第6話 土屋紫乃

「土屋さん、お子さんいたんだ!」

「可愛い!お名前は?」

「みうです!ごさいです」

「美羽ちゃんか〜、お利口さんだね」


 高校時代の先生が退職を迎えるということであたしの目の前には懐かしい顔ぶれが溢れていた。その先生の退職祝いと三十歳という節目に同窓会をしようとすっかりママになった元クラスメイト達が「同窓会の打ち合わせ」という名目でランチ会が開いていた。お嬢様女学校卒というだけあってほとんどが専業主婦で手にはブランドバックを持っていた。高いヒールを履き厚く塗った化粧と香水の混ざりあった匂いが充満していた。皆スチュワーデスようにスタイルも姿勢もよく、品がありデブは一人も居なかった。

 特に目立つ幹事の女は美容に関係した店を数店舗経営しているらしくヒアルロン酸を注入しすぎたその顔は笑う度に不自然に肌が張り、血色が良すぎて気味が悪かった。

 あたしはというとGパンとユニクロの白いロングTシャツにジャケットを羽織らせたシンプルというよりここでは場違いなほどみすぼらしい格好だった。

 昔はビビって話しかけもしなかった同級生があたしに子供がいると知るだけで気さくに話しかけてくる。娘の美羽は調子にのって他の子とキッズルームへ遊びに行ってしまった。

 こんなところ本来であれば呼ばれても来ない。にこやかに笑う女どもの腹の中では昔のように未だにカースト制度が繰り広げられていることだろう。自分がいかに充実している女性か、権力があるかを女同士で見比べて影で笑い合っているのだ。

 ここに来るのはやっぱりだった、ギドギドにテカったオリーブを口に運ぼうとしたとき個室のドアが開いた。


 「ごめんなさい!!遅れちゃって」


 先の丸いピンクのミュールに膝丈のスカート、栗色の髪がさらりと踊った。あたしは思わず唾を飲んだ。数年ぶりにあっても変わらない彼女に心底ほっとした。


「紫乃!久しぶりだね」

「うん」

 眩しいくらいの笑顔で隣に座り、嬉しくて思わず頬が緩む。

「珍しいじゃん、紫乃がこんな同窓会の打ち合わせに参加なんて」

「同窓会っていうより芳賀の送別会でしょ?当日も出席するよ」

「もういつの話し?芳賀先生だっていいおじいちゃんだよ」

「男はいつまで経っても馬鹿な生き物なのよ」

「紫乃ってば心配しすぎ、ふふふ。でも……ありがとう」

「……うん」



松永弥生——。彼女の名字が変わったのを知ったとき、あたしは少し落ち込んだ。



*****


 あたしの人生はだらけだった。


 生徒も先生も「みなさん、ごきげんよう」と日常挨拶するような、そんな名門のキリスト教お嬢様学校であたしは弥生と出会った。笑顔の裏に金持ちの娘共が親の権力を計りに影でこっそり校内カースト制度を作り上げるのは、どの学校でも同じだ。

その中でもあたしは間違いなく底辺の人間だった。目つきも、態度も悪い女性らしくない振る舞いをする小娘はこんなお嬢様学校ではかなり目立つ存在になってしまう。

一度煙草が見つかればこの世の殺人者を見るように教師の態度も激変する。


 両親に連絡が入れば家ではゼネコンで成り上がった職人気質の父親が母親とあたしに暴力を振るった。それでも馬鹿だったあたしは変わらなかった。早くここから抜け出して大人になりたい。それしか考えていなかった。

 旧校舎の古びた図書室で度々上級生に呼び出された。

どんな学校でもいじめはある。初めは脅されたがシカトした。次は髪を切られたので念願のショートカットにした。そのあと四人がかりで裸にさせられたので顔を近づけてきたリーダー格の女に思いっきりキスをして胸を揉んでやった。

「ちょっ!!なにしてんのよ!」

 他の仲間に剥ぎ倒され体制を崩したあたしは本棚に思いっきり頭をぶつけ、目から星が舞った。

 歯があたって口から血を滲ませたその女が震えながら仲間を連れて逃げ出していく。

 その声も消えると、図書室がまた静かになった。そのまま天井を見上げる。

 学校は退屈だった。死にたいとも思わなかったけど、あいつらが間違ってあたしを窓から突き落とすのならそれも仕方ないとも思っていた。


「ぷっ、くはは」


全裸で大の字に倒れ、足元は靴下と上履きという格好が滑稽であたし思わず笑った。

なんでこうなった?いつ間違えた?あたしの人生はいつもだらけだ。

「大丈夫?」

 そのとき声を掛けてきたのが弥生だった。


 翌日からあたしはレズビアンと噂が流され近づく人は居なくなった。教師さえ離れていった。キリスト教を信仰するこの学校で「同性愛者」はご法度。周囲の反応は明らかだったからだ。でも弥生だけは違った。彼女は一言で言うと恐ろしく天然の人たらしのような女性だった。特定の誰かといるわけではなかったが、孤立しているようにも見えなかった。マイペースでふらふらと一人で行動し、分け隔てなく誰とでも仲が良かった。教師からの評判もよく様々な人が寄ってきては彼女を慕っていた。誰にも敵対心を持ち合わせておらず、人の文句も言わない。すぐに反発するあたしとは正反対な性格ですべてを受け入れるまるで女神のような女性だった。

 親密になるには時間はかからなかった。誰も居ない旧校舎の図書室であたし達は過ごした。学校にいる地獄のような生活が弥生の存在だけで毎日が浮足立った。



 「これから話す事、二人だけの秘密にしてくれる?」


 ある日弥生から思いがけない告白があった。ドキッと胸が高鳴った。あたし達だけの秘密の共有。初めて本当の友達と呼べる証ができたような気がした。弥生は自分には兄がいて自閉症という障害があることを教えてくれた。兄の存在を両親は隠しているということ。学校にも行かず家に閉じ込めていること。家族なのに、兄については話をしてはいけないこと。でも誰かに話したかった、誰かに兄を認めてほしかったと弥生は涙を流した。

 弥生の透明な肌に涙が伝う。桜色に染まった鼻を啜り、涙を拭う目尻を何度も拭っていた。

「目を擦っちゃ駄目だよ」

 白魚のような細くて白い腕を引くと弥生があたしにそっと抱きついた。あたしより背が低い弥生の絹のような髪の毛の隙間から石鹸の優しい香りがした。

 初めての友達、初めての秘密、初めての抱擁にあたしは戸惑った。指の先端まで心臓があるくらいドキドキした。唾を飲み込むと喉が鳴った。汗ばんで震える手をなんとか抑えながら、そっと、本当にそおっと弥生を抱きしめた。

「あ……あたしの秘密も聞いてくれる」

 自分の鼓動で全身が震えているせいで思わず声が裏返る。顔を埋めた弥生の頭がこくんと頷く。

「レズだとか、噂になっているけど、あれ………………本当のことなの」

 鼻を啜りながら弥生がゆっくりと顔を上げた。伏せたまつげが涙で束になって湿っている。

「ごめん、のは分かっているんだけど……でも駄目なの。ずっと……あたしの恋愛対象は、女の人、なの。……ごめん」

 反発心の強いあたしでも宗教は洗脳だった。信仰を前に自分はいつも間違いを犯し続けていると苦しんでいた。これで弥生も離れていく。今度は自分が泣きそうになって、唾を飲み込んだ。少しの沈黙のあとまた弥生がこくんと頷き、

「紫乃は、間違ってなんかないよ」

 小さくそう言って優しく笑ってくれた。


 弥生の潤んだ大きな瞳、さらさらと流れる絹のような髪。化粧っ気もない透明な素肌に吸い込まれるようにあたしは震える唇でキスをした。


 それだけで、あのキスひとつで、あたしはまだここにいれる。


 胸を焦がすような恋というなら間違いなく弥生だった。あたしの世界は一瞬にして弥生一色に染まった。それから学校でも弥生を目で追いかけるようになった。そして時々、薄暗い図書室で唇を重ねた。恥ずかしそうに真っ赤な顔をして溢れる声を押し殺しながら弥生はあたしの舌を受け入れた。

 「ごめんね、弥生……でも……好き」

 「謝らないで。私も紫乃のこと好きよ」

 あたしと弥生の「好き」は違う。でも彼女は一度も拒まなかった。それが嬉しかったしもどかしかったし自分が女であることが辛くて仕方なかった。


しばらくして弥生が特定の男性教員に呼び出されることを知ったあたしは違和感を覚え弥生の後を付けた。その男は芳賀という数学教師だった。教師であるその男が弥生の身体を汚い手付きで触っているのを見たときにあたしはそいつを殴って停学処分になった。


本来であれば退学処分となるところだったが、芳賀が違う意味であたしを譲歩し停学処分で事を済ませた。そのかわり芳賀がクビになることも免れたのだ。名門である私立の女学校は公立と違い、教員の移動はほぼ無い。

 その芳賀が定年を迎え当日の同窓会に来るということを知り、あたしは仕方なくこの場に参加している。



「ママ〜」

 遊びに飽きた美羽が駆け寄ってくる。

「え、もしかして美羽ちゃん?すっごい大きくなったね」

 弥生の手が優しく美羽に伸びる。人見知りの美羽は戸惑った様子で固まってしまった。


だからそれじゃ駄目なんだって。あたしは美羽を見て小さなため息を漏らした。



この間も指導が入ってしまった。これでは美羽をに出せない。

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