45.投了前に再配置
二日なんてあっという間で、私はあと三十分もしないうちにパールグレイ公爵家の屋敷を出る。そのための荷物が馬車に積み終わるのを待つ間、毛玉を連れて温室を訪れた。
温室の草花の世話もできる範囲のことは昨日済ませたし、その後のことはニナにお願いして、庭師達も一緒に預かると言ってくれた。
心配だったお姉様も、あの後にお母様と話をしたらしく納得してくれた。
それでも寂しいらしく、今朝なんて起きたらお姉様が横で寝ていてびっくり仰天。夜中に忍び込んでいたらしい。しれっと「お母様とばあやに許可をもらってるわ」なんて寝跡のついた顔で言うもんだから、つい笑って許してしまった。
それ以外にやり残したことといえば、子どもが家を出る場合にやるべきことを、ひとつだけやっていないけれど……。
「まあ、なにを言えばいいか分からないし、別にいいんだけどね」
ひとりごちて、ふと温室を見回した時。挨拶を済ませていない存在がここにもいたと気がついた。
「こんな日にかぎって来てたんだね、きみは」
気まぐれに温室に入り込んでは、花壇を荒らす不届き者を丸呑みにする細長い管理人。緑がかった茶色のヘビが、鉢植えの間からするすると出てきた。
正面にしゃがめば、鎌首をもたげて見上げてくる。襲いかかるタイミングを探っているのではなく、ただ観察してくる目だった。
「私、しばらくここを出るの。その間は別の人にここを任せるから、きみもしばらく来ない方がいいよ」
ニナはともかく、庭師に見つかったら殺されてしまう可能性もある。モグラを撃退してくれた恩があるから、私としてはそれは避けたい。
とりあえず礼儀としてそう忠告して、すぐ近くのガラス戸を開けた。
「森に戻って、冬眠の準備をしな」
言った瞬間、ヘビはするすると温室を出て、裏の森へと消えていった。そのタイミングの良さは、まるで言葉を理解できているかのようだった。
先にここに戻ってくるのは、私か、冬眠明けのヘビか。いい勝負になりそうだ、なんて、意味もないことを森を見ながら考える。
「お嬢様」
振り返らずとも誰か分かる聞き慣れた声に、私はガラス戸を閉めながら「なに」と短く答えた。
「出発の準備が整いました」
「そう。じゃあもう行かないとね」
「その前に、こちらをお渡ししておきます」
振り返りその人物……じいやへと歩みよると、茶色の紙袋を差し出された。
受け取って中を覗けば、白い紙箱とカード。その可愛げも洒落っ気もない無地のカードには見覚えがあった。
思わず無言になる。
「箱の中には、酔い止めの魔法薬などが入っております。もしもの際はお使いください」
カードを取り出し目を通す。
じいやの字で中身の詳しい説明が書いてある。けれどカードそのものは、間違いなく例のメッセージカードだった。
「……酔い止めね」
私用に手配された魔法薬といえば、社交期に髪に使われた物を思い出す。
あれを手配したのが誰だったか。思い出せば、おのずとこれが誰からの物かも分かる。
そもそもこのメッセージカードを使っている時点で、隠すつもりもなかったのだろう。
本当にあの人は言動に一貫性がない。
「そんな便利なものがあったのなら、王都の行き帰りの時も渡してほしかった。……そう伝えておいて」
誰からの物か分かっている。それでも突き返さないあたりは、私もたいがい一貫性がない。
本当に、似なくていいところばかりが似てしまったようだ。
紙袋を片腕に抱いて、じいやと温室を出る。上着のポケットに入れていた鍵で施錠をすれば、出発の準備はすべて終わりだ。
「じいや。これ」
私は使ったばかりの温室の鍵を、じいやに手渡した。
「スペアキーはニナに渡してある。でも一つしかないと不便だと思うから、じいやに預けておく」
我が家の鍵は、その多くをじいやが管理している。それでも場所によっては、そこを最も使う人が鍵を持っている。
私の温室のマスターキーは、私が持っていた。しかし、しばらくはここを離れる私が持っていても仕方がないだろう。だから預けておく。
繰り返すけど、あくまでも『預ける』だけだ。
「かしこまりました。しばしの間、お預かりいたします」
その言葉にうなずいて、私は玄関へと向かった。
肩に毛玉がいるだけで、じいやはついて来ず、すれ違う使用人もいない。
皮肉がきいてるなぁと文句を言いたくなるぐらいの雲ひとつない晴天の下。玄関前には、私が乗っていくエバーグリーン家の馬車と小型の荷馬車。それから護衛として同行してくれる騎士──以前王宮で会ったルアンさんとバッカスさんとその馬二頭が、ユーゴと一緒にいるだけだ。
私としては旅行カバン一つと、毛玉とユーゴを連れて行くだけで充分。でも荷造りを手伝った使用人達があれこれ詰め、さらにお母様とお姉様が口を挟んできた結果、荷馬車が必要な量になってしまった。
「というか、ちょっと離れてる間にさらに増えてませんか?」
「儂はずっと見ていたが、使用人達があとからコソコソ追加していたぞ」
「コソコソって……」
お祖父様の言葉に顔を引きつらせつつも、それらは私が向こうで不便なく過ごせるようにと思っての行動だと分かっている。文句を言えるわけがなかった。
そうだとしても、ため息が出てしまうのは許してほしい。
だって、ただでさえ荷ほどきが面倒だと思っていたのに、見ていない間にさらに荷物を追加されたなんて聞いたら不安でしかない。いったい何を詰め込まれたんだろう……。
「もう良いのか?」
ふいに、ポンと頭になにかが乗る。
それがお祖父様の手だと考えるのに気を取られて、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
それでも私は、はっきりと答えた。
「はい。あいさつは済ませてあります」
今日の出発に、見送りの者はいない。私自身が事前にいらないと言ったからだ。
納得はしてもお姉様は泣くだろうし、つられてお母様も泣くに決まってる。過保護で心配性で私に甘い使用人達だって、仕事を放り出して集まってきてしまうと分かっていた。
そうなっては収拾がつかなくなってしまうから、見送り不要の代わりにあいさつは事前に済ませておいたのだ。
そしてもう一つ、大勢が集まっても、そこにいるべき一人がいないという歪んだ現実を見るのが、嫌だったから。
だったら最初から誰もいない方が、誰にとってもいいだろう。
「行きましょう」
ちょっと出かけるだけのことに、大げさな見送りはいらない。護衛の二人に挨拶をしてから、私はお祖父様と馬車に乗り込んだ。
するとゆっくりと動き出し、不規則な揺れとともに屋敷を離れ、門を通り抜ける。
それからしばらくして、初めてちらりと後ろを見た。公爵家の城のような大きな屋敷は、もう見えなくなっていた。
馬車は進み続ける。途中でじいやから渡された酔い止めを飲んだので、私の酔い覚まし休憩は必要なく、王都に行った時よりもスムーズ。いっそあっけないないほどだ。
そして陽が傾き始めた頃、パールグレイ領で最も栄えているという街で馬車は止まった。
「夜の移動は危険だ。ここで一泊して、屋敷には明日の昼ごろ着くようにするぞ」
そう言うお祖父様に続いて馬車を降り、正面を見上げる。
二階建ての、品のいい建物だ。壁には汚れもひび割れもないし、扉や窓の格子には植物が彫刻されている。小さいが貴族屋敷と雰囲気が似ていた。
泊まると言うことは宿なんだろう。外泊なんて始めてだなと思いながら視線を下ろし、ぶら下がった看板を見た瞬間、「えっ」と声が漏れた。
看板には宿屋の文字の他に、もう一つ。厳しい紋章が彫刻されている。
「うちの紋章……?」
宿屋の看板にどうしてうちの紋章が?ここがパールグレイ領だから?
首を傾げて考えても答えは見つからない。お祖父様に質問しようかと思ったけど、お祖父様は出迎えの宿屋従業員らしき人と話していた。
まあ、聞く時間はいくらでもあるか。
「ミシェル。部屋の手配は済ませてある。少し休んでから食事にしよう」
「はーい」
お祖父様を追う形で宿屋に入り、カウンターで鍵を受け取る。そのまま従業員の案内で二階の部屋へと行くのは、前世のホテルや旅館と同じで少し懐かしい気分になった。
私に割り当てられたのは、角の一人部屋だった。十歳といえど貴族令嬢。これが普通の待遇らしい。
「やっぱ普通の宿だよね。なんでうちの紋章があるんだろう?」
「ピッ、プーピー」
「あ、うん。そうだね、先に着替えないと」
夕食は宿ではなく、外のお店で取るとお祖父様にさっき言われた。
そうなると今の私の服装は、貴族令嬢感丸出しで悪目立ちしてしまうらしい。もう少し簡素な服の方がいいと、着替えを勧められた。
「郷に入っては郷に従えだね」
モブキャラたる者、背景に溶け込むべし。むしろ背景になるべし。
私は宿の従業員が運んでくれたカバンから、最もシンプルなワンピースを引っ張り出してちゃちゃっと着替える。ついでに長い髪も目立ってしまうので三つ編みでまとめておこう。そうすれば一般庶民は無理でも、商家のお嬢さんぐらいには見えるはずだ。
それからしばらく毛玉と戯れたり、窓から街の様子を眺めたりしていると、お祖父様が呼びに来た。
「なんだ、ひとりで着替えられたのか」
私の姿を見るなり、お祖父様はそう言った。
後ろにいるルアンさんとバッカスさんも、意外そうな顔をしている。
「当たり前じゃあないですか。私はもう十歳ですよ」
「だがひとりで着替えたことなんぞ、一度もないだろう。その髪も」
「それは、まあ……」
貴族は性別年齢関係なく、身の回りの世話は使用人に任せる。
ましてや私は、元病弱ひきこもり令嬢。身の回りのすべてのことは、私専属であるニナを中心とした使用人達に任せきり。着替えやヘアアレンジなんてされるがままだった。
「今までは周りがやらせてくれなかっただけで、私、自分のことは自分でできるんですよ」
なんてたって前世の記憶がある。着替えどころか、料理も洗濯もできてしまうのだ。
そんな裏事情は隠しつつ、服と髪をどうだと見せつけて自慢した。
するとお祖父様は「そうかそうか」と満足そうにうなずく。
「侍女は連れていかんと豪語するだけあったわけだ。どれ、そういうことならさっそく上着を着て、どこかの店で夕飯にしよう」
「宿で食事はできないんですか?」
「いや、手配をすればできるが……外は嫌だったか?」
「ううん。一回でいいから、そういうことしてみたかったんです」
「ならば一回とは言わず、朝も外で食べるとしよう」
ベッドの上に脱ぎ捨ててあった上着を羽織り、三人に連れられ宿を出る。
街はすっかり夕日色に染まり、東の空はすでに夜の色をしていた。
建物には明かりがともり、すれ違うのは一仕事終えた風の顔で家路を急ぐ人々。中には私と同い年ぐらいの子ども達もいて、楽しそうに笑いながら駆けていく。
夏に王都の街並みを馬車から見たけれど、あそことは賑わいの質が違う。ここは一般庶民だった前世の記憶がある私には、とても親しみやすい空気感だ。
物珍しさと懐かしさを同時に感じながら、はぐれないようお祖父様にぴったりくっついて歩く。そうして着いたのは、これまた一際賑やかな店だった。
「団長、さすがにここは……」
店を見て真っ先に口を開いたのは、ルアンさんだった。
「なんだルアン。まさかお前、儂の店選びに不満か?」
「いえ、自分ではなく、その……」
ルアンさんの視線が、私へと向く。
するとその様子にお祖父様がニヤリと笑い、
「ミシェル。この店は嫌か?」
と言いながら私を抱き上げ、窓越しに店内の様子を見せてくれた。
目に映る光景を一言で表現するならば、どんちゃん騒ぎ。まだ夕方にもかかわらず、すでに顔の赤いおじさん達が飲めや歌えやと笑い合っていた。
「みんな楽しそうですね。あ!見てお祖父様、あのテーブルの料理すっごくおいしそうです!」
「おおっ、そうだな!ならばここで決まりだな!」
お祖父様は私を地面に下ろすと、ゲラゲラ笑いながら店へと入っていった。
残された私の横では、ルアンさんが苦い顔をしている。説明を求めてバッカスさんを見上げると、彼は気まずそうに金髪の頭をかいて言った。
「ここは大衆酒場。要するに酒の出る庶民向けの店っすね」
「庶民向け……。貴族は入っちゃあダメなんですか?」
「禁止されているわけではありませんけど、普通の貴族は入らないでしょうね。庶民向けなんで」
ルアンさんは私に目線を合わせるよう、しゃがみながら「本当にここで大丈夫ですか?」と確認してくる。
やけに庶民向けと強調されて、ようやく合点がいった。
「ああっ、気位の高い貴族は『こんなところで食事なんて!』と言って嫌がるってことですか」
ぽんと手を叩けば、騎士コンビはうなずいた。
「私は料理がおいしければどこだっていいです。他のお店を探すのも面倒ですし」
「うわぁ〜この豪快さは完全に……」
「団長の血縁者だな」
その時、野太い声が響いた。
「おーいお前たち、さっさと入ってこんかー!」
何をしている!、と店内から私達を呼ぶお祖父様の手には、すでに酒瓶が握られていた。
何してるんだはこっちのセリフである。
「お祖父様って、お酒は強いんでしょうか……」
「騎士団の宴会で、毎回新人達を潰すぐらいには強いっすね」
「ですがそのあとに、決まってご自身も潰れていますね。宿舎に運ぶのは男四人がかりです」
「今すぐ没収してください!」
騎士二人と十歳女児に、あの殴ってもびくともしなさそうな立派な体躯の酔っ払いを運ぶのは不可能だ。
ゴーの指示を出せばバッカスさんが突撃していく。それに続いて私も店に踏み込めば、ルアンさんもため息をつきながら続く。
私の家出第一夜は、騒がしくなりそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます