61.おやすみ、そして



 鈍く光る刃は真っ直ぐに。私の体を斬り下ろした────はずだった。



「……え……なんともない……?」



 そんなはずはない。鎌はたしかに私の頭めがけて振り下ろされた。眼前に迫る刃を見た。

 けれど顔を触っても、体を触っても、触った手を見ても。血は一滴も付いていない。もちろん魂が体から抜け出てしまったなんてこともない。

 私は温度のある体で、二本の足で地面を踏みしめていた。



「刈り取られたとでも思いましたか?」



 あ然とする私がおかしいのか。農夫と自称する死神は鎌を片手で持ち直すと、ボロボロの袖を愉快そうに振る。



「じゃあ今のはなにを──」



 熱い。まずはじめはそれだった。

 唐突にやってきた燃えるような熱が痛みに変わる。目の裏にまるでトゲが突き刺さったように、鋭い痛みを感じて呻く。

 抑えても和らぐはずないと分かっていても、本能的に両手に目を押し当てた。


 痛い。熱い。気持ち悪い。


 耐えろ。耐えろ。耐えろ。


 倒れでもしたら、ルアンとバッカスが心配してこっちに来てしまう。ふらつくな。意地でも立っていろ。



「なにっ、を、した……!」


「あなたに纏わり付いていたものを、少しばかり取り払ったのですよ」


「あ゛?!」



 ふざけんなボロ布。答えになってないんだよ。雑巾に縫い上げて馬小屋の掃除に使ってやろうか!?

 そう罵り倒したいけど、あまりの痛みにドスの効いた声を一つ出すので精一杯だ。



「なぁに、せき止められていたものが正しく流れ始めただけのこと。痛みはじきに消えましょう」



 しゃがれ声の通り、私の中で『何か』が溢れ出し、全身を駆け巡る。耳鳴りがする。世界がぐるりとひっくり返るようだ。

 この感覚を私は知っている。

 前世の記憶を取り戻してすぐ。唯一の専属侍女に向けて、なぜ外へ出てはいけないのかと問いかけた瞬間と同じだ。



「ミシェル!」



 遠ざかりそうな意識は、子どもの声が引き止められた。

 切羽詰まった高い声は、お姉様でもお兄様でもない。知らない声だ。

 押さえる手を外し両目をこじ開ける。一瞬、鏡でも置いてあるのかと思った。



「あぁ、どうしよう!ぼくじゃあこの子に触れないのに」


「死ぬようなことはありませんよ。あ、死んでくれた方があなたに連れができますね」


「ふざけるな!この子はまだこっちに来ていい子じゃあない!」



 軽い調子の死神に文句を言うたびに暴れる、白いレースの可愛らしい寝間着。ゆるく波打つ金髪。

 睨みつける大きな目は、冬の寒さにも耐えうるヒイラギの色。私の苔のようなあせた黄緑よりもずっと鮮明な美しさを持っている。

 似てるけど少し違う。小柄な私よりもさらに小さな、幼い男の子がそこに浮いていた。



「ジャン=クロード……?」



 確かめるように、そっと、すぐ足元にある墓石に刻まれた名前を口にする。

 彼は空中でぴたりと動きを止めた。大きく見開かれた深緑がこちらへ向き、はくと口が動く。その様子がはっきりと見える。



「ミ……見……」


「見えてるね……はっきり……」



 ついさっきまで半透明で会話も一方通行だったのに。戸惑う顔が見えて、しぼり出した声が聞こえる。

 どうしよう。話ができたらいいのにとは言ったけど、こんな急展開は頭がついていかない。激痛のせいであふれていた生理的な涙を拭っても、やっぱりそこにいる。



「ほらぁ、だから痛みも治まり、死ぬこともない言ったではありませんか」



 似た顔を見合わせて固まる私達の頭上を、すーっと死神が通り過ぎる。そのまま「どれ、向こうの観戦でもしてきますか」などと言って、叔父様がボコられているであろうお祖母様のお墓の方へと飛んで行ってしまった。

 それにはっとするのは同時でも、先に動いたのはジャン=クロードの方だった。



「目は?もう痛くない?」



 小さな手に目元を撫でられる。

 温度はない。温かくも冷たくもけれど触れられる感覚。

 私はそれに、覚えがあった。



「もしかして、前にもこうやって触ってた……?」



 そうだ、そうだ。答えを聞くまでもない。私はこの手を知っている。

 侍女に外へ出てはいけない理由を尋ねて、ドッと津波のように押し寄せた気持ちの悪さに耐えきれずに気絶した後。この手に頬を撫でられたのがくすぐったくて、目を覚ました。

 彼はいたんだ。その存在を知る前から、私の近くに。



「君は、ずっと待ってたんだね」


「きみが、ぼくの唯一の希望だったからね」


「遅くなってごめん」


「謝らないきゃいけないのはぼくだよ」



 ジャン=クロードは伏し目がちに首を振る。

 その流暢な話し方と幼児が絶対にしないであろう仕草に、今更ながら、あぁこの子は生きていないんだと実感した。



「もうわかってるんだろう? ぼくがあの日、どうやって誰にも見つからないで庭に出たのか」


「……わかってなかったら、あんなこと言ってないよ」



 お祖父様は、ジャン=クロードは自分で子ども部屋を出たと言っていた。でもそれが不可能なことぐらい本人だって分かっているだろう。

 だって二歳だ。ようやく安定して歩きまわれるようになった幼児が、広い侯爵邸内を、家族にも使用人にも見つからずに移動できたとは考えられない。

 お祖父様はこの事件を、不運な事故と処理しなければならなかった。そのために無理やり辻褄を合わせただけだ。



「ジャン=クロード、君はひとりで外に出たんじゃあない」



 では誰が一緒だったのか。

 屋敷の構造、いる人数とその動き。内部事情をある程度知っていなければ、誰にも見つからず移動することは難しい。

 また二歳であれば、知っている人とそうでない人の区別はつくし、幼いからこそ脅しはきかない。第三者が騒がれずに連れ出すのは苦労する。

 エバーグリーン家に詳しくて、二歳の子どもが素直に従うほど身近な人物。

 単純な消去法でたどり着いた、残酷な答えだった。



「君を外へ連れ出したのは、君の母親。イザベラ叔母様だ」



 なんの因果か、私は前世では姉だった。歳の離れた妹がいた。

 親戚の子の相手をしたこともあったし、街を歩けば小さな子を連れた若い夫婦を見かける事だってあった。


 だから私は知っていた。二歳は自我が芽生え、よくしゃべるようになり、自己主張するようになる頃だと。

 そのあまりに激しい自己主張に『魔の二歳児』と呼ばれ、『イヤイヤ期』という相手をするのが非常に厄介な頃だということを。



「あの日は朝から雪が降っていた。二歳の君にとって初めて見る雪とも言える。寒いのも気にせず遊びたいって駄々をこねて、それを叔母様が叶えてあげようしたんだ」



 だから私は言ったんだ。「雪で遊びたいなんて言ってごめんなさい。あなたは悪くない」と。

 あんなことをしなければと後悔して、自分を責めて責めて責め続けて。前に進むどころか立つこともできなくなった愛情深い母親の耳元に、他の誰にも聞こえないように、誰かからの伝言を装って。

 すると叔母様は許してと泣いた。それが何よりの答えだ。



「すごいや。まるであの時ぼくと一緒にいたみたい」



 小さな従兄は、真っ白なレースのすそをひらひら揺らす。



「嫌なことを教えてしまってごめん。でも、女の子がそんな怖い顔するもんじゃあないよ」


「だけど、こんなのって……!」



 叔母様はただ、可愛い息子のわがままを聞いてあげようとしただけ。

 お腹にいる第二子が生まれれば、どうしても屋敷中がそちらを優先するようになってしまう。寂しい思いをさせてしまうから、せめてそれまでは……という気持ちもあったのかもしれない。

 その愛情を利用されたんだ。かつて大陸中を焼いた戦火の元である、東の大国に。



「君だって、こんなのおかしいって思うでしょう?!」



 理不尽さが腹立たしい。ふざけんなと叫びたい。重たいコートを脱いで、思いっきり地面に叩きつけたい。



「うーん、そりゃあまあ思うけど、怒って生き返れるわけじゃあないからね。それに生き返りたいなんて、思ってないもん」



 その声に、表情に、ほんの一瞬だけ呼吸が止まった。



「どうして……」



 どうして目の前の人物は、幸せそうなんだろう?

 女の子みたいな高くてまぁるい声で。生者みたいな柔らかくてあたたかい笑顔で。

 たった二歳で理不尽に、唐突に命を奪われた従兄の、その幸せそのものな言動が。

 私にはどうやっても理解できなかった。



「実はぼくはね、自分がいつどうやって死んだのか覚えていないんだ」


「覚えて、ない?」



 吐き出した動揺は白く染まり、冷たい空気に溶けていく。



「覚えてるのはきみが言った通りのことだけ。雪遊びがしたいってわがままを言ってたら、母様が連れ出してくれたところまでなんだ」



 私に対して淡々と語るその口から出る音が、白くなることはない。それが奪われた十一年前の冬。

 体を冷やすとよくないからと乳母に聞き入れてもらえなくて、でも諦められないから駄々をこねていた。すると来てくれたのが母親だった。

 優しく微笑み「内緒よ」とそっと手を引き部屋を出れば、聞かん坊は魔法のようにぴたりと静まる。



「使用人に見つからないように、こっそり隠れながら裏庭に行ってね。探検みたいですごく楽しかったんだ」



 大好きな母様と秘密の探検。子どもにとってこんなにもドキドキする遊びはない。幸せな時間をだっただろう。



「裏庭で母様と雪を触ってたら、メイドに見つかってさ。『見つかっちゃったから、続きは明日にしましょう』って母様が笑って……」



 やっぱりここまでだと首を振る。諦めや失望ではなく、納得の声色だ。

 大好きな母親の笑みで生前の記憶が終わっている。痛いも、苦しいも。理不尽に、唐突に奪われた記憶がない。

 たしかにいいことだろう。一人の人間が生きてのある私にはそう思える。

 でも未来を奪われたという事実は変わらない。それなのにどうして彼はこんなにも、やり尽くしたような顔をしているんだろう。



「ぼくは自分の死んだ理由を知ることや、復讐なんかが望みじゃあない」


「弟に自分のフリをやめさせて、母親に立ち直ってもらうことでしょう?」


「ううん、ちょっと違うかな」


「え?」



 戸惑う私から視線を逸らし、どこか遠くを見つめる目が細くなる。

 雪が降る灰色の空。太陽なんてどこにもないのに、眩しそうに。



「ぼくは母様に、最期に見たのとおんなじ笑顔を弟に向けてほしかったんだ。ぼくの代わりのジャンじゃあなくて、ジャン=ドミニクにね」


「それが叶ったの? だから満足なの?」


「叶ってない。叶っちゃいけないってわかったから、もういいんだ」


「い、意味がわからないんだけど……」


「ぼくと弟は違う存在だって教えてくれたのは、きみだろう」



 見た目とは不釣り合いな諭すような言い方に、はっとした。



「きみが教えてくれたから、これ以上大切な人を不幸にしなくてすんだ。ありがとう」



 死んだ兄に向けたものと同じじゃあダメなんだ。

 その望みが叶うということは、まだ叔母様は、夢から覚めていないということ。ジャン=ドミニクがジャン=クロード見えているということになる。

 でも────。



「ジャン=クロード、私は答え合わせをしにここへ来たんじゃあない。君の言葉を、叔母様に伝えるために来たんだ」


「ぼくの言葉って……。それならもう伝えてもらったよ」


「あれは私が勝手に言ったことで、本当の君の言葉じゃあない」


「いいんだよ、あれで」



 あれが伝えたかったことだよと、ジャン=クロードは頑なに聞き入れようとしない。

 ああ、やっぱりか。彼が十一年間この世に留まっていた理由はこれか。

 お祖父様が。お祖母様が。叔父様が。叔母様が。誰も彼もが、十一年前に始まった悲劇に責任を感じている。あの時こうしていれば、あんなことしなければと、後悔している。

 それはジャン=クロードも同じだ。

 あの日、自分が雪遊びがしたいなんて言わなければ、こんなことにはならなかったのに。母親が悲しみ、弟を苦しめたのは自分のせいだと思っている。

 自分がただ静かに消えることが正しいと、本気で思っている。



「君の死は、君のせいじゃあない」



 雪遊びに連れ出したことで、子どもが殺される。

 平和な日常のなか、いったい誰がそんなことを思うだろう。

 けれど起きた。それはどうしようもない理不尽な理由で、下劣な方法で、他国からの襲撃者の手によって。

 ジャン=クロードは被害者だ。背負わないといけない責任なんてものはない。



「君のせいで不幸になったと思ってる人は、一人もいないよ」


「でも、ぼくがわがままを言わなかったから……」


「子どもがわがままを言うのは当たり前だ。それに雪で遊ぶ君を見て、叔母様は迷惑そうにした? 怒ってた?」



 違うでしょうとわざわざ言わなくても、そんなことは彼が一番よく知っている。

 下唇を噛み、大きな目が墓地のあちこちをさまよう。



「君は愛されて育って、今も愛されてるんだよ。それなのに最期の言葉が『ごめんなさい』だなんて、悲しすぎるよ」



 私は認めない。

 彼の望みは叶わないことが幸せだなんて。

 彼が何かを望めば、誰かが不幸になるだなんて。

 家族を不幸にする自分はいない方がいいだなんて。

 そんなの、絶対に認めない。



「……い、いっこだけ」



 しばらく黙り込んだと思えば、なんて無欲、いやなんて頑固なんだ。

 私だったら「あ、そう?じゃあアレとソレと」と手のひら返してここぞとばかりに注文をつけるというのに。頑固なところは少しジャンお兄様に似ているらしい。

 そんな彼の願いはまさにその弟のことだった。



「叔母様じゃあなくて?」


「母様も心配だけど、弟には何もしてあげられなかったから。あの子に何かあった時に助けてあげてほしいんだ」



 ぼくの代わりに、と呟く声は複雑な音に聞こえた。



「あの子はずっと、ソフィアに嫉妬してたんだ」


「お姉様?」


「きっとこの先もそのままで、ぼくにはどうしようもないんだって思ってたけど……。こんなこと、それを変えてくれたきみにしか」


「ちょ、ちょちょちょっと!待って!タイム、タイム!」



 野球選手よろしく両手でタイム要求のサインを出す。このジェスチャーが西洋風乙女ゲーム世界で意味が通じるかは疑問だけど、とにかくちょっと待ってほしい。

 今さらっと私的に────乙女ゲームの悪役令嬢の妹であり、お姉様の破滅フラグを一本残らずへし折りたい私的に、聞き逃せないことを言われた気がする。



「お兄様がお姉様になんて? しかも私が変えたってなにが?」


「なにって、気づいてたんだろう?」


「だからなにを?」


「え?」


「え?」



 私たちの間をひゅうっと、まるでどっちも落ち着けと世界が言うように風が通り抜けていく。

 いままでフードを被った私の首元で大人しくしていた毛玉が、「プッ」と小さく声をあげた。この状況で笑うか普通?

 黙っててとフードの奥に押し込んで、戸惑うジャン=クロードに視線を戻した。



「えっとお兄様が嫉妬って、お姉様のどこに?」


「弟がほしいものをぜんぶ持ってるところ……だと思う」


「ほしいもの?」


「自分を自分として見てくれる両親と、仲のいいきょうだいだよ」


「それって……」



 つまりそれは、十一年前に事件が起きなければ、ジャンお兄様が手にしていたもの。理不尽に奪われたものだ。



「しかも今度は、友だちの第二王子まで自分のものにしようとしたから、あの子はソフィアが大嫌いだったんだ」



 ジャンお兄様は、両親にとって自分は死んだ兄の代わりに過ぎないと考えていた。実際それに近い環境で育った。でもソフィアお姉様は違う。

 そんな中で唯一の救いは「私がお兄様と呼ぶジャンはあなただけです」と言ってくれる従妹。でもあくまで自分は従兄、本当のきょうだいはソフィア。

 さらに今度は幼なじみとすら言える親しい友人の、エリック王子の婚約者にまでなろうとした。本人からは嫌われているくせに。



「なるほどね……」



 前世の記憶を思い出した時、お姉様との仲の悪さに頭を痛めたけど……。

 巧妙にジャン=クロードと十一年前の事件が隠されていたあの時点で、私がお兄様がお姉様を嫌う理由に気付けるわけがない。



「それは大っ嫌いだね、そんなやつ」



 おまけにここは乙女ゲームの世界で、攻略対象は、自分の好きな子プレイヤーを傷つける悪役令嬢を嫌うとシナリオで決まっている。

 でも……でもそれは、ゲームの話。未確定な五年後の話で……。



「きみが今、それをぜんぶ変えちゃった」



 心を読んだように、深い緑色の双眸が瞬いた。



「王子はソフィアの婚約者になるために、弟に頼りっぱなし。前より彼らは仲良くなってる」



 かつてはお姉様の一方通行の恋。名門公爵家の令嬢という地位だけで選ばれた婚約者だった。

 でもエリック王子は自分からソフィアお姉様に歩み寄った。会えない間は手紙をかわして、便せんではわからないお姉様の様子をジャンお兄様にしつこく聞いているらしい。

 それを教えてくれたお兄様本人で、口では迷惑だと言っても表情は楽しげだった。

 そうなったきっかけは、私がエリック王子の伸びた鼻っ柱をへし折ったことだ。



「兄妹じゃあないけど、きみはずっと前から弟を『お兄様』って呼んで懐いてる。しかもそう呼ぶジャンは世界中でジャン=ドミニクだけだ」



 たしかに私たちは兄妹ではない。でも従兄をお兄様と呼び慕って何がおかしい? 身内とはいえ年上を呼び捨てにする方がよっぽど無礼でおかしいだろう。

 昔も今も、これから先も、私はお兄様と呼ぶと彼にもうすでに伝えてある。



「そして、父様と母様。ぼくにはどうしようもなかったことを、きみが終わらせてくれた」



 彼の両親は、すべてを受け入れるにはもう少し時間がかかるかもしれない。だけどもう夢に逃げ込むのはやめている。

 叔父様の理想も、叔母様の幻想も、あの朝に私が粉々にぶっ壊した。



「あの子はもう、ほしいものを手に入れた。ソフィアを嫌う理由はなくなったんだ」



 そう言いながら向けられた笑みの、なんと無邪気なことか。

 私は思わず額に手を当て、天を仰いだ。



「ま、またこのパターン……!」



 さらさらと頬に降ってくる雪は、祝福の紙吹雪だと思いたいけど、今の心境的には突然上から冷水をぶっかけられるドッキリだ。



「あれ? なにかダメだった?」


「うーん……」


「二人が仲悪いの気にしてたよね。それがもう大丈夫になったんだよ、きみのおかげで」


「ングゥウウッ!」



 ジャンお兄様がソフィアお姉様を嫌う理由がない? もう大丈夫?

 それは言い換えると、攻略対象が悪役令嬢を嫌わない。お姉様の破滅フラグ、ひいては私の尻拭いエンドのフラグが折れたということだ。



「今回も、そんなつもりじゃあなかったんだけどなぁ……」



 そう、そんなつもりはまったくなかった。

 私はただ、お兄様がうそ仮面えがおを貼り付けているのが嫌だったから。それを外すよう囁いて、二度つけられないように叩き割った。

 つらく悲しいのは分かるが、いつまでもグズグズべそべそ過去にひたって、綺麗事並べ立てて息子二人を蔑ろにする大人どもにムカついたから。現実という名のハンマーでお綺麗な夢のお城を粉砕した。

 断じて「ここで動けばフラグが折れるぞ!」と思って動いたわけではない。それがどうしてこうなった。



「そっか。嫉妬……嫉妬だったんだ」



 自分の欲しいものを当たり前のように持っていて、友人と好きな子を傷つける女。

 羨ましくて、憎たらしくて、不愉快でしかない存在。

 ジャンルートのシナリオのエグさ、特にバッドエンドの血みどろサスペンスは、彼が幼少期から積み重ねていた嫉妬も理由の一つだったのかもしれない。


 しかし、もう起こらない。


 ジャン=ドミニク・エバーグリーンは、彼以外の何者でもない。彼以外の何かになるつもりもない。

 肉親も、友人も、欲しいものはすべてその手の中にある。



「それを……やっと彼が手に入れた幸せを、守りたいんだね」



 まっすぐ前を見る。

 私たちの最大の違い、黄緑と深緑の目がかち合う。



「ぼくの代わりにだなんて、弟にしたこととおんなじだってわかってる。でもぼくには……!」


「うん、いいよ。代わりって負い目も、感じなくていい」


「ほんとうに、いいの?」


「君の望みは私の望みと同じ。だからそれを叶えても、私が不幸になることは絶対にない。君の望みは、誰のことも不幸にしないよ」



 私の最初の望みは、自分の運命を変えること。悪役令嬢の尻拭いのために、家が没落したり、没落阻止のためにロリコンと政略結婚したりする未来の改変だ。

 それは次には、お姉様を悪役令嬢にしないこと、大切な家族に降りかかる不幸を阻止したいに変わった。

 その大切な家族には、もちろん、従兄も含まれている。



「ジャン=クロード。君の意志は、私が未来に持っていく。絶対に実現させてみせる」



 今はお兄様とお姉様の関係がいい方向へ向かっても、肝心の五年後に、乙女ゲームのシナリオ通りにならないとは言い切れない。

 特にジャンルートのバッドエンドは、お姉様が死ぬだけじゃあない。お兄様が罪を犯し姿を消してしまうとんでもないシナリオだ。

 パールグレイとエバーグリーン。私の肉親全員が不幸になる未来なんて、絶対に向かえさせない。



「お話は済んだようですね」



 そこへふわりと、黒が舞い降りてきた。



「これ以上こちらへ留まれば、あなたはあなたでいられなくなる。いいですね」



 鎌を携えた死神に、小さな従兄は迷わず首をたてに振る。

 ああ、終わるんだ。結末はあまりに唐突だ。でもこれでようやく彼は、本当の意味で、終わることができるんだ。

 だったら私の役目は……。



「ミシェル?!」



 その小さくて温度のない手を握れば、よっぽどの不意打ちだったのだろう。

 振り上げられた鎌にぎゅっと閉じていた目が、大きく開き、こちらを向いた。



「さっきお祖父様がね、この教会の人に、君のお墓をお祖母様の隣に移せるようにお願いしてた」



 彼は長い間、その存在を隠されていた。

 自分の描かれたキャンバスは別邸に移され、眠る場所も一族とは離された場所に追いやられた。

 十一年間、誰もその名前を呼ばなかった。幸せな時間もあったのに、それを語り懐かしむ者もいなかった。



「今までよく、ひとりでがんばったね」



 私の役目は、そんな彼を最後の最後までひとりぼっちではいさせないこと。その結末をきちんと見届けることだ。

 鎌の振り下ろされる寸前に見えたのは、柔らかく、力の抜けきった、まるで母親の腕の中で寝付いたような微笑みだった。



「────ありがとう」



 どこからともなく風が吹く。被ったフードが後ろに落ち、鮮明になった視界の中で、彼の輪郭が淡くなっていく。握った温度のない小さな手の感覚が薄れていく。

 これでいい。目を背けるな。覚えておくんだ、いつか彼を愛した人が、その最期を知りたがった時のために。あなたの息子は笑うと口元が母親にそっくりの、最期まで家族思いの優しい子だったと伝えるために。



「おやすみ、ジャン=クロード・エバーグリーン」



 私の手に残ったのは、一粒の雫だけ。

 降り続く雪のひとひらが溶けたにしては大粒なそれ。ぽつんと乗った手の甲を、私はもう一方の手で握り込んだ。



「君に任せていいんだね」


「ええ。『彼』はこの農夫めが責任を持って、冥府の門まで連れて行きましょう」



 死神は農夫を自称しながら、その真っ黒いローブの合わせを開いて見せた。

 あるのは体ではなくカンテラ。ろうそくもないのに、小さなオレンジ色の火が灯っている。

 本能的にその火がなんなのか、理解できた。



「では務めを果たさなければならないので、これにて」



 ばさりとローブが戻され火が隠される。

 舞台の緞帳のようだと、ぼんやりとする頭の片隅で思った。



「またいずこにてお会いしましょう」


「できればとうぶん会いたくないんだけど」


「ホホッ、どうでしょうかね」



 嫌なこと言わないで。そう言い返す前に、死神はあっさりと霧散してしまった。

 突然現れて、なんの説明もなく一撃を食らわせて、アフターケアもなしに消えるとはなんて奴だ。もしまたがあれば、本当にあのボロ布を雑巾にしてしまおうか。



「さてと……」



 はぁと息を吐き出せば、まだちゃんと白くなる。



「約束しちゃったし、後悔もしたくないからね」



 ここは乙女ゲームの世界だ。でもここが私の現実だ。

 セーブポイントはないし、コンテニューだってできない。途中で選択を間違えて望まない結果になっても、それを受け入れるしかない。

 だからみんな、何かを後悔している。

 あの時こうすればよかった、ああしなければと。当時は最善だと思った決断を、後になって悔やんでいる。

 過去を変えることはできないから。その過去を、後悔を、傷を、ぜんぶ抱えて生きていくしかないんだ。

 だけど、未来は変えられる。



「ここからが本番だ」



 私の目標は、主人公と攻略対象七人が幸せになるハーレムエンドのさらに上。ゲームには存在しない、悪役令嬢も幸せになる大団円ハッピーエンド。

 実現させるにはあと五本、お姉様の破滅フラグを折らなければならない。


 分かってる。それがどれだけ難しいかなんて。

 前回のエリック王子と、今回のジャンお兄様の二本は偶然。こんな幸運があと五回も続くわけないし、今の私じゃあ足りないものだらけで、そんなの夢のまた夢だって。

 でも五年後に後悔したくないんだ。約束を破りたくないんだ。



「突き進んでやるよ、ハードモード人生!」



 誰も泣かない、笑って終わる未来を掴み取ってやる。








 未来のために、私は受け入れなければならない。

 変えられない過去を。逃げられない現実を。

 すべての始まりと、始まりの終わりを。



「教えてください。公爵家にとって、この世界にとって、私は……ミシェル・マリー・パールグレイとはどんな存在なんですか?」



 ────満天の星空の下。導きの星から告げられた言葉を、私は一生、忘れることはないだろう。






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悪役令嬢の妹 ~転生したら人生ハードモードなんですけど!?~ 三崎かづき @kaduki08

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