第4話 小玉幸彦

 プライド――。それは時に男を奮い立たせ偉大にし、時に男をグズ同様の小物にしてしまう飾り癖。

 三流大学を卒業し、新卒採用から早二十年。小玉幸彦こだまゆきひこは常に下から三番手の男だった。

 小玉は誰よりも早く出社し、誰よりも残業をしてこの会社に貢献してきたはずだった。しかし気付けば同期は出世し、部長、支店長へと昇進していく。当の本人は八歳年下の大和田おおわだ課長の下で「課長補佐」という備え付け役職が精一杯であった。

 残業を美徳とし、女性にお茶汲みをさせる時代は終わった。無駄を省き短時間でも成果が出るかが着目され、男女問わず個人の能力を重要視するようになった。

 一人っ子特有の誰とも競わずに育った環境と年齢のせいで固くなった頭では臨機応変な対応も出来ず、その上人見知り癖がある小玉は幾度となくチャンスを掴めず、いざとなればいつも誰かのせいして逃げていた。わずかに残った年功序列の古い考えをもった上司が彼に与えたのが課長の「補佐」というお飾り程度の役職だった。


 低身長に冴えない容姿、マザコンでもあった小玉が四十歳を過ぎてなお母親からの手作り弁当を持参していた事が女子社員の目に留まり、小玉は違う意味で社内の有名人だった。本人は気付いておらず愛妻ならぬ、マザコン弁当は昨年まで続いた。

 いつものようにダラダラと残業した小玉は会社フロアを施錠し、重い足取りで家路に着く。

 華の金曜日。時刻は九時を過ぎ、駅へ向かう並びの店からは賑やかな宴の声や威勢のいい店員の声が飛び交う。反対通路には飲み屋へ向かう若い学生グループや、腕を組みながら歩くカップルが余計に街を煩くさせている。

 公務員だった厳格な父が死んで十年。一人っ子である小玉は実家で母親と二人暮らをしている。会社から片道一時間、電車に揺られ駅に降りると、人気ひとけは一気にまばらになり、そこから徒歩で六分。古い住宅地は子供らが独立し、都市開発の進んだ近郊付近へお洒落で小さな家を立て昨今ではすっかり年寄りばかりの集落になってしまった。家路にうるさく吠える雑種犬を除けば、本当に閑静な住宅街だ。

 四十三歳を迎え、不器用ながらに仕事をしてきた小玉はプライドが高く冴えない見た目もあり、過去に見合いによる結婚経験もあるが過度な亭主関白に加え姑との関係がこじれ嫁は半年足らずで家を出て行った。

カチャ――。

ドアノブにあるカギを回す。

ガシャン――。

ドアの上にあるカギを回す。

ガチャン――。

小玉は腰を落とし、ドア下にあるカギを回した。三つの施錠を外すとようやく自宅の中へと入った。

「ただいま」

 玄関一面に転がった靴やサンダルを踏み付け、自分の革靴を脱ぐ。コンビニ弁当をぶら下げ、帰宅した家に待つのは老いぼれた母親だけだった。

和彦かずひこさん、遅かったのね」

 リビングに入ると、チクッと足元に小さな痛みが走る。見ると割れた白い皿の破片だった。

 小玉は小さく溜息をつく。

「母さん、俺はだよ」

 老いた母親はソファにちょこんと座り、小玉の顔を見つめている。画面の割れたテレビから軽快な音楽と共にコマーシャルが流れて始め、綺麗で若い女優が踊り始めている。

 小玉がリビングを見回すとまた溜息を漏らす。


 割れたグラス、テレビのリモコン、ショール、お玉、箒、ビニール傘、ハンガー、人形、爪切り、洗濯されていない山積みの衣類、造花、書物、電話の子機、缶詰、蛍光灯、コインロッカーの鍵、老眼鏡、丸まったティッシュ、縫いぐるみ、蚊取り線香、扇風機、ザル、埃の被ったウクレレ。乾電池。


このリビングはありとあらゆるものが家ごとひっくり返したように散乱している。

なら二階にいますよ」

 認知症の母は妄想と現実、過去と現在の区別もつかず幻聴と幻覚の中で生きる人となっていた。今の母には息子である自分と死んだ夫の区別が付かない。

 小玉は母親の言葉に耳を傾ける事なく弁当を温めようとキッチンへ向かった。テーブルの上には使用していない食器が積み重なりスペースを埋めていた。その中の一つが落ちて、割れてしまったようだ。開けっ放しの冷蔵庫からはいつのだかわからない牛乳が倒れ、白い筋を引いており、汚れた食器が並ぶ流し場には異臭が漂っていた。

「母さん、ご飯食べたの?」

 聞こえていないのか、返事はない。



 弁当を平らげると現実から逃避するように二階の自室へ引きこもった。そしていつものように熱く燃えたぎる弥生との行為を恋しく思い馳せていた。

社内でどんなに疎外されても残る課長補佐という肩書きすら小玉は縋ってその立場を確立し続けたかった。そこにしか彼の立っていられる居場所はなかった。

 スマートフォンを眺めて、弥生のアドレスを開く。電話をかけたいメールを送りたい。出来ないとわかっていても煌々と照らす画面を見つめながら仕方なく簡素なやりとりをしたメールを読み返すだけだった。小玉の中にはいつも弥生がいた。

 美しく、気高い。品のある仕草で優しく俺を包み込む肌。俺にしか見せないいやらしく蕩けた瞳。弥生の吸い付くような太腿に触りたい。

 結婚をしても子供を作らないのは夫婦関係が既に破綻しているからであり、彼女は間違いなく俺を求めている。しかし優しい彼女は旦那を捨てられないのだ。

 何度通話の発信ボタンを押そうとしただろう、何度メールを打っては消去したのだろう、小玉には弥生が欲しくて欲しくたまらなかった。弥生だけが自分の理解者だった。既婚者で一回り年下である彼女に対して男である自分が不倫関係を願望している。そんな情けない話、小玉の小さなプライドが許さなかった。

 小玉がもっと若くして出世し、見た目が良ければその考えは変わっていたのかもしれない。そう思う度に小玉の脳裏には大和田課長の顔が浮かび、眉間に皺を寄せる。

劣等感に苛まれ、スマホを取り出す

 弥生、弥生、弥生、弥生、弥生弥生弥生弥生弥生弥生弥生弥生弥生弥生弥生‼‼‼

脈打つ鼓動が指先を震わせ、その衝動に感けて通話ボタンに手を伸ばしたその時。


ガダーン―———。


何かが大きく倒れる音がして小玉はビクっと身体を震わせた

「いぎゃぁぁぁ、どこだ!どこだぁぁぁ」

 一階から断末魔のような叫び声と壁を叩き作る音が振動と一緒に駆け上がった。

小玉は大きな溜息をし頭を抱え、まるで悪霊が取り憑いたかのように両肩を沈めた。

 下に降りると面影を失った母親が息を荒げ部屋を漁っている。普段は杖がないと歩けない母親が、まるで般若のような顔で家中を駆け回っている。手に触れるものを投げ飛ばし、地団駄を踏んで泣き叫ぶのだ。

「ギィィィ、ああああ、なんで、なんでぇ」

「母さんっ!!」

小玉が声をかけると般若は一層深いシワを食い込ませ、小玉へと駆け寄り力一杯に服を引っ張った、

!あんたが私を裏切ったんだ!あの女を殺してやる!この浮気野郎!!てめぇの脳天かち割ってやるぅぅぅあの女だってぇ……」

 自分の母親は一体どこでこんな汚い言葉を覚えたんだと驚く。揺らされる身体を老婆とはいえ考えられないほどの力で殴りつけてくるので、小玉が母親の手首を抑えた。

「やめろって!」

「いやぁぁ痛い痛い、何するんだぁぁぁぁ……ぎぃいいい……お、おお前がそんなだからは大学に落ちたんだぁ。ろくでなしのお前が父親だからぁぁぁ」

「母さんっ!」

 小玉は咄嗟に母親を突き離した。それでも母親は止まらない。

「ああ、ああんたのでせいだ、ろくでなしの父親のせいであの子は落ちこぼれだぁぁぁぁぁ」

 大学受験のとき担任教師からも止められた一流大学を無理やり受けさせ、当然の如く落ちた。わずかでも期待していた両親の落胆した表情が頭に蘇った。

「お前らがそんなだから俺は落ちぶれたんだ!大学に落ちたのも!俺が出世出来ないのも!全部お前らのせいだ!俺がだ!あんたの息子だ!落ちぶれてるのはあんたらの息子だからだ!」

 カッと顔が熱くなるのが分かった時には母親は床にうずくまっていた。自分の手のひらが、脈と合わせて熱くなっている。

 小玉は髪が振り乱れ息を切らし、母親を見下していた。


 小玉はソファに座り込み頭を抱えた。小玉の介護による疲労は限界だった。殴った後に後悔することもなくなり、母親の形をした目の前の生き物に恨みすら湧いてくる。

 殴った手のひらが後からじんじんと熱くなるのを感じながら小玉は小さく弥生の名を囁いていた。

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