第3話 杉山栄志

 雑居ビルの二階に杉山探偵事務所はある。


 探偵の仕事は何かの映画のようにバーカウンターで依頼を受け、命を狙われる美女を救うことはまずない。

 その仕事のほとんどが離婚調停の準備による浮気調査、もしくは理由のつけた身辺調査という名目のストーカーへの情報提供といったところだ。故に客は慰謝料欲しさに離婚をしたがる女が七割、腑抜けたストーカー野郎が二割ってところだ。その他ペットや子供、ボケた老人の探索依頼が入る。

 調査方法はだいたいが同じで早朝アパートのゴミ溜めをあさり、張り込みと追跡を繰り返し対象者の生活状況の報告。浮気調査なら現場を写真で収める。相手の素性を調べ特定。これはテクニックだが、性行為した際のコンドームの銘柄まで調べてやると大抵の客が納得する。


 手付金は五万から。請求額は調査内容によっては異なるが、五十万から百万の間。プラス成功報酬は全体の二十パーセント。決して安くはない。


「はい、杉山探偵事務所です」


 それでも杉山の携帯は鳴る。


「おい!桔平きっぺい、起きろ。仕事だ」


 煙草のヤニで黄ばんだ事務所のブラインドから朝日が漏れる。デスクの横に椅子を並べて寝ていた鬼束桔平おにづかきっぺいが眠い目をこすり痩せた身体を這いずるように起き上がった。


「いまから仙台に行け、カメラ忘れんな」


「また松永のですか?あれ調査報告終わってるじゃないっすか」


「離婚する気はねぇから調査続行だとよ。あの美人奥様、何を考えてらっしゃるのやら」


 杉山栄志はデスクに腰を掛けると煙草に火をつけた。


「何も考えていんですよ。そういう女は。とりあえずなんとなく流れで生きているんですって」


 杉山は深く煙草を吸い込み深呼吸するように大きく煙を吐いた。


「明日も見ねえで本当に何も考えてないクズな人間は山ほどいるがな。何も感じない人間はこの世にはいねぇんだよ」


 「へいへい」と鬼束は受け流し、たいして中身の入ってない引き出しを開け、黒いリュックにデジカメと名義なしのスマホを詰め込んだ。


「それとてめえは、その金髪そろそろ黒に染め直せ!目立ってしょうがねえだろ!」


 鬼束はまた「へいへい」と頭をボリボリと掻きながら杉山に近寄り手のひらを差し出した。女のような整った顔立ちに視界が隠れるくらいの長い前髪から鋭い眼光がキラリと光っていた。若さゆえの危なっかしい目つきだ。


「けっ、ほら早く行け」


 杉山が内ポケットからまとまった金を渡すと、鬼束はひらひらと札を振り事務所を後にした。

 パソコンを取り出し、苦手なデスクワークを片付ける。このご時世に杉山の事務所が腕利きと評判になるには理由が二つある。

 ひとつは自身が元警官であること。そのパイプを使って、収入の低い能無し弁護士と現役の警察を使い法スレスレの捜査が出来ることと杉山探偵事務所の柱となる顧客の裏に「片岡人材派遣」からの下請けがあることだ。

 最近ではここらの仕事が多くなってきて困っていたところにそこの事情を知る丁度いいアルバイトが見つかった、それが鬼束桔平だった。

 人材派遣という名目の今どきヤクザだが、動く金は足がつかない上にデカくていい。



しばらくするとコン、コココンと事務所の扉に癖のあるノックがされた。


「グンモーニン杉山ちゃん。お仕事よ」


 ゆっくりとドアが開くと口許を緩ませた男が入ってきた。黒のネクタイ、白シャツに喪服のような真っ黒なスーツ、丸まった猫背に痩せた体付き、後ろで縛っている長髪。青白い顔には糸のように細い目と赤く染まった薄い唇が付いていてどちらもいつも不気味にニヤついていた。

爽やかとは程遠い出で立ちのその男はどう見ても派遣営業マンというより霊柩車の運転がお似合いの男だった。


「来る時は連絡よこせって何度言ったらわかるんだ」


 窓の外を見ると、黒のワゴン車が止まっていた。


「黒塗りのハイエースでなんか来ないわよ。今どきヤクザですって名乗ったってメリットないでしょ」


 細い目と薄い唇がだらしなくニヤけるこの男の名は地引四郎じびきしろう。別名「死神の死郎しろう」とも呼ばれている片岡組の中堅ヤクザで気色の悪いオカマ野郎だ。

腕は確かで表向きは人材派遣となっているが、本業は簡単にいうとキャバクラ・売春によるシマからの元締め料が収入源だ。そのために人材斡旋を行う場合もあるから人材派遣というのはあながち嘘ではない。そしてその人材派遣とは別のルートで桔平を紹介してもらった。



*****


 三か月ほど前、煙草をふかしながら仕事を終えた杉山が地引からの報酬を受け取っていた。

深夜——。繁華街のすぐ裏手で地引の下っ端が若い男を滅多殴りにしている最中だった。ネオンの騒音が漏れる中、男の骨の砕けるような乾いた音や低い呻き声が響いていた。その姿に口許を緩ませながらニヤニヤと地引が眺めていた。

座り込んでいる地引の股ぐらは興奮のあまり勃起していた。


「なんだ、そのゴミどうした?」


 そこには顔面が腫れ上がり変形し、口から血を流した鬼束が倒れていた。

 見る限り鼻と右腕とイってる様子だった、呼吸を乱し、時折血を吐いていた。


「んふふ、ウチのアルバイトちゃんなんだけど、やらかしちゃってね」


「そんでこのザマか」


「まぁ、組入れもしてないバイトだからここらに捨てとくけど」


 ふぅんと数えた札束を内ポケットにしまい、杉山は血まみれになった鬼束に近寄った。


「よお坊主、何しでかしたんだ?」


 倒れる鬼束の横っ腹を蹴飛ばすとゔぅと呻き声を上げ、顔をしかめた。


「こりゃ肋骨あばらもイってんな」


 痛みに歯を食いしばりながらも鬼束は血走った赤い目で杉山を睨みつけた。


「若いねぇ。いい目つきだぁ」


 顔の原型と威勢の良さからすると、二十歳そこらか。


「この子ぉ、依知川いちかわさんに楯突いちゃってさー、シメテやってたとこなの」


 地引がむず痒そうに股間を掻いた。


「依知川ぁ?ははーん、おいお前、ナニされたんだ」


 依知川の名を聞き事情を察した杉山がタバコを咥えたままニヤついた。地引も去ることながら依知川はヤクザ界でも有名なホモ野郎だったからだ。


「うるせぇ、男に掘られるくらいなら死んだ方がマシだ。クソがっ!」


 そう言うと鬼束は杉山に向け真っ赤な唾を吐いた。


「いいねぇ」


 杉山が煙草を吐き捨てると鬼束の出来た血溜まりでジュッと音を立てて消えた。


「地引ちゃんさぁ、こいつ今日でバイトクビ?」


「あん?」


「こいつ、俺にくれよ」


*****


「アンタ、元警官なんすね、ヤクザなんかとツルんでていいのかよ」


 鼻には絆創膏、腕からはギブスをして痛み止めと点滴を投与された鬼束をさっそく次の日から事務所に来させた。てっきり逃げると思っていたが、本人はいたって普通に出勤した。


「地引の野郎、オカマは口が軽いな」


「自分で調べたんだよ」


 ほぅと小さく関心して杉山は煙草に火を付けた。


「お前名前は?」


「鬼束桔平」


「名前の割に綺麗なツラしてんなぁ。依知川が手を出すのも分かるぜ」


 痩せ型で高身長。腫れた顔つきでもわかる品のある女顔に不釣合いに伸び切った金髪。ガラの悪い目つきを除けばどこぞの芸能事務所にいてもおかしくなさそうだった。


「ホモ野郎と仲良くするつもりはねぇよ」


 ガコンッと杉山のデスクと蹴飛ばし、まだ腫れの引かない片瞼からギラギラと血走った赤い目が滲む。

鬼束は生粋のホモ嫌いらしい。


「ボコられた後のその威勢と根性は認めてやるよ。仕事だ、お前何が出来る?」


「ヤクザの仕事なんて運転と見張りと便所掃除しかしてねぇよ」


「十分だ。あとウチはヤクザじゃねぇ。探偵事務所だ」


 杉山は引き出しからスマホとデジカメ、十万ほどの金を渡した。


「なんで俺を雇った?何を考えてる?」


「こう見えて人手が足りないくらい忙しいのよ、真面目なカタギ商売なんでね」


「ヤクザの犬のくせにかよ」


 鬼束が睨みつけると、ふっと杉山は笑い、短くなった煙草を灰皿に押し当てた。



「あと俺もホモ野郎は嫌いだ」


*****



 また杉山の携帯が鳴る。


「ああどうも、今からですか?事務所に?わかりました」


 携帯を切ると杉山が大きくため息をした。


「あら、ご依頼?繁盛しているようね」


 ソファに腰掛けた地引が缶コーヒーを啜りながら勝手にくつろいでいる。


「金は好きだが、どうも働くのは嫌いなもんでね。今から客が来るから消えてくれ。その件については調べておく」


「ハイリターンがお望みなら、当社の仕事一本にしてもいいのよ?」


「何度も言わせるな、ウチはカタギの商売なんだよ」


「あら、残念」と地引は糸目を更に細めてニヤつかせながら事務所を後にした。

 しばらくすると、地引と入れ替わりに入ってきた新規客は見るからに腑抜けた野郎だった。



「じ、自分の部下でして最近、ストーカー被害に遭われているとかで……彼女の近辺を調査してほしいといいますか……」


 まだ二月だと言うのに、額には脂汗をじっとり掻き時おりハンカチで拭いては滲み出ていた低身長の中年男性の肩には白っぽい粉がふいていた。杉山と対照的な体格で見た目は同年代かさらに上にも見えた。


「なるほど、それはお気の毒に。彼女は今とても怖い思いをされているということですね。この件について警察には?」


「な……何度か相談はした……ようなんですがどうにも取り合ってくれないとかで」


 断られ続けた新聞勧誘をしているような中年男に杉山は至って冷静に話を進めた。


「では彼女の行動範囲を観察してストーカー男の素性を明らかにするというご依頼でよろしいでしょうか?」


「そ、そうなんです!出来ればお願いしたい!」


「かしこまりました。ではまず彼女の勤務先が分かる情報はありますか?」


「お、同じ会社なので、私の名刺でよければ」


「ああ、助かります」


 杉山は丁寧に男から名刺を受け取った。


「当社ではこういう場合、調査対象のなるご本人様には普段通りの振る舞っていただくためにも本人に内密で行うことをお薦めしておりますが、いかがなさいますか?」


「彼女には内密で頼みます!!」


 食い気味でそう答える中年男に杉山は確信した。要は惚れた女に自分以外の男がいないかという事を調査してほしいといういわゆるストーカーからのストーカー調査だ。


「わかりました。では顔写真と全体像がわかる写真などはお持ちですか?」


「あ、はい、あります」


 部下の写真を持ち歩く上司が世間一般的にいるとは思えないが、客の要望を汲み取ってこそ商売だ。杉山はいつもどおりに順応することにした。


 男はビジネスバックから数枚の写真を渡すと、杉山の顔つきが変わった。




「……こちらの方のお名前は?」






「はい、松永弥生と言います」





杉山が男から受け取った名刺には【課長補佐・小玉幸彦】と書かれていた。

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