第二章 『雨月物語の世界』(井上泰至)
1. 〝雨月物語〟
古めかしく広い部屋で男ががなりたてる。
「二週間後に控えた当校設立十五周年記念式典は、何としても成功させなければなりません」
「は、はい、そうですね」
木造の机を前に腰掛けた女が背中を丸める。
「そこで、各方面との調整のため、私はこの後教育委員会に顔を出してきます。まあ、数年前まで席を置いていた場所ですし、私が話を通せば円滑に進むことでしょうな」と、男が自身の襟につけたバッジを見やる。「この、教育委員会バッジに誓って」
「あの、それ、
「はい?」
「あ、い、いえ。それより、あの、教頭先生?お出かけ程度のことなら、わざわざ校長室までお越しいただかなくても」
「そうは参りません!部下たるもの、直接上司の目を見て報告、連絡、相談すべきです」
「で、でも、WEBカメラもついたし、これからはパソコンを通したテレビ電話でも、双方の顔を見て話せますし」
「そのような機器など私は信用していません。そもそも雨月校長は、当校の前身である
「またですか?」
「何でしょう?」
「何でもないです!」
「とはいえ、校長のお名前、『
「それはいくら何でも」
「ともかく!当校の更なる発展のためにも、記念式典が成功するよう、この
「た、頼りにしてます」
「そしてそのためにも、雨月校長にはもっと威厳をもっていただきたいですな!私が入室するたびにわざわざお立ちになって迎えようとするなど言語道断!校長たるもの、堂々と構えていればそれでいいのです。そもそも、校長とは」
畳み掛ける教頭の話を遮りノックが聴こえた。一陽が「どうぞ!」と叫ぶと、制服姿の少女が挨拶をして入室した。
「高等部一年三組の
そして教頭の姿を認め、「あ、お邪魔でしたか?」と足を止める。
「大丈夫大丈夫。教頭先生はお忙しいから。教頭先生、引き止めてしまい申し訳ありませんでした。教育委員会との折衝、よろしくお願いいたします」
安宅は眉を顰めたが、咳払いをしてから「行って参ります」と背を向けた。扉の横で一度立ち止まり、小さく会釈する深夜をじろりと見下ろす。それから再度一陽を振り返った。
「そうそう、先ほどお伝えした転校生の処遇についても、宜しくお願いします」
「あ、はい、お任せください」
慌てて答える一陽の言葉が終わる前に背を向け、安宅がもう一度深夜を見下ろす。それから「ふん」と視線を切り、校長室から出て行った。数秒後、一陽が大きくため息をついた。
「はぁー、絵馬さん、ほんとにいいところに来てくれたわー」
「お忙しかったんじゃないんですか?」
深夜が机の前に進みながら訊く。
「忙しいわけないでしょ。内線で済むことまでわざわざ校長室に来て、挙げ句の果てに毎回説教。こっちの身にもなってよ。生きた心地もしないわ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないわよ。それに、何かにつけては、父が雨月学園の経営から離れたことを嫌味ったらしくネチネチと。ほんとイヤだ」
「はぁ」
「それに、この間なんか
「アハハ、それはさすがに」
「私は一応校長なんだけど!お飾りといえども!マスターキーは持ってるから、教頭室には入れるけど、それは教頭先生も同じだし。ばれたら何言われるかわかんないし!」
「そんな大人の事情、生徒に言わないで下さい」
「でも、とうとう秘密兵器が来たもんね!奴が大好きな教育委員会様の決済も下りて」
「や、奴って。それより校長先生、御用って?」
「このWEBカメラなら、アレもコレも、クックックッ。って、はっ?思わずダークサイドに陥るところだったわ。え、えっと、中等部に転入してくる子がいるから、いろいろとお世話してあげてほしいの。絵馬さんが不在だったから、今、野宮さんに校内を案内してもらってるけど、そろそろ戻って来る頃かな」
「しっつれいしまーす」
ノックの音に返事をする前に扉が開く。
「案内してきましたー。いやだけど」
「
「あ、深夜。もう戻ってたんだ」
「野宮さん、校内の案内ありがとう」
「いーえー。ま、お礼言うだけならタダだもんね」
「はい?」
「なんでもないでーす。それより、ほら、
萌が振り返ると、扉の隙間から現れた少女が深夜に向かって駆けて来た。
「深夜先輩!」
「え、エミちゃん?」
少女が深夜に抱き着く。
「
「ええ、中一の夏休みの林間学校で」
「ここに来るまで延々と聞かされたよ」
「あはは。と、とにかく久しぶり。元気だった?」
「はい!」
「それなら話が早いわね。絵馬さん。野宮さんには言ってあるけど、水無瀬さんは来週から当校の中等部に転入します」
「ほんとに?エミちゃん、HELIX《ヘリックス》かメール送ってくれれば良かったのに」
「急だったんです」
「そう、決まったのは一昨日。クラスは中等部2B。担任の先生には話を通してあるわ。引越は明日。で、急で申し訳ないんだけど、絵馬さんのアパート、一部屋空いてるよね?」
萌が横目で深夜を見やる。深夜が視線を落としてから、「はい」と答えた。
「当面同居していろいろと教えてあげて欲しいの。今後どうするかはもちろん相談に乗るけど」
「あ、あの。はい、わかりました。準備しておきます」
「じゃ、大家さんにはこちらから話を通しておくわ」
「深夜先輩と一緒に住めるんですね!嬉しいです!」
「うん、よろしくね、エミちゃん」
「微笑、あんま調子に乗って深夜を困らせるんじゃないよ」
「はーい」
「引越業者の手配は済んでるけど、絵馬さんもできれば手伝ってあげて」
「もちろんです。でも、ほんとに急ですね」
「うーん、私も突然連絡を受けたしね。教育委員会は何を考えてるのかわからないわ。その話を持って来られた教頭先生も」
「そういえばさっき廊下でハゲタカとすれ違ったけど、また何かバトったの?」
「ハゲタカ?」
「そうそう、教頭の名字は安宅ってんだけど、禿げ上がった頭やいやらしい目から、みんな裏じゃハゲタカって呼んでるんだよ」
「萌ちゃん、ダメだよ、教頭先生のことそんな風に言っちゃ」
「そ、そうですよ、野宮さん。いくらここにいらっしゃらないとはいえ、教頭先生に失礼です」
「そういう校長センセーだってニヤニヤしてるじゃん。それに、校長センセはハゲタカのモラハラ、パワハラ、セクハラの一番の被害者でしょ?」
「ま、まあ、そういうところもないとは言えませんが」
「あ、盗聴器発見」
「ギャーッ!嘘、嘘です!」
「ね、微笑。ちょろいでしょ?」
「萌ちゃん!こ、校長先生、本気にしないでください。萌ちゃんいたずらや冗談が好きで」
「は、はぁ、知ってるけどやめてよ、心臓に悪いから」
一陽が深呼吸しながら引き出しを開け、書類を出す。
「ほんと、野宮さんって、あの真面目一辺倒のお兄さんに似てないよね」
「お、お兄ちゃんは関係ないでしょ!」
「関係あるわ。さっき言った明日の水無瀬さんの引越、野宮君が担当だって」
「えっ?聞いてないけど?」
萌が声を荒げる。微笑が提示された書類を覗き込んで言った。
「『担当、モエモエ急便』?萌先輩のお兄さんてオタクなんですか?」
「ふっ、ふざけんな!」
「違うよ、エミちゃん。名前の由来はね」
「ちょっと深夜!」
「教えてあげないと、エミちゃん、誤解したままだよ。あのね、小学校に上がる前の萌ちゃんて、『もゆ』って上手く発音できなくて、更に可愛く自分のこと『モエモエ』って言ってたの。だから萌ちゃんのお兄さんは、それを屋号にしたの」
「へー、可愛いですね」
「優しそうな目であたしを見るな!」
「でも、萌先輩、いろんなティーン雑誌の読者モデルで有名ですもんね。前の学校でも、萌先輩のファン多かったんですよ」
「ふふん」
「最近あんまり出てないみたいですけど」
「ちっ」
「でも、萌先輩のお兄さんってことは、やっぱすごくかっこいいんですか?」
「フッ。あのね、お兄ちゃんはね、もう巷の男どもとはレベルが違うわけ。誰よりも素敵で超絶イケメンなのはもちろん、優しいし、頼りになるし、運転うまいし、力持ちだし。あ、やばっ。お兄ちゃんの嫁は、やっぱあたし以外にありえないわ。ね、深夜?」
「う、うん。
「『つたう』?」
「うん、伝言の伝で、『つたう』さん。だから、『デンさん』てあだ名もあるよ」
そして視線を落とす。
「あだ名をつけた本人は、もういないけど」
萌が少しだけ眉をひそめて深夜を見た。一陽が二人に笑いかける。
「そう言えば、さっき佐久支部に確認の電話をしたら、『支部長が伺いますので』って言われたけど、そうなの?全般に年配の方が多い中、まだ三十越えたばかりなのにすごいわね」
「あったりまえじゃん、お兄ちゃんだもん」
「支部長さんて偉いんですか?」
「当然!支部長になると、長野だけじゃない、全国の赤帽の組合員がどこにいるかリアルタイムでわかるサイトにもログインできるんだからね。緊急の配送依頼があった時でも配車できるように」
「ともかく、野宮君が担当してくれれば、水無瀬さんも絵馬さんも安心でしょ?」
「それはもちろんです」
「あ、あたしも手伝うよ。別に、お兄ちゃんの仕事関係なく、これも何かの縁だから」
「ありがとうございます、萌先輩」
「楽しみだね。それじゃ、エミちゃんが来るための準備しなきゃ。校長先生、ありがとうございました。それでは失礼します」
「あ、それから、水無瀬さんはネストに所属してもらうから、そっちの案内もお願い」
一陽の言葉に、踵を返した深夜が立ち止まる。萌が眉を顰めて振り返る。
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