57.一つの長い後悔
「なんだ、明かりどころか火も入れておらんのか」
窓から差し込む月明かりしかない室内を見るなり、お祖父様はマッチを擦り、元々薪が組んである暖炉に放り込んだ。
紙を灰に変え、小枝から薪へ。大きくなっていく火をぼんやり眺めていると、それまで膝に乗っていた半透明が離れていく。のそのそと床を這うように動くを目で追えば、最終的に暖炉の前に落ち着いた。
貴様、さては私で暖をとってたな。相変わらずはっきりと姿の見えない存在に内心毒吐いていると、お祖父様が暖炉の前に座り込んだ。
「ほらミシェル、そこは冷えるだろう」
どっかりとあぐらをかき、犬か猫でも呼ぶように手招きする。大きな手に誘われた私はその膝に潜り込んだ。
薪のはぜる音。火の揺らぎ。どちらにもリラックス効果があると前世で聞いたことがあるけど、あれは嘘だったんだろうか。ちっともリラックスできない。
足の指をもぞもぞ動かしてしまうほどの居心地の悪さ。それを誤魔化したくて、傍に置かれたものに目を向けた。
「これは?」
「ああ、話をするには必要かと思ってな」
私の呟きに、お祖父様も自分が持ってきた筒状に丸められ紙と、一冊の黒い手帳を見やった。
これらは間違いなく、公爵家の書庫で見つけたものだ。
でも手帳はあと二冊あったし、ブローチの台座が入った小箱もあったはず。どうしてエバーグリーン家の家系図と、解読不可能な文字の手帳が一冊しかないんだろう。
「さてと、いったいどこから話したもんかな。まずは……そうだな、先に質問をしよう」
大きな手が躊躇いがちに紙筒を取り、きつく結ばれた紐を解いて広げるのを、ただ黙って眺める。
「これはエバーグリーン家の家系図だ。ミシェルが生まれる前に作ったものなんだが……」
やっぱりそうだったか、という言葉は飲み込む。
広げられた家系図の一点、ジャン=クロードの名前を指差しお祖父様は言った。
「この子のことは、もう知っているな?」
「はい。でもお兄様が……ジャン=ドミニクが生まれる前に……」
言葉を濁す私の頭を、お祖父様はそれ以上は言わなくていいとばかりにくしゃりと撫でて頷く。
「いつから知っていたんだ」
「ここに来ることになる少し前に。でも名前だけです。詳しいことというか、本当のことは何も知らない」
「どうやって知った?この子を知っている者はパールグレイ家にはほとんどいない上に、皆、口を噤んでいるはずだ」
「……本人が教えてくれた」
本人?、と不可解そうにお祖父様は眉を寄せた。
きっと当事者であるお兄様、ジャン=ドミニクを思い浮かべ、彼が私に言うわけがないと思っているのだろう。
私は家系図に手を伸ばし、教えてくれた本人の名前をそっとなぞり──
「ジャン=クロードが教えてくれたって言って、信じてくれますか?」
声を落とさずに言えば、深緑色の目が大きく見開かれた。
ここまではっきりとした動揺の顔は初めて見る。他人事のような感想を抱いていれば、お祖父様は「……そうか」とどこか腑に落ちた様に息を吐いたではないか。
「ただでさえお前は察しがいいのに、本人に聞いたとなれば、いくら隠しそうとしたところで無意味だったか」
「まさか信じるんですか?」
「あの子も不思議なところがある子だった。知らないはずのことを知っていたり、何もないところをじっと見ていたりな。本当によく似ている」
ミシェルには悪いがどうしても重なって見えてしまうという声は、言葉の通りひどく申し訳なさそうな、懺悔しているようだった。
「お祖父様。私、本当のことはなんにも知らないんです」
ジャン=クロードに誘導されて得た、きっかけ。
そこからお兄様のこれまでの言動、私を見た時の叔母様の様子、叔父様と話をした内容といったピースを組み合わせて、推測しているだけだ。
「昔、何があったんですか?」
知りたいことがたくさんあるけれど、むしろ多すぎてどれから聞くのが正しいのか分からない。だから私は、投げる問いは一つだけに留めた。
するとお祖父様から手帳を差し出された。
「儂としてはお前をこの件には関わらせたくなかったが、もうそうは言ってはおれんな」
問いの答えは手帳の中にあるということなのだろうか。でもここに書かれているのは、ずっと見ているとじわじわと不安感を覚える、文字とも思えない筆跡だ。
その気持ちの悪さを知っているせいで、受け取ったはいいが開く気にもならない。
どうしようと真っ黒い表紙に指を滑らせた時。ざらりと、指の腹に引っかかりを感じた。
「あ……」
表表紙の小口側、上下二箇所に丸い傷。いや、傷と間違えてしまいそうなぐらい小さくて溝の浅い彫り物が施してあった。
ひっくり返して裏表紙を撫でれば、全く同じ位置に同じ彫り物。背表紙には上下二箇所に加えて中央に一つ。
幾何学模様を円で囲う彫り物には、覚えがある。
「特別な細工……」
七つの陣を繋ぐことで、初めて発動する魔法。
物流の拠点であるこの街に集まる商船には、川を遡上できるよう、帆とマストに風を集める魔法陣が刻まれていた。
これは手帳の中身を読めなくする魔法なのだと、直感した。
「私が読んでもいいんですか?」
「いつか必要となる時がくると言って、マリエッタが遺したものだ。そのいつかは、おそらく今だろう」
顔の横に垂れた髪は、今日も今日とて好き勝手に波打っている。けれどその色は、暖炉で揺らめく火の明るさを浴びてか、金色がかって見えた。
「ありがとうございます、お祖母様」
私は魔法陣の一つを、爪で引っ掻いた。
瞬間、パンッと小さな破裂音と共に、手帳から星屑のような光が飛び散った。金色の粒子は宙を舞い、空気に溶けて消えていく。
ゆっくり手帳を開けば、もうそこに不安感はない。女性的な線の細い文字がなめらかに綴られていた。
初めて見るお祖母様の字を追っていく。
一文字も、一ページも見落とさないように。これを遺したお祖母様の気持ちを読み違えないよう。心の中で声に出して読み、噛み砕いて、飲み込んで、理解していく。
「こんな……こんなのって……」
こんなのってあんまりだ。
最後の一文字まで目を通し終えれば、どっと感情の波が押し寄せた。
怒り、悲しみ、恐怖、やるせなさ。
これがお祖母様の遺品でなければ、ふざけるなと叫び、ありったけの力を込めて暖炉に投げつけていただろう。
「……すべての元凶は、この儂だ」
「違います」
「儂が今の地位に就いてなどいなければ、あの子は死なず、イザベラも心を病まず、ジャンに重荷を背負わせることも、ミシェルを巻き込むこともなかった」
「違うっ!!」
暖炉の火が、風もないのに膨れ上がり、唸るように大きく揺れる。
「悪いのは、勝手に戦争ふっかけて来ておいて、勝手に逆恨みした東の国でしょう?!」
お祖母様の手記は、書き残す意図から始まり、次に三十年ほど前の出来事ついて書かれていた。
この国がグルナと名乗る前に、東の大国フェール帝国と大きな戦争があった。ソンブル大戦と呼ばれるそれは、白馬に乗った英雄によって休戦へと導かれたが、休戦協定締結後にも何度かいざこざが起こっていた。
最後の衝突は三十年ほど前。その一件で大きな武功を挙げたお祖父様は、この国の武力の頂点、騎士団長の地位に就いた。
しかしそれは見方を変えれば、帝国に大きな打撃を与えたということ。豊かなこの国の土地が欲しい帝国にとって、お祖父様は邪魔な存在になったということだ。
「陛下から今の地位を賜る時、かの国に狙われることは覚悟していた。だが返り討ちにできる力もあって、実際に何度かそうしてやったな、マリエッタが」
「お祖母様が」
「自分の首も取れんようでは夫を狙うなど百年早いと、簀巻きにした襲撃者を踏みつけて高笑いしておった」
それにも書いてあっただろうと手帳を指差すお祖父様の目は、完全に死んでいた。
「すると今度は連中は儂にハニートラップなんぞ仕掛けてきよってな。おかげで不貞を疑われて、縄で縛られ一晩木に吊るされたな」
「お祖母様に?」
「ああ、マリエッタに。誤解はすぐに解けたがな」
あれは夏だったが、冬だったらマズかったとしみじみ呟くお祖父様の目は、死んだ状態まま窓の向こうの冬の空を見ていた。
「まあ、お祖父様を狙うのは最もシンプルで、最も有効な一手ですからね」
頭を潰せば、指示系統は乱れ、士気も下がる。戦況は一気に有利になる。
帝国がそう思い、お祖父様を狙うのは当然とも言える。
「でも……だからって、子どもを手にかけるなんてあっていいわけない」
「その証拠はない。あの子の死は、大人が目を離した隙に森へ入り、冬眠し損ねたクマか何かに襲われた不運な事故と処理されている」
「どうやって二歳の子どもが、誰にも見られないで屋敷を抜け出して、真冬の森に入るっていうんですか」
十三年前に生まれたジャン=クロードは精霊好みの金髪だったため、取り替え子を防ぐ願掛けとして中性的な名前をつけられ、女の子の装いをさせていた。
叔父夫婦にとっては第一子。祖父母にとっても初孫で、それはそれは大事にされていた。
それこそ、少し前までの私と同じように。
そこに目をつけられたのかもしれないと、お祖母様は手記の中で語っていた。
事が起きたのは、十一年前のある冬の日。
子ども部屋で昼寝をさせていたはずのジャン=クロードが、忽然と姿を消した。
目を覚まして部屋を出たのか。使用人総出で屋敷中を隈なく探したが、見つからない。
庭に出てしまったのか。雪がちらつくなか、大声で名前を呼んでも応える声はない。
まさか精霊に……。備えていたが無駄だったのかと誰もが思い始めた頃、年老いた森番が見つけた。────もうすっかり冷たくなった、その子を。
お祖母様曰く、そこからは真綿で首を絞められていくようだったそうだ。
ジャン=クロードは、明らかに何者かに害された状態だった。
そのため、以前からのこともあってすぐに帝国の犯行と推測された。しかもそれを示す証拠は、何もどうやっても見つからなかった。
そんな状態で帝国に文句を言っても、言いがかりだと突っぱねられ、最悪の場合は再び戦争になる。国王陛下や重役との話し合いの末、むしろそれが帝国の狙いなのだろう、乗るわけにはいかないと結論が出された。
子ども一人の仇討ちと、それ以外の全国民の命。天秤の針がどちらに傾くかなんて、量るまでもない。
自分が騎士団長になったことがきっかけで孫を奪われたお祖父様は、皮肉にも、国民の命を守る騎士団長として事故と処理することを決定したのである。
エバーグリーン家や関係の深い人達は、悔しいがそれを受け入れた。
仇討ちを実行したところで、死者は蘇らない。だったら丁重に葬い、同じことが二度と起こらないようにしようと、前を向き始めていた。
しかしそんななかで、イザベラ叔母様だけは違った。
ただでさえ不安定になりやすい妊娠中に我が子を喪い、葬儀に参加することもできないほどに弱っていった。そしてその影響か、予定よりもずいぶんと早く次男を産み、生まれたばかりのその子を『ジャン』と呼んだ。
お祖母様は同じ子どもを持つ母親として、我が子を喪った痛みが理解できたそうだ。だからステファン叔父様が次男にジャン=ドミニクと名付け、ジャン=クロードの痕跡を隠すことを決めても、強く止めることはできなかった。
いつか必ず報いを受けることになる。隠し通すことはできないと分かっていたが、快復し始めた義理の娘から『ジャン』を奪うことはできなかった。
「みんな、自分の守りたいもののために、最善を選んだはずなのに……」
お祖父様はこの国の人々を守るために、攻め入ってきた帝国に剣を向けた。
お祖母様と叔父様は、叔母様が壊れてしまわぬよう苦渋の決断を下した。
ジャンお兄様は、死んだ兄の夢を見続ける母親のために自分を殺し、兄に似た従妹を巻き込まないためにエバーグリーン邸から遠ざけた。
そして私は、何ものにも代えがたい大切なあの場所を守るため、あえて離れることを決めてここへやってきた。
「どうしてこんなにも、身動きができなくなってしまったんでしょう」
「すまんな」
唐突に落とされた謝罪に、お祖母様の文字をなぞる指が止まる。
「誰も彼も守ることにこだわりすぎて、逆に囚われてしまった。特に歳をとるとな、守りたいものも守らなければならんものも増えすぎて、そう簡単には動けんようになる」
これ以上進んでも行き止まりだと分かっているけど、戻ることは許されない。背負った重たい荷物を下すことも許されない。
そういうお祖父様の声にはかすかに疲れが滲んでいる。
────ああ、そうか。
耳の奥でまた一つ、宙ぶらりんだった欠片が収まるべき場所にぴたりと収まる音がした。
「だから、私なんですね」
手帳を閉じ、囲いのように大きな膝から降りて向かい合う。
背中で感じる火の熱さ。きっちりと積み上げられた薪が崩れる音。どちらも遠くに感じながら、私はその目を見据えた。
「お祖父様。私をここへ連れてきた理由を教えてください」
私とお父様に、一度距離を置いてゆっくり考える時間を与えるため。その理由に嘘はない。
そして叔母様と会わせてジャン=クロードの件を終わらせようとしているのは、叔父様であって、お祖父様は関わらせたくないとついさっき言った。
お祖父様にはお祖父様の思惑がある。
「身軽な私なら、お祖父様の代わりに動くことができます。どんな結果を望んで、私をこの件に関わらせたんですか?」
ちょうどその時、固く閉ざされていた扉をすり抜け、大きめの半透明改めジャン=クロードが私の横に降り立った。さらにそれを追うように毛玉も扉をすり抜け、私にしか聞こえない声をあげながら駆け寄ってくる。
無言で何かを訴えるように揺れる従兄と、ピィピィと報告してくれる友人にこくりと頷いた。
「お兄様と叔父様の方は、話がついたみたいですよ」
「なぜそんなことが……?」
「ジャン=クロードは知らないはずのこと知っていたんでしょう?たぶん彼にも、自分の目や耳の代わりになってくれる子がいたんじゃあなんですかね」
ここ数日、毛玉にはジャンお兄様のそばにいるように頼んでいた。
もちろん情報収集のためでもあったけど、毛玉は幸運を運ぶとされる魔法生物ゴッサマー。その性質を活かして、あの人に少しでも幸せが舞い込むようにと願ってのことだ。
そしてジャン=クロードには、彼が何よりも案じている弟がどんな望みを口に出すか。きちんと自分の耳で聞いて、自分と弟の望みが一致したら改めて私のところに来るように言ってあった。
毛玉がお兄様と叔父様がこちらへ向かっていると言い、ジャン=クロードが私のところへ来たということは……。
「叔父様はお兄様に謝って、今の望みを言った。お兄様も終わりにすることを望んだ。あとは、お祖父様だけです」
これはエバーグリーン家の問題。私も決して無関係ではないけれど、やっぱり余所者な私の一存で動いていいことではない。
「決めてください。続けるか、終わりにするか。終わりにするならどんな結末か。私はそれに従います」
責任を負いたくない私の卑怯な手かもしれない。
でも彼らの意思を蔑ろにするということは、これまでの時間を全否定すること。お前がやってきたことは全部無駄だったんだと高く笑い、後ろからナイフでぶすりとやるようなものだろう。
そういうことはしたくない。だから私はそれぞれに望みは何かと問うたのだ。
「ミシェル」
「はい」
「お前はまさに、パールグレイとエバーグリーンの血の流れる子だな」
「そりゃあ私はお父様とお母様の子ですから」
またそうやって話を逸らす。エバーグリーンのお家芸ですねとこれ見よがしに肩をすくめる私に、お祖父様は苦笑した。
しかしすぐに、目を伏せる。大きくて、硬くて、しわの刻まれた手がきつく握り締められる。
「あの子の墓は、マリエッタや先祖の墓から少し離れた場所にある」
ジャン=クロード・エバーグリーンの名と生没年の彫られた墓標。これ以上に見つかって誤魔化しようのないものはない。
その存在を徹底的に隠すのなら、場所を離すのは当然の選択だろう。けれど。
「……寂しいですね。ひとりぼっちなんて」
「ああ。だからせめて、あの子をマリエッタの隣で眠らせてやりたい。あの子を……ジャン=クロードをこれ以上、ひとりにさせたくないのだ」
そっと横を見るが、当の本人はやっぱり半透明で無言。ただ、訴えるような揺れはピタリと止まっていた。
お祖父様に視線を戻した私は「わかりました」と静かに告げ、立ち上がった。
クローゼットを開き、誰の目にもつかないようにカバンの奥底に隠していたそれを手に取る。
暖炉の火に照らされた小さなビン。中の液体が淡い金色に輝いている。
「叔母様には、夢から覚めてもらいましょう」
チェスで後退が許されないのは、六種の駒の中で最弱のポーンだけ。
だから慎重に動かさなければならないし、他の駒に守らせることも必要だ。
八つもあるし価値も低いのだから犠牲にしていいだろうとも思う。しかしポーンには、ポーンにのみ許された技がある。
ポーンは進み続ければ、六種の駒の中で最強のクイーンにすら成れるのだ。
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