第7話 松永弥生2
「お母さん、ただいま!」
いつものようにレンを待っていた弥生のもとに訪ねてきたのは黒いランドセルを背負った小さな男の子だった。
「?こ……こんばんは」
見知らぬ子供に開口一番お母さんと呼ばれ、何のイタズラなのかと弥生は思わず玄関から身を乗り出し、あたりを見渡したがこの子の他に人がいるような気配はない。
「あの……僕、レンタルチルドレンの劇団から来ました」
少し不安になったように男の子は声のトーンを抑えて弥生に伝える。
「……っ!レンくんだ」
レンタルチルドレンを申し込んだ覚えは一切なかったが、そういえば前回の添い寝でレンが子供のレンタルサイトについて話していた。確か一見さんお断りの完全紹介制度だからと話していたのをぼんやりと覚えている。眠りに付く前の記憶を呼び起こしていると、男の子は少し不安そうに俯いてしまった。
「ああ、ごめんなさい。とりあえず、中に入って」
「はい、お邪魔します」
キャラ物ではないが今どきらしいデザインがされた運動靴を脱ぐと、その場できちんと靴を揃え挨拶をして家に入っていく。リビングへ通すとあたりをキョロキョロと興味深そうに見回している。
「そこのソファにどうぞ」
「はい」
ソファを指すとその横にランドセルを置いて、ちょんと座る。両手をグーにして膝の上に乗せ、姿勢良くわたしを待っている。
その姿を覗き込んでは演技指導が行き届いているのか弥生は関心してしまった。
「ご飯は?食べたのかな?」
「はい」
夜の思いがけない小さなお客様に弥生は砂糖を入れたホットミルクと出張土産でもらったクッキー缶を開け、皿に出してやった。
「寒かったでしょ?これ、好きなのをどうぞ」
「うわぁ!いただきます!」
夜のお菓子に興奮気味の男の子に弥生はくすっと笑った。迷わず大きなチョコチップクッキーに手を伸ばし、ホットミルクをふうふうと何度も息を吹きかけ火傷しないようにちょっとずつ飲んでいた。
まだ筋肉もついていない細い手足に頭が少し大きくて子供らしい形をしている。子供がいないわたしでも分かるブランドのロゴマークが入った上着を着て、下は長めの半ズボンを履いている。子供は寒くないのだろうか。春先なのに男の子らしく程よく日焼けをしていて、片方の膝には転んだのか治りかけの
「えっと、お名前は?」
「僕の名前はお母さんが決めます」
「へ?」
少年はそう言うと、ランドセルからA4のプリントアウトした紙を渡した。
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■チルドレンの取り扱い説明書(初回版)
・子供の名前はお子さんと話し合いご家族でお決め下さい。
・子供のプライバシーに関わることについてはお答えできません。
・子供への食事やおやつ以外の贈与についてはメールにてご相談ください。
・相談なくご家族での外出はご遠慮ください。
・規約についてはサイトページを必ずご確認下さい。
・規約に違反する行為があれば退会処分となり、系列店含め今後一切の利用ができなくなります。
■はじめに
まずはお子さんと話して積極的にコミュニケーションをとって下さい。家でのルールや、家族の自己紹介をしてあげるのもいいでしょう。不安な点や判断に迷うことがありましたら24時間メールにてご相談を受け付けております。
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店名も電話番号もなく説明文だけが書いてある簡素な内容だった。
「なるほど、名前かぁ」
少年はマグカップを置きワクワクしながらわたしを見つめていた。
「お母さんの名前は何ていうんですか?」
「わたし?わたしは松永弥生って言います」
「やよい?」
「そう、三月生まれだから弥生なの。そうだ!君のお誕生日はいつ?」
「六月六日です」
「六月か、えっと……」
弥生は卓上カレンダーを捲ると六月の
「
「ミヅキ?」
「そう、六月生まれだからミヅキ。松永ミヅキ。」
「はい!名前をつけてくれてありがとう、お母さん」
にっこりと微笑むと弥生はその「お母さん」にどうしても違和感を抱いてしまった。
「ミヅキ、わたしには無理してお母さんって呼ばなくていいよ。ミヅキには本当のお母さんがいるんだから」
「えっ?」
ミヅキが少し不安そうに弥生を見上げた。
「あ、違くて……呼ばれるのが嫌なわけじゃないの。ただまだ慣れなくって、こそばゆいというか、恥ずかしい感じがして。出来ればわたしのことも名前で呼んでくれると嬉しいな」
「やよい……さん?」
初めてのケースなのかミヅキは恥ずかしそうに遠慮がちにわたしの名前を呼んだ。息子として演技をしてくれているのは嬉しいけど、すべてが演技だとは思いたくない。
「うん、そっちのほうがしっくりくる」
名前をつける行為は不思議な力を持って急激にわたし達の距離を縮めた。
「ミヅキは小学何年生?」
「五年生になった」
「ミヅキの好きな食べものは?」
「カレーライスとラーメン」
「ミヅキの好きな色は?」
「青」
「ミヅキの得意な授業は?」
「体育」
「ミヅキは何をしている時が楽しい?」
「家族と一緒にいる時が一番楽しいよ」
ホットミルクを飲み干し、ミヅキはわたしの質問に一生懸命答えてくれる。
「弥生さんの好きな食べものは?」
「甘いものは全般好きかな」
「弥生さんの好きな色は?」
「薄いピンク色が好き」
「これくらい?」
「ふふ、うん。そのくらいのピンク色」
「弥生さんのお家は他の人はいないの?」
「夫がいるよ。でも今日はお仕事で帰ってこないんだ」
「寂しい?」
「ううん。ミヅキが来てくれたから寂しくない」
ミヅキの口許が照れて緩んだ。可愛い。つられてこっちも笑顔になってしまう。名前を呼ぶ度にミヅキの敬語と緊張が少しずつ取れていくのがわかった。それがじわじわと嬉しかった。
すっかりと話し込んでいるうちに十時を回っていた。子供の平均就寝時間は知らないが、寝かせてやらないといけない。初回は延長が出来ないため、明日の朝七時には返却予定となっている。
「ミヅキ、お風呂沸いたから一緒に入っちゃおう!パジャマは持ってきた?」
洗面所から弥生がタオルを準備しながらリビングに声をかける。が返答がない。洗面所から顔を覗かせるとミヅキが耳まで真っ赤にして困っていた。
「あの、一人で、入れるから大丈夫……です」
もじもじとして今にも消えそうな声で言った。
「……あ!そうだよね!ごめんね」
思わず弥生も照れてしまい、自分のタオルだけを棚にしまった。
ランドセルからシャツとパジャマを引っ張り出すと緊張した様子で風呂場へと向かう。「タオルはこれね、シャワーはこれ」と風呂場の使い方を簡単に説明すると大げさに大きく頷いて早くその場から一人になりたいみたいな雰囲気だった。ミヅキを残してきっちり風呂場の扉を閉めると「ふぅ」と弥生は小さなため息を付いた。
ミヅキは「子供」だけど「男の子」だったんだ。
あれはきっと演技ではないな。そう思うと自然と口許が緩んでなんでか愛おしく感じた。
白い天井、いつもの寝室のわたしの隣に今日は小さな男の子が寝息を立てている。
最近、康介の出張が増えた。月の半数程は出張といって、度々家を空ける。帰宅時は薄っすら無精髭が伸びていて目の下には隈をつくって憔悴し切っている様子を見ると全てが浮気なわけではない。調査結果にもそう記してある。
レンくんが紹介してくれたレンタルチルドレンのURLが今朝ほどメールに届いていた。初回はお試し期間とのことの半額でレンタル出来るシステムらしい。子供との相性や家族の反応を確認した上に定期契約を結ぶのが流れのようだ。
康介はミヅキのレンタルを受け入れてくれるのだろうか。ミヅキはわたしといて楽しいのだろうか?ミヅキと一緒にいてわたしに子供が出来るのだろうか。
不妊症の呼ばれるほとんどは原因不明。夫、妻の身体に何の問題もなくたまたま子供が出来ないというケースが全体の七割を締めている。身体的な問題が無いとすれば残りはストレスが原因となるらしいが、抜本的な解決策は今のところない。
ミヅキのレンタルは今日限りにしよう。そう思い弥生は目を閉じた。
*****
「子供、ですか?」
近況の調査報告をもらいに弥生は杉山の事務所を訪ねていた。出された冷えた缶コーヒーに弥生は口を付けたことはない。
「最近、頻繁に通っている仙台のほうですが、相手方の女性に子供がいることがわかりました」
杉山が手にした写真には女性と一緒に一歳にも満たないだろう小さな子供が抱かれていた。
「ご主人が認知した形跡はありません。シングルマザーの女性とたまたま関係をもったのかもしれない。しかし彼女は未婚女性です。あくまで可能性のお話ですが、」
杉山が言いづらそうに一呼吸置いて続けた。
「旦那さんの子供かもしれない可能性もあります」
昼ドラのような衝撃に弥生は逆に冷静になっていくのがわかった。万が一血縁関係がある場合の裁判を開く方法や財産分与においてリスクなど、慣れた決まり文句のように杉山が説明していくが、弥生の耳には半分程度も入らなかった。あくまで可能性の話だと杉山にしては珍しく何度も重複したのをうっすら覚えている。
半休をもらった夕方、春風の心地いい季節になった。明日は病院の検査がある。スマートフォンを片手にレンへの急遽レンタル要請を出したが、案の定予約がいっぱいで次回の定期予約までお預けとなってしまった。
買い物をしたエコバックをぶら下げて今日も一人分の夕飯をつくろうと家路に向かう。夫は今日も出張だ。オレンジ色の夕日が背中をポカポカと温める。足取りが重い。
「弥生さん!」
急に呼ばれて振り返ると、そこにはミヅキの姿があった。初めてレンタルした日と全く同じ格好にランドセルを背負っていた。
「ミヅキ?どうしたの?こんなところで」
レンタルしたのはレンくんが紹介した初回のみだった。それから一ヶ月近くは経っているだろうか、ミヅキの髪が少しだけ伸びている気がした。
「ごめんなさい。レンタルされてないのに来ちゃって……」
「ううん。嬉しいよ、時間大丈夫だったら少し上がってく?」
「大丈夫!実はこれを渡したかったんだ!」
ミヅキの手の中には薄っすらピンク色をした布の塊のようなものが握られていた。広げると髪を束ねるシュシュだった。
「可愛いね。どうしたのこれ?」
「弥生さんにあげる!誕生日プレゼント!」
「えっ?」
「ピンクが好きって言ってたでしょ?クラスの子に聞いたら女の子はこういう髪につけるのが流行ってるんだって」
ニッコリと笑うミヅキの頬に笑窪が出来ていた。シュシュはシンプルなベビーピンクをしていてよく見ると細かくラメが入っていた。わざわざその女の子と買いに行ったのだろうか、もしかしてあの時のように耳まで赤くしながら、わたしの言ったことを思い出して。
「弥生さん?」
これが演技指導の延長でも、誰かに言われてやったことでもどうでもいい。
「なんでもない……あ、ありがと……」
ポロポロと溢れる涙をどうしても止められず弥生はしゃがみ込み口を抑えた。先程見た子供の写真が頭にちらつく。もしわたしに子供が出来ていたら夫はもっとわたしを愛してくれたかもしれない。家族を大事にしてくれたのかもしれない。夕日に影が出来たように暗くなったと思ったら、ミヅキが遠慮がちにわたしを抱きしめてくれた。
「弥生さん、泣かないで。泣かないで」
首に回る細い腕が今にもほどけそうにわたしを包み込む。そうだ、ミヅキはもう「男の子」だった。
わたしはそっとミヅキにしがみついた。
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