56.十字架はいつもそこに
「お祖母様だったら、どうしてたんだろう」
屋敷に忍び込んだ賊を叩きのめしたり、浮気の疑惑があるお祖父様を木に吊るし上げたり。侯爵夫人にあるまじき逸話を残したお祖母様が、今のエバーグリーン家を、息子夫婦や孫の様子を見たらどう思うだろう。
額縁の中で微笑むお祖母様を見上げたところで、答えてくれないことぐらい分かってる。
暖炉の前に座り込んだ私の呟きは、とても小さくかすれていて、一人きりのサロンに響くこともなく消えた。
「……」
お祖父様が仕事から戻り、叔父一家も加わったことで、私の自由気まま生活に変化がもたらされた。
それまでは朝、着替えは侍女が運んでくれた数着から一つを適当に選んでいた。しかしその選択肢の中に白や白に近い淡色がなく、落ち着いた緋色や紺、鮮やかな黄色や黄緑の女の子らしいものデザインのものばかりを着せられるようになった。
寝間着についても、白い寝間着の上に濃色のブランケットを肩にかけるよう、家政婦であるパメラに言い渡された。
「寒さが厳しくなってきましたからね。お風邪を召しては大変です」
もっともらしい理由だが、空虚に聞こえた。
髪もそれまで以上に丁寧に整えられ、リボンや髪飾りで女の子らしく飾り付けられるようになった。
お祖父様が戻ったのなら乗馬の練習を見てもらいたいと言えば、せっかくだから叔父夫妻にピアノを披露してはどうかと提案される。
お兄様がいるならボードゲームで遊ぶと言えば、一緒にダンスの練習をしてはどうかと提案される。
しかし部屋で黙々と刺繍や読書をしていれば、そっとお茶とお菓子を置かれるだけで何も言われない。
なにも知らなかったら、きっとなんの疑問も抱かず、長い間会うことのなかった叔父一家との時間を令嬢らしく過ごしていただろう。
しかし、その裏にある隠されたものの検討がついているので、滑稽と言うべきか、健気と言うべきか……。
「ミシェル」
ここにいたんだ、と安心したような力の抜けた声の方を見れば、ジャンお兄様がこちらへと歩み寄ってきていた。
「この部屋好きだね。また魔法の本?」
傍らに置いていた本をみとめていうお兄様に、私は首を横に振った。
「ううん。ソンブル大戦の……うーんと、伝記?軍事史?」
「軍事史なんて、お祖父様が読みそうな本だね。なんでそんなものを?」
「前にお祖父様が言ってた、白馬に乗った英雄の話。あれを詳しく知りたくて」
私の横に座ったジャンお兄様の肩から、ぴょんと毛玉が私に飛び移ってきた。
達成感たっぷり、でも私にしか聞こえない声を上げる。
お兄様の手前、小さな友人と話しはできない。コクリとわずかに頷くのに留めて、本を手に取った。
「本当は、ここに来る前にじいやにお願いしてたの。大戦の英雄についての本とか、魔法薬学の本とか、読みたいから用意してほしいって……」
でも、用意される前に、私が家を出ることになってしまい読めずじまいだった。
「この街の古本屋さんがあったから、やっと読めたんです。お兄様も読んでみますか?」
ページをめくりながら言えば、「僕も?」と不思議そうに横から覗き込まれる。
本に目を落としたまま、私は当たり前のことをいつも通りの声色で言った。
「だってこれは、エバーグリーン侯爵が読みそうな本なんでしょう。お兄様は未来のエバーグリーン侯爵なんだから、読んでおいていいんじゃあありませんか?」
知識は多くあって損はないと思います。
そう言って、白馬に乗った男性の挿絵がよく見えるよう開いたまま差し出す。するとなるほどといった顔で受け取られた。
「僕が侯爵家を継ぐのは、ずっと先のことだけどね」
「お祖父様が隠居して、叔父様が侯爵になって……」
「父さんが今持ってる子爵位を継いだ、その後だよ」
だから気が早いよと笑いながらも、その目は本の文字を追い始めている。
今度は私が横から覗き込む番だ。と言っても、もうすでに内容は知っているので、仰々しい英雄の姿を眺めるだけである。
たてがみを靡かせて走る逞しくもしなやかな白馬と、その手綱をしっかりと握った美丈夫。さすがは英雄なだけあって、ずいぶんと美しく描かれている。
たぶん、描き手の理想の英雄像なんだろうな。歴史上の人物の絵とはそういうものだ。
「お祖父様って、いつまで侯爵なんでしょうね。そろそろお身体が心配です」
「うーん、まだまだ続けるんじゃないかな。簡単に辞められる立場でもないし」
お祖父様が隠居するということは、侯爵位が叔父様に移るだけでは済まない。騎士団と軍をまとめる武官のトップが、代替わりするということだ。
次を任せられる人がいないんだって、と言ってお兄様は挿絵を指差した。
「この英雄は休戦させることができただけで、戦争が終わったわけじゃない。いつ東の国が攻めてきてもおかしくないんだ」
「終戦したら、お祖父様も安心して辞められる?」
「たぶんね。でも他にも心配してることがあるらしいから」
「他って、どんなこと?」
挿絵に触れる指先が強張るのを、私は見逃さなかった。
「……さあ、なにかな。僕もよく知らない」
と他人事のように呟き、お兄様は本のページをめくった。
寒さ厳しい冬でも枯れないヒイラギのような、エバーグリーン家生来の色をした目。それは間違いなく本に落とされている。けれどもう文字は見ていない。
私は聞き分けよく、「そうですか」と何も知らないフリをした。
「きっと私のことも心配してるんでしょうね、お祖父様。ちょっとでも早く安心させてあげないと」
まずは家に帰れるようにならなきゃ。
へらりと苦笑した、ちょうどその時だった。
ノックもなく扉が開いたかと思えば、家令が頭を下げて入ってきた。
「坊ちゃん、若奥様がお呼びです」
硬い声だった。私がこの屋敷に来た時は、穏やかに出迎えてくれたのに。
そしてそれを聞いたお兄様の声もまた硬く、そして冷たかった。
「分かった、すぐに行くよ。ごめんねミシェル。本はまた後で借りるね」
「うん」
イザベラ叔母様は、時おり思い出したように息子を部屋へ呼ぶ。
そこでどんな会話がなされているか。私は直接聞いていない。直接、は。
目立った言動は一切せず、気付いているかいないか分からないと思われる立ち位置。周りが何かを要求してくるまでは傍観者に徹しようと決めていた。
離れていく背中を黙って見送る。家令によって扉が閉じられたのを見計らって、毛玉が鳴いた。
「ああ、やっぱりさっきも叔母様のところにいたんだよね。ってことは、十分そこそこでまた呼んだのか……」
「プーピー?」
「今度はついていかなくていいよ。盗み聞きするほどのことも話してないだろうし」
本を胸に抱えて、毛玉を連れてサロンを出る。途中ですれ違った使用人に暖炉の火の始末を頼み、自室から上着とマフラーを引っ掴んですぐさま着込んだ。
その時、クローゼットの下に置かれた、カバンが目に入った。
「まだ、使えないよね……」
パタンとクローゼットを閉じて、私は厩舎へと向かった。掃除や馬の手入れをしている従者のルアンとバッカスに一言言ってから、裏手にある運動場へと急ぐ。
すると案の定、金髪の男性がそこにいた。
「叔父様」
背後から声をかければ、振り返ったステファン叔父様は「おや」と声をあげた。
「寒いのに出てきてしまったのかい。ダメじゃないか」
「私の馬は、私が厩舎に戻してあげないといけないんです。それに、あったかくしてきたので大丈夫ですよ」
国の北に位置するパールグレイ領は、この時期はもう雪がちらつくこともあった。しかし南方のエバーグリーン領は、朝晩は確かに冷え込むが、晴れた日の昼間となればそれもずいぶんと和らぐ。
私は叔父様の横に並び、少し離れた場所をうろつく相棒である白馬をぼんやりと眺めた。
他にも馬は複数いるけれど、唯一の白馬はとても目立つ。
「話には聞いていたけれど、見事な白馬だね」
叔父様は「名前はつけてあるのかい?」とわずかに首をかしげた。
「ユーゴです。とても賢い子なので」
「それはまた真っ直ぐな名前だね」
「ひねりがなくてつまらない、と言ってくださって結構ですよ」
スパッと切り捨てると、叔父様は目を丸くした。
今頃、母親に呼び出されて話し相手になっているであろうジャンお兄様と同じ色。
そして、死んでもなお家族に寄り添い続けるジャン=クロードと同じ色。
無感情に見上げれば、その目は馬たちのへと逃げた。
「ずいぶんと嫌われてしまったようだ」
困ったなと叔父様は頬を掻く。
「どこまで知っているんだい?」
何も知らないと誤魔化しかけて、すんでのところで飲み込んだ。
しらを切ったところで無駄だ。そんなことをしたって問題を先送りにするだけで、下手をすれば取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
「……イザベラ叔母様は、息子を亡くしたショックで心を病んで、次に生まれた子を、死んだ子だと思い込んでいるということを」
「他には?」
「死んだ子……ジャン=クロードは私とちょっとだけ似てて、だから今までずっと私と叔母様を合わせないようにしてたこと。お兄様も全部を知っていて受け入れてること」
一度ゆっくりを呼吸をしてから、はっきりと。
「すべての元凶は叔父様で、お祖父様とお父様と共謀して、私にこの問題をどうにかさせるためにここへ連れ出したことを、なんとなく察してます」
違うと、なんの話だと言ってくれたら、どれだけ良かっただろう。けれどそんな願いを打ち砕くように、叔父様は「名前まで知っていたのか」と言ったきり黙り込んでしまった。
重くて冷たい沈黙が落ちてくる。
それでも私も黙り続ければ、ようやく叔父様が「あの時……」と口を開いた。
「あの子を喪った傷は、イザベラには深すぎたんだ。その頃はもうずいぶんとお腹も大きくてね、葬儀に出るには心も体も弱り切ってしまっていた」
葬儀に出なかったせいで、余計にあの子の死を実感できなかったんだろうと言って目を伏せる。
叔父様の横顔には、後悔の色しかなかった。
「……お兄様を『ジャン』と言い出したのは、誰ですか?」
「イザベラだよ。彼女の時間は、ジャンを産んだ瞬間、あの子が生まれる前に巻き戻ってしまったんだ」
その時に正しておけば良かったんだ。ジャン=クロードはもういない、その子は新しく生まれてきてくれた子なのだと。
しかし叔父様は、生まれたばかりの子を愛おしそうに抱いて、死んだ子の名前を口にする叔母様にそうしなかった。
「『ジャン』を取り戻して、イザベラはみるみる快復していった。もう一度彼女から『ジャン』を奪うことを、私はどうしても、できなかったんだ」
自分や使用人が黙っていれば、ジャン=クロードの痕跡を隠してしまえば、誰もが幸せに生きていける。
妻は第二子を第一子だと思ったまま。子どもも自分が第一子と思ったまま。ジャン=クロードとジャン=ドミニクを一つの存在にしてしまえば、すべて丸く収まると思っていた。
でも、君が生まれて状況が変わったと、私を見ながら叔父様は言った。
「君の誕生の祝いにパールグレイ家へ行った日。君を……金の巻き毛の赤ん坊を見た瞬間、イザベラは倒れてしまった」
「私を見て、ジャン=クロードを思い出した……?」
「おそらくね。目を覚ましたイザベラは、ジャンを見て言ったんだよ」
あの子はいつから、金髪ではなくなったのか、と。
生まれた頃は夫や義母と同じ金だったのに、いつから自分譲りの茶髪になってしまったのか。ジャン=クロードとジャン=ドミニクの違いを見つけてしまった叔母様は、夢と現実が中途半端に混ざり合い、パニックを起こしてしまったそうだ。
「だから咄嗟に誤魔化したんですね。髪は生まれた時は薄くても、大きくなると色が濃くなることがあるって言って」
「参ったなぁ、そこまでお見通しだったか」
「私もお母様に聞いたんです。私は生まれた時はお母様と同じ金髪だったらしいのに、いつからこの色になったのか」
金から銀へ。色が濃くなるどころか薄くなった自分の髪を眺めて、遠く離れたユーゴへと視線を移して「そういえば」となんに気なしに続ける。
「ソンブル大戦の英雄について調べてたら、戦後に、年をとって白くなった芦毛馬を白馬と言って高い値段で売る詐欺事件がたくさんあった、と本に載っていたんです」
もしかしたら馬の買い手も、それが老いた芦毛と薄々気付いていたかもしれない。でも白い馬は縁起物として持て囃されるから、その満足感を得るために買った。
真実は自分に都合が悪いから、目を背けていたのだろう。
「ユーゴは白馬というだけで、冷遇はされないけど、ずいぶんと人の都合に振り回されてきたそうです。そのせいで人が嫌いになってしまった」
馬は耳のいい生き物だ。自分のことを言われていると気がついたらしく、ユーゴは群れから離れ、軽快な足取りで寄ってくるなる顔を差し出してきた。
その鼻筋や首を撫でてやれば、ずっと背中に乗って遊んでいた毛玉が私の方に飛び移る。
「白い体を持って生まれたというだけで人の都合に振り回されたこの子と、本当は違うのに縁起物と持て囃される芦毛。どっちが幸せでしょうね」
穏やかに世間話の口調で言ったつもりが、意図せず哀れみが混ざってしまった。
それに気がついたのか、叔父様は唇を震わせた。
「分かっていて、なぜ見ているだけなんだい」
責めるような口調に、私は声もなく笑う。
「勘違いをしないでください、ステファン叔父様。私はパールグレイ家の娘であり、これはエバーグリーン家の問題です」
これは叔父様が始めた悲劇だ。勝手に舞台に上がらせておいて、脚本も渡されていないのに、なぜ私が動かないんだと責められなければならないんだ。
例えお父様が一枚噛んでいようと、私はあの人の操り人形じゃあない。
「正直なところ、今すぐにでも叔母様にすべてを突きつけて、お兄様を連れて馬で屋敷を出ていってやりたいです。それぐらい怒っています」
「だったらなぜ……」
「お兄様がそれを望んでいない。仕方がないことだと笑っていた。自分が我慢さえすればいいんだと、あなたが押し付けた理想の家族像を、今も忠実に守ろうとしているからです」
以前お祖父様が言っていた。
親は、叶えられなかった夢を子どもに背負わせようとしたり、子どもの姿に過去の誰かを重ねて見たりすると。
あの時はなんのことか分からなかったけれど、一度壊れた幸せを守ろうとした叔父様と、ジャン=クロードの死を受け入れられない叔母様のことを言っていたんだ。
しかもその後にジャンお兄様がなんと言ったか。今ではそれが腹立たしくて、悔しくて、申し訳なかった。
「お兄様が、私からお兄様と呼ばれたがっていることはご存知ですか?」
声も出せなくなった叔父様に構わず、私は言った。
「私がお兄様と呼ぶ『ジャン』は、自分だけだから。それだけが自分がジャン=クロードではない証だから。お兄様と呼ばれることは、あの人にとって救いなんです」
だから、あの人はお兄様と呼ぶのは自分だけとこだわったんだ。
だから、頻繁に公爵邸に来て、自分を自分として扱う私を構い倒していたんだ。
お兄様と呼ばれる時間だけは、ジャン=ドミニクでいることができるから。
「それに私は、叔父様のやったことは、絶対に間違ってるなんて思ってません」
叔父様は家族を守りたかっただけだ。
お兄様だって、壊れた母親を見て、自分は死んだ兄の代わりだったと知れば必ず傷つく。
二人を守るには、きっとこうするしかなかった。
しかしそれをぶち壊しにしたのは────
「なのに私が……」
吸い込んだ空気が冷たい。
のどに刺さって、ひどく痛い。
「私が生まれなければ、きっと、叔父様の望んだ通りの未来になっていた。エバーグリーン家の幸せを壊してしまった、他家の私に、口を挟む資格なんて……」
ヒビだらけで歪んでいても、ジャン=クロードの夢を見続けている叔母様は幸せそうだし、お兄様はそんな母親を守ろうと覚悟を決めている。
お兄様が自らの意思で『ジャン』であり続けた事で、ようやく繋ぎ合わせたエバーグリーン家の幸せ。余所者であり侵略者である私には、それに指一本触れる資格がないんだ。
「ミシェル、悪いのは弱く浅はかな私だ。断じて君のせいなどではない」
青ざめた顔で謝罪を口にしようとする叔父様を、首を振って拒絶する。
「この責任は、間違いなく私にもあります。だからどうにかできたらって思って、私、お兄様に言ったんです」
私は尋ねた。望みはなんですか、と。
お兄様が現状の維持を望んでいる限り、私には何もできない。
けれど。
「お兄様が望むなら私、叔父様の守りたかったものも、叔母様の幸せも、壊せます」
自分でも驚くぐらい、はっきりとした声だった。
「ジャン次第、ということかい……?」
「いいえ、叔父様の行動次第です。──お兄様は叔父様の望みを叶えようとしています。でも叔父様の、今の望みはなんですか?」
たぶんお兄様は、叔父様がこの悲劇を終わらせようとしていることに気がついていない。私が公爵邸を出た理由を、お父様と揉めただけだと思っている。
まずはそこから。もういいんだと、死んだ兄の仮面を手放そうとしないお兄様に言ってやるのが、先なのだ。
「叔父様。お兄様を、ジャン=ドミニクを、見てあげて」
そう頼んだ夜のこと。少し調子が悪いなんて、もっともらしい嘘で夕食を欠席する私の部屋を訪れる人がいた。
手には見覚えのある紙筒と黒い手帳。いつか公爵家の書庫で見つけた、エバーグリーン家の家系図と謎の手帳を持って現れたお祖父様は穏やかに言った。
「少し、話す時間をもらえんか?」
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