6. 〝雪の女王〟

「突然機材が故障した時はどうなることかと思ったが、助かったよ」

 処置室から出た年輩の男がマスクを外しながら振り返った。若い助手が頷き、続いて出て来た無言のそれを見やる。

「凍結治療機器の電子系統の故障のようだが、原因が分からない。オームも空いていないし、非公式だが君に来てもらった。何せオオカミを留め置けるのは最長で一週間と内規で決まっているし、冥王症を恐れて皆避けるし。ワクチンを打っている私や、免疫がある君とK以外は」

 ドアのガラス越しに、CT台に横たわったオオカミが見える。

「一昨日捕獲されて検査した結果、腫瘍が見つかった。助手の君がKを発注してくれなければ、治療しないまま森に返さなければいけないところだった。今回は君とKのファインプレイだ。助かったよ」

 助手が頬笑む。

「医用工学の権威、檜垣博士が失踪してから、新技術は以前より停滞している。凍結治療も窒素が使えるようになって効率は上がったが、それでもマイナス二百度程度だ。Kなら、別の元素を使えば、更に低い温度を作れる。数日様子を見るが、問題なく森に返せるだろう」

「じゃあ、これからもKを呼べば?」

「個人的にはそうしたいところだが、現状では難しい。ここは農業試験場という建前だが、実際には、国が設立した唯一のニホンオオカミ研究機関だ。それも、軽井沢町役場から始まった〝月〟の地道な活動に押し切られる形で、もともとあった牧草研究施設の一角を借りて発足した。あくまで『浅麓地方の野生動物の畜産草地への影響を調査する』という名目で。ただでさえ国はニホンオオカミの存在を認めていないのに、更に存在を認めていないウルヴズを毎回呼ぶのは通らないだろう。ナガスネヒコもこれで三度目だし」

「はい。ナガスネヒコはもともと、この周囲のニギヤハヒとトミヤビメを中心としたパックに所属していましたが、はぐれてかなり経ちます。今度こそ受け入れてもらえるといいのですが」

「ああ。実際、我々が調査できるのは、このナガスネヒコのように病気などでパックからはぐれたか、又は密猟者によって死傷した個体だけだ。その結果、今回はこうして腫瘍が見つかったわけだが、それが自然なものか、それともクローンの子孫故かさえ調べることができない。道成寺博士たちがニホンオオカミを復活させた後、クローン動物に関する倫理的な問題など、世界的な世論が大きく変わったから、我々の親方である政府の苦慮もわかるが、でも、彼らだって生きてるんだからね」

「ええ」

「でもね、ニホンオオカミってのは、母体から伝えられた免疫や、少なくとも十数万年以上日本で生息することで培って来た文化も含めてのニホンオオカミだ。本来のニホンオオカミが持っていたかもしれない免疫を受け継いでいるわけでもない。一度罠によって人間に捕獲された経験のある二頭の教育が引き継がれているのか、彼らは異常なまでに警戒心が強く、健康であればどんな巧妙な罠にもかからない。ある程度まで近づけるのは、"the Municipal Observers of Nature"、または『自治体自然観察監』の創始者のみ、という噂もある。だからこそ彼らは、一時は密猟者が多数押し寄せた浅麓地域で生き延びることができたんだろう。でも、狩りの条件も気候も全く違う北欧で成長したヨーロッパオオカミに育てられた三頭が始祖とされる、きわめて特殊な四半世紀の歴史を培っただけのオオカミは、遺伝子が同じだからと言って、本当にニホンオオカミと言えるのか?それはもう、ヤマイヌと呼ばれていた頃とは違う生き物なんじゃないか?」

 オオカミをじっと見つめるKを執刀医が見やる。

「我々がこのきわめて不自由な環境に甘んじている一番の理由は、我々自身もまだ判断ができないからなんだよ。道成寺どうじょうじ博士たちが生み出したのが単なる動物なのか、それとも、別の何かなのか。ま、ある意味それも言い訳だ。私も又、予算と言う首輪につながれているようなもんなんだよ。でも、これから消えていく老兵はどうでもいい。K」

 執刀医がKの肩に手を置く。

「今は無理でも、私は、君にきちんと勉強して、医療の世界に来てほしいと思っている。それが冷却のオルヴズを持った君の使命だと思う」

 廊下の死角から、他の研究員たちの囁きが聴こえる。

「生命力の強い癌細胞でも死に至らしめることができるなら、正常細胞など」

「例え生体に直接作用できなくても、例えば周囲の空気を超低温にすることはできるのか」

「そもそもエネルギー保存則はどうなってる?あ」

 CT室から出て来た彼らがKに気付き、顔を見合わせる。踵を返すKの背後で、研究員たちへの医師の叱責が廊下に響く。

「お気遣いには感謝します、教授」

 Kが振り返り、呟く。

「でも、私は教授たちとは違います。あなた方には職業の選択や拒否の自由があありますが、私たちには、ウルヴズであることを選択したり拒否したりする自由はありませんから」


【2018年4月6日11時55分 ニギハヤヒ、トミヤビメ、ナガスネヒコ、ウマシマジ、スセリビメ、イワツツノメ、タニグク】

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