第18話 松永弥生3

「康介さん、おかえりなさい」


「おう、ミヅキ来てたのか!ただいま〜」


ミヅキの我が家でのレンタルが始まった。

息子役ではなくあくまで兄の甥っ子を預かるという事にしている。


「弥生さん、僕もそれ運ぶ」

「熱いから気をつけてね」

ルーが多めのカレー皿を持つと、ミヅキは慎重にテーブルへと運ぶ。


 出張の多い康介がミヅキに出くわす回数自体少なかったが、子供好きの康介はすぐにミヅキに打ち解けてくれた。本来弥生の兄は自閉症のため三十歳を超えてもあの実家に閉じ込められ、今も母の献身的な介護を受けている。夫の康介には家族ぐるみで兄は既婚者として父親の企業を継ぎ単身で海外勤務をしていることになっている。弥生が実家とは上手く言っていないと話してから康介は家のことを追求することはなかった。


 ミヅキを寝かしつけ、洗い物を済ませていると、風呂上がりの康介が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと音を立てた。


「アイツ、弥生の事好きなのかもな」


「お母さんが恋しいんだよ」


「バカだなぁ、そういう意味じゃないよ」


 喉を鳴らしてビールを飲むと康介がブラジャーの線をなぞるように背中に手を這わせてきた。


「ちょっ……ちょっと康ちゃん?酔ってるの?」


 びっくりした弥生が思わず声を小さくする。力なく拒む手の先に康介の熱が地肌に触れてくる。


「まだ二本目だよ」


 たちまちブラジャーのホックが外されると風呂上がりの湿った手が弥生の胸へと触れる。


「ちょっと待って、ミヅキが向こうで寝てる……っ」


「うん。だからここでしよ。声、気をつけてね」


「待って……っ……あっ……」


 寝室のミヅキを起こさないように、弥生はリビングで声を押し殺した。


風呂にもまだ浸かっていない汚れた身体で、服の隙間を縫うように夫の熱い指が弥生を刺激する。


「……ふっ、あっ、……んんぅ」


「ほら、ミヅキに聞こえちゃうってば」


 いやらしく笑う夫は久しぶりに「男」の顔付きになっていた。ミヅキをダシにして明らかに興奮している。それは、股に伝う自分の体液を見ればわたしにも同じことだった。

互いに服も脱がさず、スカートを捲り上げると濡れた下着の隙間からねじ込まれ、たちまち全身が粟立った。突起立つ全身をくまなく触れてほしいのに、服が邪魔でそれがままならない。そのもどかしさにすら興奮して弥生は何度も口を手で覆った。


 丸の付いていない日のセックスなどいつぶりだろう。


互いに素知らぬ顔で寝室のベッドにそっと戻るとミヅキがすやすやと寝息を立てている。ミヅキを間に挟んでわたし達は顔を合わせ「おやすみ」と笑顔で眠った。ミヅキの寝顔を見ながら弥生は間違いなく幸せを噛み締めていた。


******


 例年より早く関東の梅雨入りが発表されてから弥生の周りでは奇妙なことが起き始めていた。レンタルチルドレンを始めた頃から誰かに付き纏われているような気がしてならないことだ。


会社帰り、朝のゴミ出し、休日での出先。誰かに尾行されている。確信めいたことはないが、弥生は路上で幾度となく振り返った。もちろん視界に不審者はいなかったが、嫌な胸騒ぎが止まらなかった。


一番の心当たりは小玉幸彦だった。社内では極端に弥生への付き纏いは減り、最近では残業も程々に帰宅するなどとあって女子社員の間で話題になっていた。他には当然、仙台にいる夫の浮気相手も頭に過った。あの子供を抱えていた女性だ。もしあの子供が康介との子供だったら、弥生を脅迫するなり何らかしらアクションを起こしてもおかしくはない。


「康ちゃん、まだ出張かかりそう?」


「帰れる目処なんてわからないよ。このバグをなんとかしないと死ぬまで戻れないんだ」


 疲れとイライラが電話先からも漏れている。間もなく深夜になろうというのにクライアントのオフィスから離れられないらしい。確か昨日もそこで寝泊まりしている。ご飯はちゃんと食べているのだろうか。夫の会社はこの時期になると年度末に導入した新システムのエラーが多発しやすく、クレームとバグ処理に追われ、例年のごとく家を空ける日が多い。


 弥生の近況など報告できる雰囲気でもない、不安な気持ちを押し殺して、夫の帰りを待つしか無さそうだ。


 すると夫のシステム会社にまるで連動するかのように今度はレンタルチルドレンのサイトがシステムメンテナンス中になってしまった。


「ミヅキ、一緒にそこのスーパーに買い物に行こうか」

「うん!」

 嬉しそうにミヅキが答える。本来であれば、サイトにいちいち許可申請を出すところだが、システム停止中ならばしょうがない。


ミヅキは買い物へ行ってもこれが欲しいと言ったことは一度もない。わたしの横にピタリとくっついて、カートを押し、問題を起こす素振りもない。お菓子か何かを買ってやろうとすると困ったように首を振り、「わたしも食べたいから選んで」と言って数百円のチョコレート菓子を一つ指さす程度だった。


 スーパーから出ると出会い頭に誰かにぶつかりそうになり、反射的に避けようとすると左側にいるミヅキが邪魔をして、そのまま相手と肩が当たってしまった。

「あ、ごめんなさいっ」

 ガザガザっと買い物袋が揺れた、見ると長い金髪の前髪から鋭い目つきをした男と目が合った。痩せ型の体つきに黒色のパーカーに黒いスキニーパンツ、小雨が降っているせいかパーカーのフードを被っている。女としての防衛本能なのか、弥生は愛想笑いを浮かべながらミヅキの手を強く握り、背後に隠した。


金髪の男は声すら発しなかったが、軽く会釈をして店の中へと入っていった。後ろ姿を見れば今どきのただの若者なのに、弥生は最近身の回りに起きている違和感に少し神経質になっているようだ。


 こうしてサイトへアクセス出来ぬまま、不安な気持ちを誤魔化すように頻繁にミヅキをレンタルした。レンタルに慣れると次はミヅキが少しずつ不用意になっていった。宿題をする教科書の裏には辻村真人つじむらまひとと本名がむき出しになり、もちろん隠す素振りもなかった。子供の行動からすれば当然だろう、弥生はミヅキが風呂に入っている間にランドセルを覗いた。学校からもらったプリントなどをみて本名の他に学校名くらいしか分からなかったが、弥生にはそれで十分だった。


 「真」実の「人」と書いて真人————。


 本名を知ると、急に自分が付けたミヅキが安っぽく感じて悲しくなった。弥生は口に出してミヅキの本当の名前を口ずさむ。わたしにこの子の本当の名前を呼べる日は来ない。弥生は教科書の裏にあるミヅキの名前を指でなぞりながら何度も口ずさんだ。


 システム停止中に唯一サイトからあったのはメールでの一斉送信だけだった。

 振込だった支払いが、口座への入金が出来ないため【集金袋】という手作り封筒をミヅキに持たせ、現金での支払い方法に変更となったことだ。もちろん店の事を聞いてもミヅキは何もわからない様子だったがサイト側のルール指導などがゆるくなっているのは明らかだった。


そのうち集金袋すらミヅキが忘れてしまうのか、徴収されたりされなかったりと適当になり、予約を入れてなくてもミヅキが時折くるので、無償でレンタル出来たりもした。

 念の為サイトへメールの問い合わせをしてももちろん返信はない。何度かフリーダイヤルに電話をしても永遠と通話中のままだった。


「ミヅキ、来週は金曜日にもレンタル予約したいんだけど空いてる?」


「うん、空いてる!」


 こうやって最近ではミヅキ本人に予約が取れるくらいだ。恐らくこのサービスは近いうちに終了となる。そんな予感が弥生の頭でよぎりながら本人も知らぬふりをしていた。

このまま、ミヅキが学校帰りに遊びに来てくれる関係。それでも弥生は良かった。むしろそうなることをどこか望んでいた。


「その日は同窓会が西麻布であるから、少し遅くなるの。夜の九時からでも大丈夫?」


「何時でも大丈夫だよ。僕、お家の前で待ってるから」


「え、家の前なんて危ないよ。最近はこの辺も物騒になってきてるし」


 弥生は自分の身の回りに起きている違和感を思い出していた。スーパーでぶつかったフードを被った金髪の男ですら頭をよぎったくらいだ。


「そうだ、ミヅキに家の鍵を渡しておく」


「えっ?」


「金曜日はこれで家の中に入って待ってて」


 弥生がそう言って紐を通した家のスペアキーをランドセルの内側のフックにくぐらせ内ポケットにしまった。これで、落とす心配もない。


「……いいの?」


 ミヅキが少し不安そうに上目遣いでわたしを見る。


「ミヅキだから特別!二人だけの秘密だよ!」


 にっこりと笑って、人差し指を立てて口に近づける。


「うん!」


 特別と秘密————。子供が好きそうな単語だ。ミヅキが力強く頷くと人指し指を真似して笑顔になった。まあるいほっぺたに笑窪ができる。


******


 弥生の身の回りで起きる奇妙な違和感はまだ続いた。


 「これが、最後のご報告になります」


 杉山探偵事務所から夫の浮気調査の打ち切りを言い出された。夫の浮気に関しては、これ以上ないほどの証拠が上がっている。浮気相手の子供は認知している様子もなく、あれから夫自身その女性に会いに行っている様子もない。調査上ではその女との関係は終わったと報告が出ていた。

 昼ドラのような内容だが、杉山の言い分からするとよくいる男性の反応で、よくある出来事の一つのようだった。


「金額をお支払いすれば調査は続けて頂けると思っていたのですが……」


 控えめに弥生が調査続行をお願いしたが、杉山は申し訳なさそうに言った。


「ここだけの話ですが、実は、近いうちに事務所を閉める予定なんです」


 杉山探偵事務所の需要と信用度はそれなりにある事と弥生は知っている。決して不景気な事務所ではない。


「そもそもこの事務所もこんなに長くやるつもりはなかったんですが、お客様が増えるとどうも途中で止められなくなってしまいましてね。この商売をするには、年齢的にもきつくなってきたので、そろそろバカ息子を連れて田舎にでも引っ込もうかと思いまして」


 杉山の年齢は知らないが、ガッチリした体格に、太い腕、確信的で自信に満ちた対応。年齢を心配するには早すぎるように見える。意外にも杉山が初めて自分の事を話した息子という言葉に弥生はそれ以上何も言えなくなってしまった。この人にも子供がいたのだ。


 こうして事務所との行き来がなくなると、遠く離れた夫がさらに遠くに行ってしまったように思えた。


 そして次は、レンが来なくなった。


 レンを添い寝屋として呼ぶには、レンタルナイトの女性担当者とメールでのやり取りが基本になっている。そのメールを何度送信しても返事が来ないのだ。レンタルチルドレンが姉妹店とレンが以前話していた。停止中のサイトとはやり関係があるのだろうか。レンタル事業とはいえ、今の時代に特化した不透明なネット上での水物商売。いつサービスが終了してもおかしくはない。


 来るはずの人が来ない。来てほしくない生理がくる。


 鮮血に汚れた下着を目の当たりにするたびに世界の終わりのような絶望の渦の中へ落ちていく。鉛のように重くなる身体。冷たくなっていく手足。


一人、トイレの中で毎月のように味わうこの瞬間は、五年も繰り返しているのに全く慣れない。どうして?どうやったら?あんなに幸せなセックスをしたのにどうして?


 体内から世界の滅亡が脳内を占領していく。


 「どうせ誰からも必要とされていない」とわたしを必死に抱く小玉課長の顔が愛おしい。

 娘のいる紫乃が羨ましい。

 離れた夫をいつも側で感じたい。

 レンくんの熱い体温でこの冷たくなった身体を温めて欲しい。

 ミヅキのまあるいほっぺたに触りたい。


 不必要になった内膜が剥がれ落ちる度に下腹部に鈍痛が走る。周りの人がわたしから離れていく気がしてならない。レンのいない冷たいシーツに包まり、月経の痛みに耐えながら、弥生は朝方ようやく短い眠りについた。



「頼む、来てくれ……これで最後にするから。君との関係を今夜で終わりにしたい。頼むっ」


 会社でほとんど接触しなくなった小玉が突然電話をしてきたのは、

金曜日の夜————。西麻布での同窓会の最中だった。


 弥生が小玉自身に固執をしているわけではなかったが、とうとう小玉までもが自分から離れていく。嫌な予感がした―———。

 

小玉がこのような電話をしてくるのは初めてで、今までとは明らかに違う切羽詰まった様子が伺えた。この一連の奇妙さに何か関係あるような気がしてわたしは同窓会を切り上げ、紫乃と別れ、小玉の元へと向かった。


降り続く雨は次第に激しさを増していた。

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