5. 〝華氏451〟

 浅間サンライン沿いの児童養護施設の一角。数人の男女が見守る中、それが上空に向かって弓を構え、引いた。矢は一度空に向かい、そこから不自然な角度で左に曲がって小屋の陰に急降下した。唸り声と騒音が響く。それが二の矢を継ぎ、隣で白衣の獣医が腕時計を見る。

「先生、どうですか?」

 背後で待機していた一人が訊いた。獣医が振り返り、隣のそれを見た。

「何度か一緒に仕事をしていますが、ファーレンハイトなら間違いないでしょう。そろそろ麻酔が効いた頃だと思います。念のため冥王ウイルス、まあ、シルバーショットガンの方がなじみが深いでしょうが、これのキャリアかどうか調べます。皆さんはここでお待ちください。僕は免疫がありますので。ファーレンハイト、君も大丈夫だろう。一緒に来てくれ」

 獣医が歩き出す。ファーレンハイトが弓に矢を番えながら彼に従う。小屋の陰に回ると、一頭のオオカミが倒れていた。首の付け根に麻酔針が刺さり、外れた矢が傍らに落ちている。獣医は聴診器と手袋越しの触診でオオカミの状態を調べる。

「本当はファーレンハイトではなく、Kを発注したかった。君の温度域では無理だが、Kなら即死させられるからね。でも、町の許可が下りなかった」

 麻酔針を外しながら獣医が言った。

「浅間山周辺も、今のところは獲物が豊富だから連中はほとんど森から出てこない。でも、一度里に下りて来た迷いオオカミは、山に返してもほぼ必ず戻って来る。調査は半官半民の〝月〟の活動任せ。現在のニホンオオカミの生態も良くわかっていない。いまだ存在を認めない政府には、『ヤマイヌ』という正しくもあり正しくもない呼称をあてがわれているような状態。君も知ってる通り、ナガスネヒコはこれで三度目だ。例の施設に送られた後、三度みたび森に返されても、彼がいたニギヤハヒたちのパックが受けいえる可能性は低いし、次にサンラインを越えたら無条件に殺処分される。言わば、ほぼ確実な死へのモラトリアムを与えられるだけなんだぜ」

 ファーレンハイトが弓を肩にかける。獣医がオオカミの目や舌を調べながら言った。

「僕だって獣医だ。救える命なら救いたい。でも、共存できない場合もある。一部のきれいごとを尊重した結果、例えばこの浅麓園せんろくえんの子供たちが犠牲になったら責任を取れるのかって問題もある。『自然』という胡散臭い概念から人間を除外するのは人間自身のおごりだ。利害が対立する者同士が出会い、そしてどちらかがどちらかを排除する。これこそ自然の本質じゃないのか?地球に保護されてる人間が自然を保護?鼻で笑っちゃうね」

 獣医は沈黙し、それからファーレンハイトを見た。

「もっとも、『ほぼ必ず降りて来る』というのはあくまで経験則、それもまだまだ少ない事例に基づいた予測だ。ナガスネヒコが、四度目は里に下りてこない最初のオオカミになるかもしれないし。その意味で、君は希望を与えてくれたんだよ。これから山に返されるオオカミだけじゃなく、野生動物と共存しようという人たちにも。お疲れさん、ありがとう」

 そして獣医は、ファーレンハイトの肩に右手を置くと、通りで待つクレーントラックに左手を振った。トラックと入れ違いに現場を離れたそれがふと立ち止まる。それからオオカミを荷台に乗せる準備をしている獣医と保健所の職員たちを振り返った。

「動物との共存も子供も、あたしの後輩たちでさえどーでもいいよ。あたしは、あたしにとっての一番さえ守れれば」


【2018年4月4日8時5分 ナガスネヒコ、ヤカミヒメ、イナセハギ】

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