることに気がついた。それが部屋の揚座敷ということに気がついたのはさらに数瞬後のことだった。
さらに自分を覗き込む影があったのに気がつく。島村親方と、月詠部屋の男親方ともうひとりいた女親方だった。
「氷雪華ちゃーん、気がついたー?」
島村親方のいつもと変わらない陽気な声に救われつつも、身をゆっくりと起こす。
頭と右腕の痛みは既になかった。
「私は……」
そうつぶやくと、身を起こした関取に連動するように離れた男親方が、
「よう、大丈夫だったみたいだな。お前さん、天ノ宮の盾で後頭部をはたかれてそのまま土俵にぶっ倒れたんだ。で、座敷に上げたんで<凜花>に魔法で治療させてた。……右手が折れてたからついでに治療しておいたぜ」
気がつくと、右手の痛みはかなり引いていた。手をブラブラさせても痛みはわずかだ。
「氷雪華関、大丈夫ですか?」
反対側の方から声をかけられたので、そちらの方へ顔を向けると、天ノ宮と黒髪の若い少女、というか少年にも見える女力士が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
天ノ宮はなにかの袋と水のペットボトルを手にしていた。
彼女があの男親方の言う凜花なのだろう。
「ボクの魔法で出来る限りの治療はしたつもりですが……」
「大丈夫。なんともない」
そう言いながら手を開いたり閉じたりした。
こういうときは、相手に弱みを見せたくなかった。
目の前の天ノ宮たちだけではない。この話が広まって、他の女力士たち、特に、十両で対戦する相手に弱みを知られたくないのだ。
彼女は恐れを抱いていた。彼女は見かけに反してそういう部分がある乙女だった。
「氷雪華関、つい本気になってしまって……」
天ノ宮が頭を下げて謝る。その頭の下げ方は力士というよりも貴族や皇族といった身分の高いそれを氷雪華に連想させた。
その姿に彼女は憤りすら感じさせた。自分の恐れを隠そうと、
「謝らなくていい。これが相撲なの。場所中もこんなことしょっちゅうなの、貴女にだってわかっているでしょう?」
叱責の意を含んだ声でそう言うと、天ノ宮はますます顔を下に向けた。
「は、はい……」
「天ノ宮さん」氷雪華は彼女のあごに手をやると、その手で顔をむりやりに上げさせると彼女の目を見て言った。「自信を持ちなさい。貴女のその個有魔法、どういうものか知らないけど、どうやら特別なもののようね?」
「……」
「その特別な力を持っているなら、その力にふさわしい矜持と自信を持って相撲を取りなさい。だからこそ出稽古に来たのでしょう?」
「は、はい……」
彼女が小さくうなずくと、氷雪華は手を離して立ち上がった。
そして、しっかりとした足取りで、土俵の方へと向かう。
「申し合いを続けましょう。私、正直言って貴女のことが怖い。その力の底知れなさが。だから稽古を通してその力を知りたいの。では、やりましょう」
自分では気づいてなかったが、氷雪華は饒舌になっていた。いつも言葉少なな彼女がここまで言うのは、珍しかった。
天ノ宮という力士が持つ謎の固有魔法の魅力は、それほどまでだった。
「はい、氷雪華関!」
天ノ宮が笑顔でそう応じると、彼女も後を追い、袋とペットボトルを揚座敷に置くと土俵へと降りていった。
「ぜぇ、はぁ……、ぜぇ、はぁ……」
「ぜぇ、はぁ……、ぜぇ、はぁ……」
土俵上に荒い呼吸が、二つこだまする。
左右に別れた女力士二人が、その荒い呼吸のまま、お辞儀をする。
「氷雪華関、ありがとうございました……」
「ありがとうございました……」
そして二人は、上がり座敷の左右へと別れて座る。
そのうちの一人、氷雪華関は右の方へと座ると、待っていた付き人の女力士から水ボトルとタオルを受け取り、タオルで顔と腕、肩を拭くと、水をぐいっと一気飲みする。
ボトルを叩きつけるように置くと、ちらっと左側の方を見た。
親方衆を挟んで左側、出稽古に来た月詠部屋の天ノ宮たちが、水を飲みながら笑顔で会話を交わしていた。そして水を飲むと、そばに置いてあった袋の中に手を入れ、そこからお菓子かなにかをつまむと、それを口に入れて食べる。そしてすぐさま飲み込むと、次のお菓子を手に取り口に放り込む。
その様子が、氷雪華にとっては魔神のようにも思えた。
──あの番数こなしてすぐに笑顔になるなんて、なんて回復力……。
氷雪華は苦々しい、に近い面持ちで息を整えていた。
恐れと言うより、嫉妬に近い感情を抱いていた。
それから幾番か、天ノ宮と氷雪華は三番稽古を重ねた。
結果は天ノ宮の勝利数が多かった。
後の方になっていくほど天ノ宮の勝ちが多くなっていた。
申し合いを終える頃には、氷雪華は天ノ宮がすっかり苦手になっていた。
というのも、その一番で、天ノ宮が何の魔法を繰り出してくるかわからず、つい見て立ち合ってしまうため、後手後手になってしまうためだった。
こういう、選択を強要されるタイプの力士には、警戒するあまり自分の相撲が取れなくなるのが、彼女の欠点とも言えた。
複数個有魔法を持つ力士というのは、そう珍しくはない。
上の方に行くほど、その能力を持った力士が多くなるほどだ。
しかし彼女、天ノ宮の個有魔法は奇妙だった。
例えるなら、彼女自身は真っ白、いや無色といえるのに、持っている
そのそれぞれ色を持ったいくつもの技、魔法をいつ繰り出してくるのか全くわからない。
だから後手後手になってしまう。
三番稽古を終えた時、氷雪華はすっかり身も心もくたくたになっていた。
──こんな相手、嫌。あんなこと、言うんじゃなかった。
氷雪華はそう思うまでになっていた。ある意味、彼女に心の傷を刻まれたような気がしていた。
しかし、上がり畳で見ていた自分の悪口を言った南珠とか言う女力士も、自分と彼女との取り組みを見て、
「氷の力士ってこんな戦い方もできるんだ……」
と真面目な顔で何度かうなずいていたのを聞き、自分が相撲をとってよかった。とも思った。
その時、物音がした。
ビニール袋の中のものを食べ、ペットボトルの水を一気飲みした天ノ宮が土俵に降りていったのだ。
そして彼女はこの部屋の別の女力士に、申し合いを申し込む。
その後姿を見ていた氷雪華は、
──あの子はすぐに十両に上がって、あっという間に私を追い抜く。多分、そうなるわ。
……流石はあのお方のご子女と言ったところでしょうか。
空恐ろしい思いをいだきながら、土俵上で構え、相手の力士にぶつかっていく銀髪の巫女力士を注視するのであった。
「よう、甘納豆」
「天ノ宮です」
「お疲れ様。お前さん、いい稽古が取れているな」
一通り高千穂部屋の女力士と三番稽古をし、それから
部屋の親方や女力士たちは、自室で昼寝をしていて今はいない。
「どうだ、魔法を習得できたか?」
「はい、それなりには」
そう聞かれたので、天ノ宮は右手の手のひらを開くと、精神を集中させる。
すると、手のひらの上で、雪と氷が舞った。
氷雪華の持つ、個有魔法のそれだった。冷気がわずかに肌に伝わる。
天ノ宮はそのさまに満足した。自分の思うように魔法が発動できたからだ。
鬼金剛もニンマリとした表情でその様子を見ると、
「おっ、できたな。昨日部屋で他の力士で試行錯誤して試してみたのが生きたな」
そう言ってうなずいた。
「希世ちゃんの盾の個有魔法が、こんなにも早く役に立つとは思いませんでしたけれども……」
そう。天ノ宮が氷雪華関との三番稽古二戦目で使った盾の個有魔法は、元は希世乃月の個有魔法だったのだ。
それを昨日、天ノ宮の個有魔法の性能発覚後、いくつかの個有魔法の使い方を習得したときに彼女から学ばせてもらったのだ。
「昨日やっといてよかっただろ? さすが俺様ってところだな」
「その提案をしたの、月詠親方ですけれども……」
天ノ宮はもう、本当に手柄を自分のものにしちゃうなんて、それにそれを実行したのはわたしなんですけど、と元男子大相撲幕内力士をジト目に睨む。
彼はひどいなあ、と言うと、話題を変えた。
「なあお前さん、どうして女子相撲を始めたんだ? その美貌と能力なら、他のことでもじゅうぶんやっていけそうだが?」
話題をそらしたのに若干の憤りを感じながらも、どうもそれが聞きたかったようらしいと見て取り、天ノ宮はその話題に乗ることにした。
「……わたし、四歳のころ、家族と一緒に女子大相撲を観に行ったんです。それで興味が湧いて自分も始めたいと、わたしが言い出したんです」
「ほお」
「家族や周りの皆は大困惑いたしました。でも、兄の一人も相撲を始めると言い出したので、それで相撲を始め、今に至っているのです」
「ほお、その兄って……」
「天ヶ峰です」
「ああ、あの十両の……」
そう言って鬼金剛は感心するような声を上げた。わかっているような、いないような、そんな声だった。
もしかして、と疑いの目を向けながら、天ノ宮は言葉を続けた。
「ちなみに、その見に行ったときに一番心に残っていた力士が、月詠之華、つまり親方なのです」
「それでお前さんが月詠部屋に入門したと……」
「そうです」
「なるほどねえ……」
「でも、それは子供の頃にはそう思っていましたけれど、十五のときに角界に入ろうと思ったのは別の理由からなんです」
「というと?」
鬼金剛が目を丸くすると、天ノ宮は少し照れ笑いしながら応えた。
「わたし、家を早く出たかったんです。固苦しい家を出て、独り立ちしたくて、高校にも行かずに角界に飛び込んだんです。家族のみんな、特にお母様には反対されましたけど、お祖父様が賛成に回ってくださって、それから家族みんなが納得してくれてこの世界に入ることになったんです」
「そうだったのか……」
あごに手をやりながら、鬼金剛は納得した表情で何度かうなずいた。
「ん、わかった。ありがとな。それじゃ、高千穂のみんながまた降りてきたら、出稽古の続きをするか。ちと志乃と稽古のことで話してくるわ」
彼は一つ片目をつぶると、
「じゃあ、行ってくるわ。あんまり食欲魔神みたいに食べすぎるなよ」
「わたしは魔神じゃありませんっ!」
鬼金剛は、そう言って手を振りながら部屋の奥へと去っていった。
天ノ宮は苦笑しながら見送ったが、その後で少し不安とも、物憂げとも取れる表情をして考え込む。
──もしかして、わたくしの本当のこと、知っているのかしら。あの男。
その可能性はあるわ。何しろ、わたくしの能力を探り当てたほどの人なのだから。
月詠親方も、そうなることをわかってあの男を指導者にしたのだろう。
でも、今正体を明かすのは良くないわ。もう少し、黙っていることにしましょう。
それよりも。
天ノ宮はお菓子の袋を畳に置くと土俵に降りて、四股を軽く踏みながら思った。
──今はいろいろな個有魔法を覚えましょう。そうすれば、野須ノ姫に勝てるようになると思うし。
そう思うと、片足を高く上げ、力を貯めると一気に振り下ろし、地面を強く叩いた。
「……島村親方」
「なあに氷雪華?」
同じ頃。高千穂部屋の事務所で雑務をしていた島村親方のもとに、浴衣姿の氷雪華が入ってきた。
「あの天ノ宮っていう力士について、ちょっと話があるのですが……」
「じゃあ、ここに座ってー。そんなに掛かる話じゃない?」
「ええ」
島村親方はテーブルを挟んで自分と反対側の椅子を指し示すと、氷雪華に促した。
氷雪華はすぐさま座ると、本題を切り出してきた。
「彼女、どこかで見たことがあるような気がするんですけどね……」
島村親方は、あ、と思うと、にこやかな笑みのまま話を聞く体勢に入る。
「どこで?」
「通信網の動画放送とか、新聞とか雑誌で……」
「で、誰?」
「ちょっと言うのがはばかれるんですけど……」
「ふーん、それほどまでの人なんだ。で、誰?」
「……皇太子殿下のご令嬢に、
依子殿下は、秋津洲皇国の
そこまで聞いて、島村親方は顔色一つ変えずに応えた。
「似ているかもね? で?」
「依子殿下、中等部を卒業してから消息が知れてないんですよね……。どこかの高等部にお入りになられたのかと思いましたが、そういう話もないんですよね……。もしk」
氷雪華がそう言うと、島村親方はそれまでの表情とがらっと百八十度変わった、恐怖さえ感じさせる真顔で言った。
「……そのことは知らないほうがいいですよ?」
「……親方そんな怖い顔で言わないでくださいよ!?」
冷や汗をかきつつそう返した氷雪華だったが、その真顔に全てを悟り、
「……わ、わかりました。……そういうことなんですね。では、失礼いたします」
そう言って立ち上がり、事務所を後にした。
ドアが閉まるのを確認すると島村親方は、いつものほんわかとした顔に戻り、
「まあ氷雪華ちゃんは口が堅いから、大丈夫かなー」
一つ笑みを見せると、また目の前の事務作業に集中するのであった。
「本日は本当に、ありがとうございましたー」
赤よりもさらに紅い色が西空を染め、それ以外の空は紫色に染まりつつある時間の、高千穂部屋前。
部屋前に止めた自動タクシーの前で、鬼金剛は弟子と引率の御笠親方とともに松島親方と島村親方に挨拶をした。
「いえいえ、こちらも充実した稽古を行うことができて、有意義でした」
中年の恰幅のいい着物姿の女性、という出で立ちの松島親方が、満面の笑みで挨拶を返す。
──まあこっちは、天ノ宮にお前さんたちの力士の技を盗ませるために、来たようなものだけどな。
そんな内心をさとられまいとするように、鬼金剛も笑顔で、
「いえいえこちらこそ、大変有意義でしたよ。突然出稽古の申し出に、快く引き受けてくださって本当に助かりました」
そう言って頭を下げ、
「じゃ、これで帰りま……」
と言おうとした瞬間だった。
「鬼吉さあーーーーん!! そんなのひどいじゃないですかあーーーーーーー!?」
志乃姫、もとい島村親方が体当たりをするように抱きついてきた。
「ちょっ、何すんだお前!?」
「出稽古の代わりに一緒にお酒飲むって言ったでしょおおおおおおおおおお!?」
「いや言ってない! そんなこと言ってねえよ!?」
「言いました! 魔法通信で言いました!! 今晩付き合うって言いました!!」
そう言いながら島村親方は、女の莫迦力で鬼金剛の体を引きずる。
そのものすごい引きずりように、こいつ現役時代以上に力がないか、と驚きつつ、
「ちょ、ちょっと天ノ宮、みんな、助けてくれないか!?」
悲鳴を上げながら求める。
が。
「……天ノ宮先輩、どうします?」
「どうやら昔からの彼女みたいですし、放っておいてもいいんじゃないかしら? 凜花」
「南洙先輩と希世先輩は……」
「あー、なんかまんざらでもないみたいだし、ほっといてもいいんじゃない?」
「お似合いみたいですしね〜。このままにしておきましょう〜」
「じゃ、私達、これで帰りますんで。鬼金剛さんのことよろしくお願いします」
「御笠親方までっ!?」
そう言い合うなり、御笠親方と天ノ宮たちはそそくさとタクシーに乗り込んだ。
「ちょ、ちょっと待てお前らー!?」
そう叫ぶ前でタクシーのドアは無情にも閉じられ、電子的走行音を立てながら車は走り去っていった。
そして、耳元で悪魔の甘い囁きがした。そこには、御使いの笑顔があった。
「さあ、今日はゆっくりしていきましょう。鬼吉さんっ」
鬼金剛は、その笑顔に恐怖した。
「……鬼吉さあん」
「……なんだ?」
ヨシワラ町の場末の飲み屋のテーブルで、酒に酔いつぶれた様子で突っ伏している島村親方が、彼女の対面に座っている、ちょっとだけ酔った様子の鬼金剛に話しかけた。
話しかけると言うよりは、もはや寝言を言っているに近い状態ではあった。
「……あたし、本当は引退したくなかった。もっと相撲を取っていたかった。でも、あの事件のせいで……」
「……お前の他にもいっぱいいたもんな。俺に巻き込まれて相撲をやめざるを得なかった女力士たちが……」
そうポツリと呟くと、鬼金剛は空っぽのコップの中を見た。
今の俺とこいつを現しているようだな、と鬼金剛は思った。
三矢事件は、当事者の男力士と遊廓三矢屋の遊女、それに鬼金剛だけでなく、彼に付き合っていた女力士などにも飛び火し、多くの女力士が半ば強制的に引退させられていた。その多くは無実の罪であった。女相撲の横綱審議委員会や親方衆は彼女らが冤罪であることを知ってでさえ、その判断は変えようがないと主張した。
あやまちを認めてしまえば、自分たちに非難が集中しかねない。そういうことだった。
鬼金剛はそれを憤りながらも、冤罪でありながらも罪を被せられた自分にはどうしようもないことだと知っていた。
彼女らの主張を変えられそうなのは、それこそ、神々や内裏ぐらいなものだと思っていたし、それは事実でもあった。
その、自分にはどうしようもない、という事実が、鬼金剛の生活をただれたものにした原因の一つであった。
「なあ」
「なにい?」
鬼金剛はコップに酒をつぎながら島村親方に問う。
「……お前さん、もう一度土俵に上がりたいか?」
「……うん」
コップの酒を一気飲みする。
ゲップを一つ吐くと、言葉を続ける。
「なら、ちょっと掛け合えるかもしれない場所が一つだけある。今やっている仕事がうまくいったら、それができるかもしれない」
「……本当ぅ? ……みんなも?」
「ああ、マジだ。みんなもだ。期待して待っていてくれよな。志乃」
鬼金剛はそう言って島村親方の背中をぽん、と叩いた。
叩いたはいいが、酒を飲みすぎた島村親方には少し強すぎたようで、
「あ、ありがゲボォーッ!?」
盛大にテーブルに吐いてしまった。
あたり一面に、食べたものや酒や胃液や水分などが入り混じったものが巻き散らされる。
「う、うぁあ!?」
鬼金剛は思わず飛び退いてしまった。
自業自得、である。
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