第15話 土屋紫乃5

*****


「芳賀先生、タクシー呼びましょうか?」

「いやいや結構。近くに妻が車で迎えに来るのでね」

「まぁ、相変わらず仲がよろしいんですね」


 一次会が終わり、タクシーが店の前に並んだ。本降りの雨は一向に止む気配がない。帰宅するグループと二次会へと流れるグループで女たちは少しずつ店の前から消えていき、芳賀は店から少し離れた場所で妻が迎えに来るからと言うと、何度も女たちに挨拶をし、名残惜しそうに見送られその場を離れていった。

 金銭的にタクシーで帰れるはずがない紫乃は、駅へ向かおうと傘を広げたが、その足は気づけば芳賀の背後を尾けていた。


 ジェンダーの感覚をそう簡単に人間は変えられない。自分が誰よりも分かっている。頭を下げた芳賀の誠意を弥生はどこか自分を重ねて同情したのだろう。人は変われる―———と。弥生は昔から優しい子だから。でもあたしには出来ない。あたしにはあの男を信用することなんて出来ない。あたしが弥生に対する想いは今も昔も変わってないからだ。あたしは弥生のヒーローでありたい。それが想いでも今日くらいは最後まで弥生を守った気分で一日を終えたかった。


 人通りの激しい街は雨で反射される街灯で、より一層輝いていた。仕事の終わった男女が街を行き交い洒落たお店に着飾った人たちが吸い込まれるように入っていく。雨音と車の騒音、車道から弾ける水たまりの音すら騒がしい。


 紺色の男用の傘を指し芳賀はたくさんの店が並ぶ広めの通りに出た。小さめのビジネスホテルの入り口付近で止まった。そこには車一台が路駐できるスペースがあり、雨が防げるように屋根が伸びていた。携帯でどこかへ電話を掛けている。ガラス張りの一階フロアはビュッフェなどができるようなレストランになっているのか、開放的で人の出入りが通常のホテルよりも多く見えた。


ホテルと店の間に身を隠すと、後ろから人の気配を感じた。雨音と街のざわつきで振り向いたときには傘がすでに触れていた。


「土屋紫乃さんですね。匿名の方から貴方が娘さんへの虐待があると通報がありましたので、お話をよろしいですか?」


「は?」


 振り向いたそこには年増の女が一人透明なビニール傘を指し、ビル隙間の通路を塞いでいた。黒いナイロン製のジャンパーに黒いズボン、数年前に安アパートにしつこく来ていた児童相談所の女に似ている気がした。


「知りません。人違いです」


 仕方なく路上へ出て芳賀のいるビジネスホテルへ向かおうとすると前方からまた違う女が二人出てきた。


「では職務質問という形でお話よろしいでしょうか?」


 一人の女が近づいて来る。道端を行き交う何人かがあたし達をチラリと見ては知らぬふりをしてまた傘の中に顔を隠した。

 

「あなたが今、預けている託児所は無認可です。あなたが利用しているレンタルサービスは風営法に違反しています。ましてその託児所から子供を使って報酬をもらっているそうじゃないですか?これは立派な犯罪ですよ」


 児童相談所の連中ではなかった。恐らく私服を着ている女警官だろう、前方の女がポケットからおもちゃのような警察バッチを見せてきた。前方の一人が後ろに周り込み、有無言わさず背後から手首を掴まれた。


「痛っ、急になんなんですか!あたしはいま同窓会に……」


 掴まれた手は触れた程度だったが大袈裟に声を出し、背後の警察官に威嚇した。背後の私服警官を睨みつけるように振り返った少し先に、


―———黒い傘を指した女が一人、立っていた。


 本降りになった雨に、街を行き交う人々は濡れまいと前のめりで傘を指し、その足はどこか急いでいる。黒い傘の女は微動だにせず、正面を見つめ、まるでそこの周りだけがスローモーションのように見えるくらい不自然に際立っていた。


 地味な前開きのカーディガンに膝まで隠れたロングスカート。一つに束ねただけの黒髪。第一ボタンまで締めた白いワイシャツには、胸元から伸びた茶色く染みたコーヒーの痕。

 昼間、美羽を養子によこせと言っていた桐ケ谷婦人だった。


「あの女……」


 女は生気を取り戻したようににっこりと笑っていた。


(さようなら)


 ゆっくりと女の笑った口許がそう動いた。それを見た時にこの警察を呼んだのが桐ケ谷だという事を直感的に感じ取った。


「パパ!」


 囲まれた私服警官の隙間から小さな子どもの声が街に響いた。女とは反対側に芳賀のもとから聞こえる声にあたしは反射的に前方を確認した。


 思わず目を疑った――――。

 

 芳賀を迎えにきたであろうフォルクスワーゲンのシルバーセダンの後部座席から、なんと、美羽が飛び出してきたのだ。


「ただいま、美羽。いい子にしてたか?」


 ヒラヒラのパジャマのような服はまだ梅雨時期だと言うのにすでにノースリーブとショートパンツになっており、芳賀のその老いた手が美羽の白く細い二の腕を揉むように掴んだときに背筋が凍った。


「今日もパパと一緒にお風呂に入ろうな」


 照れたような苦笑いの美羽の表情に鳥肌が立った。芳賀は子供に恵まれなかった定年を迎えた老夫婦。ほうのパパだったのだ


「定年後の楽しみもできた……」


 先程言っていた芳賀の声が頭の中で駆け巡った。

 あの汚らしい手で、弥生の次は美羽に触れている。あたしの娘に。真っ先に向かおうとすると似たようにあたしも腕を掴まれた。


「ちょっと、ここではあれですから場所を変えてお話しましょう」


 化粧っ気もない年増の私服警官は思いのほか力が強い。


「離せ、このっ!今からその娘を迎えに行くんだ!」


「しらばっくれるな!あなたのやっていることは分かっていますよ!その会社にはすでに警察が介入しています!お金のために子供を貸すなんて、あなた親として!」


 あたしは開いていた傘を思いっきり前方の女警官に投げつけた。


「じゃぁ、あんたらが保育園探してこいよ!養育費出せよ!上っ面だけで物事言いやがって、あいつにはあたししかいないんだよ!」


 自信なんてない、親としての自覚なんてどんなものだか知らない。それでもあの汚い手から早く美羽を取り返さないと!


「土屋さんっ!娘さんはこちら側でちゃんと保護します!生活が安定したら改めて迎えに行くことだって出来るんですよ」


 背後からガッチリあたしをガードしているもうひとりの年増の女が諭すように話しかけた。その女を睨むと遠くで桐ケ谷が微笑んでいる。


 その時、桐ケ谷と目が合ったほんの一瞬だけ、もしかしてこのままあたしが居ないほうが美羽のためになるのではと頭によぎった。桐ケ谷や芳賀のような裕福な家庭に育ったら来月の家賃を気にすることなく生活できるようになって可愛い服も買ってもらえて、美味しいご飯をたらふく食べられる。自分が母親じゃないほうが美羽は幸せなんじゃないだろうか。


 あたしは仕事をしていただけなのに、生活を楽にしょうとしただけなのに、生活が安定してようやくまともな暮らしができると思っていたのに、どうしてこいつらはそれを邪魔するんだろう。あたしはまたのだろうか、人として、女として、親として……。


 娘である美羽を手放すことも親の務めなのかもしれない。説得するように話しかける女警察官の顔を見つめる。だって、今までだって、あたしはばっかりだから。


「ママ――――!!」


 頭を貫く子供の甲高い声は女の脳内細胞に直接テレパシーを送る何かがあるに違いない。アスファルトに弾く雨音を通り越して確実に女たちに響いた。


 女警官にも、桐ケ谷にも、たまたま歩いている通行人の女ですら邪魔する傘を指しながら美羽の方へ振り返った。


 もちろん、あたしにも。


「美羽っ!!」


 大人に囲まれたあたしを見つけて、今にも泣き出しそうな勢いで近寄ってくる。


「こ、こら、そっちに行くと濡れちゃうよ」


 すると芳賀が素知らぬ顔で美羽をガードして腕を引っ張った。


「何すんだよ!あたしの娘に触るなぁ!」


 あたしは一瞬で頭に血が昇り、昔のように芳賀に殴りかかろうとした。そこをたちまち女警官に取り押さえられ、あまりの暴れように影から男の警官まで出てきた。


「美羽!美羽、こっちにおいでぇ!!」


 警官の隙間を縫って視界に美羽を探す。


「ママァ、やだ、ママの所に行く!」


「何言ってるんだ、ママはここにいるじゃないか」


 バタバタと芳賀の腕の中で暴れる美羽が見えた。


 警察は迎えにきた子供を、なんの根拠もなく親から引き剥がす訳がない。美羽が騒ぐ前に車に押し込まれたら終わりだ。

 車の前でもたつき、運転席にいた芳賀の妻までもが焦った様子で車から降り、美羽をなだめた。

 それでも暴れる美羽に芳賀が苛立った顔をしてバチンと美羽の頭を叩いた。


 「あ、……」


 思った以上の男の力に驚いたのか、美羽は何が起きたかわからない様子で一瞬固まったかと思うと、今までにないくらい大泣きをした。


「……てめっ、何すんだ!お巡りさん、あいつ!あたしの娘を殴った、殴ったんだよ!あいつを捕まえろよ!」


 「ママァ、マンマァ」と美羽はあたしに短い腕を伸ばしながら必死で泣いた。あまりの悲鳴に顔を見合わせ女警官が芳賀の元へと近寄る。


動揺した芳賀の腕から美羽が逃げ出すと、三等身の小さな身体が手を伸ばし、泣き、叫び、全身を使ってあたしの元へと駆け寄ってきた。


 警察官たちが美羽の行末を見守るように道を空ける。


 その道の先には、当たり前のように―———あたしがいた。


「……ママァ……」


「泣くなぁっ!」


 寄ってきた美羽の頬をあたしは思いっきり引っ叩いた。


 美羽は叩かれたショックで訳も分からずポカンと目と口を開け、また泣きっ面に戻り俯いた。


「泣くな!下を向くな!あたしを見ろ!」


 あたしが怒鳴ると、ビクリと身体を震わせ美羽はいつものように小さな口を強く結んで溢れそうな涙をこぼすまいと必死にあたしを見た。


「よく聞いて、あんたはあたしの娘だ!あたしが美羽のママだ!これからもママと二人で生きて行くんだ!お前は何も間違ってない。絶対に下を向くな!女だからって泣いてちゃダメなんだよ!」


 濡れたアスファルトに膝を付き、美羽と同じ目線になる。

 掴んだ小さな肩が震えている。


 気づけばあたしは顔がびしょ濡れになるほど泣いていた。美羽の小さな顔は雨に打たれ、もう泣いているのかさえ分からない。


 あたしはその小さな身体を思いっきり抱きしめた。声を出し泣きながら必死で抱きしめた。


 こんな親でごめんなさい。あたしが親でごめんなさい。と心の中で何度も繰り返した。ひっくひっくと身体を揺らしながら泣くあたしは、まさに娘そっくりだった。


 その美羽がそっとあたしの首に短い腕を回す。


「っママァ……」


 力強く、離さないように。


——————間違ってない。


 あたしは美羽をさらに強く強く抱きしめた。


 あたしは、いつも間違ってばっかりで、女じゃないのに女で生まれて、名前も知らない奴と寝て、普通になろうとして失敗して子供を作った。


 だけど、




 この子を産んだ事は私の人生で唯一正しい選択だったんだ。




「あたしは……間違ってなんかいなかった」





 親と子。

 女二人で抱き合い、私達は泣きじゃくった。


 どちらが子供かわからないくらいそっくりな泣き方だった。

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