5.父と娘
お父様はいつも通り執務机についているけれど、その表情はいつも見るものとは違って見えた。少し強ばっていて、眉間のしわはいつもより一本多い。しかし不思議と、緊張や恐怖、居心地の悪さは感じなかった。
座りなさいと固い声で言われたので、指し示された一人掛けソファーに大人しく座る。
さて、どうしたものか。さっき話を中断させたのは私だけど、こうやって呼びつけられたということはお父様が話し始めるのを待っていた方がいいのか?
「……ミシェル」
「はい」
案の定、先にお父様が口を開いた。
「外へ出るという件だが、少し考えた結果、許可しようと思う」
「えっ?!」
「ただし条件がある」
「えー……」
文句あるのかという目で見られたので、口はつぐんで、でも床に付かない足をぷらぷらさせることで不満をアピールする。
それにしても、十年間ひきこもりをやらせていたくせに、ずいぶんとあっさり許可するんだな。
もしかして私が出たいと言えばいつでも許可してくれたのか?……いや、それならあんなにもしつこく「出てはいけない」と言う必要はないだろう。
「条件とはなんですか?」
「外へ出る時は、最低でも一人は付き添いをつける。範囲は庭だけで、敷地の外には出ない。それと、裏の森には決して入らない。この三つが守れるのであれば、自由にするといい」
え、それだけ?十年越しのお庭デビューなら、もっとガチガチに制限されると思ったのに。
一人で出るなと言うなら、私の専属侍女であるニナに付き添ってもらえばいいし、敷地を出るつもりは最初からない。裏庭から直接入れる森は、毎年この春頃に蜂が巣を作ると庭師さんたちから聞いていて、入るどころか近づくつもりはなかった。
あまりにもゆるゆるで条件とは思えない条件に、ぽかんとしてしまった。
「それを守れば、いいんですか?」
「ああ」
「たった三つ?それだけでいいの?本当に?」
「嘘を言ってどうする。守れるのか?」
「その程度、守れるに決まってるじゃあないですか。お父様の方こそ、あとから条件を追加したり、やっぱり出るなって言うのはなしですよ?あっ、せっかくだから誓約書作りましょ、誓約書!」
ソファーから飛び降りて、執務机の上に置いてある白紙を二枚とペンを拝借して誓約書の文面を書く。
一枚は、お父様の出した条件を守るという私用の誓約書。もう一枚は、条件を追加しないというお父様用の誓約書。
二枚目の方をお父様に差し出せば、お父様は珍しく目を真ん丸にした。
「はい、一番下に署名してください」
「なにもここまで……まあ、いいか」
「口約束は不安ですから。じゃあこれは私が持っておくから、こっちの私の署名があるのはお父様が持っていてくださいね」
素早くお父様の署名付き誓約書を奪取して、私の署名付き誓約書を執務机に叩きつけた。
これにて契約成立。もしも後になってお父様が文句を言ってきたら、この誓約書を無駄に整った顔面に叩きつけて黙らせてやろう。
だがお庭デビューができるからといって、私の反抗期は終わらない。
これはあくまでも序盤戦。本番はこれからなのだ。
「お父様。庭に出る許可に関しては感謝していますが、私からもお聞きしたいことがあります」
ソファーに戻ってそう言えば、お父様は「言ってみなさい」と頷いた。
「お姉様の婚約の件ですが、私が寝ている間に王家にお返事は出したんですか?」
「…………いや、まだだ」
たっぷりと間を取ってから聞こえたため息混じりの返答。その表情を確認すると、明らかにどうしたものかという顔をしていた。
私もため息が出た。でもこれは安堵のため息で、眠っている三日の間に婚約が成立してしまっていたらどうしようと不安だったのだ。
王子と公爵令嬢の婚約なんて、それこそどちらかが死ぬか罪を犯すかしないと解消にはならない。社交界から隔離されて育った十歳の私では手も足も出ず、『第二王子の婚約者』という悪役令嬢のスペックを身につけたお姉様を見守るしかできないだろう。
でも相変わらずソフィアお姉様は、ただの名門公爵家の令嬢らしい。
このままうまいこと、婚約の話はうやむやになって消えてくれないかなぁ……。
「お前は、婚約に反対しているようだな」
「あー……まあ、そうですね」
直接反対意見を言った覚えはないけれど、たぶん三日の間にお姉様が「ミシェルが寂しいって言ってました」とかなんとか言ったのだろう。
嘘でも賛成はしたくないので、頷いた。
「なぜ反対した?お前も、ソフィアがエリック殿下を慕っているのは知っているだろう」
「はい」
「ならばそれが叶うことを、なぜ喜んでやらない」
「この婚約の先に、お姉様の幸せはないからです」
婚約話をなしにしたいあまりちょっと食い気味に、しかも高圧的に言ってしまった。
いけない、いけない。急いては事を仕損じるという言葉があるんだぞ、落ち着け私。お父様の視線が鋭くなった気もするが、気づいていないフリをしておこう。でも目を合わすのは怖いから、視線は窓の外へと向ける。
「お姉様は、感情が極端なんです。特に愛情に関しては、好きな相手のちょっとした一言で行動や考えを変えてしまうぐらい。きっと周りはそれを愛情深いとか柔軟とかって言うんでしょうけど、愛情を向けられる側からすると、とても重いんですよ」
そう、お姉様の愛は重いのだ。
妹の私のそばに四六時中いたがったり、寂しいと呟いただけでそれまで恋しくて仕方がなかった初恋相手との婚約をなしにすると言い出すぐらいに、重い。
そしてそれは乙女ゲーム内のソフィアも同じで、特にエリックルートではそれが顕著だった。
ソフィアは主人公だけではなく、自分の婚約者エリックに近づく全ての女性を嫌っていて、モブ系妹ミシェルにですら「あまりエリック様には近づかないでちょうだい」とチクリと釘をさしていたのだ。
そんなソフィアの愛情を知ってか知らずか、エリックはゲーム内で、ソフィアは周りが勝手に決めた婚約者で愛情はないと言っていた。――――救いようがない。
「お父様とお母様のように、出会いは政略的でも、本当に愛し合っての結婚であれば私も反対はしません。でもお姉様たちはそうじゃあない。例え一国の王子でも、好きでもない相手からの重たい愛情には耐えられないでしょう。となれば、いずれ関係は破綻する」
だから喜べません、と改めてはっきりと反対宣言をする。するとシーンと、静かになった。柱時計の振り子が揺れる音だけが聞こえる。
あれ?なにこの空気?なんでお父様はなにも言わないの?
視線をお父様に戻すと、あごに手を当てて何かを考え込んでいた。
「……エリック殿下が婚約に消極的な件を、なぜお前が知っている?」
あ、やっべ。私は外の世界を知らない正真正銘のひきこもりだ。当然エリック王子に会ったことはないし、婚約についてどう思っているか知っているはずがない。
エリック王子が婚約に消極的という情報は、乙女ゲームの知識だ。
「それは…………私にとってこの屋敷が世界の全てでしたから、狭い世界で起きた事や交わした会話は、全部私の耳に入ってくるんですよ」
実際私は使用人たちと仲が良くておしゃべりをすることが多かったから、社交界は知らなくても、使用人たちのする噂話なんかには詳しかった。
たまにお父様が国の役人らしき人をうちに招いて話し合いをしていたから、その場で給仕をしていた使用人から又聞きしたということにしておこう。
「……つまりはミシェル、お前はエリック殿下の気持ちを考え、婚約に反対しているのか」
「えっ、違いますけど」
なんということだ。
お父様は全てを理解したような顔をしているけれど、どうやら私の考えはまったく伝わっていなかったらしい。
「私は、第二王子は、お姉様の愛情を受け止められる器ではない。お姉様には王子なんかよりもっと相応しい人がいると言っているんです」
「……」
「一度も会ったことがない赤の他人の気持ちなんて、知ったこっちゃないですよ」
乙女ゲームのエリックルートのシナリオを、現実的に考えてほしい。
婚約者のいる身分の男が、他の女にうつつを抜かすなど言語道断ではないだろうか。それが一国の王子だなんて、嘆かわしいったらありゃしない。本当に救いようがないくそ野郎だ。
そりゃあ確かに嫉妬して主人公を攻撃するのは悪いことだ。でももとを正せばエリックがいつまでたっても腹を決めて婚約者であるソフィアと向き合わず、挙げ句ぽっと出の主人公と浮気をするからいけないと思う。
上流階級で政略結婚なんて当たり前の事。王族ならなおさら政治が絡む。
エリックが王子という自分の立場を理解していれば、ソフィアだって悪役令嬢にはならずに済んだだろう。それでも主人公が好きで諦められないなら、男としてソフィアとの関係にきちんとケリをつけてからにしろ。
前世ならフィクションだからと深く考えることはなかったけれど、今はそれが現実になるかもしれない。しかも自分の家族が絡んでいるのだから、相手が王族だろうと神だろうと私は文句を言う。
私はお姉様が好きだ。
優しくて、賢くて、美少女で、好きなものには全身で好き好きオーラを発する一途で可愛らしいお姉様が好きだ。
そんなお姉様の人生を狂わせる男の気持ちなんて、豚のエサにでもしておけって感じである。ああ、それだと豚に失礼だな。細切れにして残飯と混ぜてから野菜の堆肥にするぐらいが妥当か。
「……お前という子は……王族のことをなんと……」
はあ、とそれはそれは深いため息をついて、お父様はあごに当てていた手を額に当てて天井を仰いだ。それは気絶する前に見た、お姉様の舌噛んで死にます宣言の時とまったく同じ姿だった。
「育て方を間違えた」という呟きが聞こえた気がしたが、寝込んだ実の娘に男であればよかったなんて言った父親が、教育うんぬんを語ってほしくない。言っておくが私は、その件について許すつもりはないのだ。あの時ミシェルの幼心は傷ついたのだ。
……それはさておき。なんだろうな、庭に出る権利もゲットして、お姉様の婚約について意思表明もできたはずなのに、なんだかモヤモヤする。じゃあこれにて話し合いはおしまいとは言えない感じだ。
「もしかしてお父様は、私が外に出るようになれば、お姉様に『結婚後もミシェルには会える』と言って丸め込むつもりでしたか?」
思ったままを、口に出す。
でもそれは間違ってはいないけど、正解ではないと、私のなかの『何か』が教えてくれた。
「ああ、違いますね。私がお姉様に『結婚しても会えるんですね、じゃあ寂しくないですね』と言って婚約に賛成すると思った。私が賛成すればお姉様も婚約を受け入れる。でも予想が外れて私を味方にできなかったから、そうやって困っているんですね」
「ミシェルッ!」
「ふえっ?!」
突然お父様が大声を出すもんだから、驚いてソファーから飛び上がってしまった。
何事かと思っているうちに、お父様は私の側まで来て、しゃがんで私を見上げてくる。髪色ぐらいしか共通点のないその人の顔は、見たことがないぐらい青ざめていた。
「なぜ……」
「え?」
「なぜ、そう思った?根拠は?ここへ来る前に誰かから何か言われたのか?」
「え、え?」
「答えなさい」
「な、なんとなくです。考えるお父様を見ていたら、なんとなく、そうじゃあないかなって思って……」
ここに来る前は自分の部屋でニナと一緒で、来る時もじいやと一緒だったけれど、二人ともお父様の考えのついては何も言っていなかった。
本当に、ぼんやりと思ったことを言ってみただけだ。誰かにそう言われたわけではない。
あ、もしかして、あまりにもとんちんかんな事を言ってしまった? 娘の思考回路がバカすぎて青ざめてるのか?
でもお父様は国の頭脳って評される切れ者だ。そんな人の考えを読み解くなんて、例え前世の記憶があって精神年齢は十歳以上でも無理なことだ。バカで申し訳ないと思う一方で開き直っていると、膝の上に置いていた手を握られた。
空気が、変わった。
「お父様?」
「ミシェル。屋敷に閉じ込めておくことが最善ではないことは、私も分かっていた。しかしこうするしかなかったことを、許してくれ」
「は……?」
「ああいや、許さなくていい。お前には私を恨む資格がある。それだけの事をした。だが、どうか……」
「あ……ま、て……」
「お前を愛していることを、幸せを願っていることを、覚えておいてくれ」
「……っ」
ちょっと待ってよ。なんで、今そんなことを言うの?今それを言う流れだった?絶対に違うでしょ。
ああ、頭が痛い。ぎゅうっと見えない手に鷲掴みにされたように胸が痛い。大きな冷たい手に包まれた手を握りしめれば、柔らかい手のひらに爪が突き刺さって痛い。
全身を痛みとなって駆け巡るそれは、ただの十歳の女の子の感情。この人に愛されることを諦めていた、
「おとう、さま……」
毎日鏡を見るたびに、そこに映る自分の顔が家族の誰にも似ていないのが嫌で。特に誰とも違うこの緑色の瞳が嫌いで。
好き勝手にうねる髪も、無駄と分かっていても引っ張って真っ直ぐにしてみて、指を離せばすぐに元通り。お姉様とお母様はふわふわで可愛いと言ってくれても、こればかりは好きになれなかった。
容姿が違うのも、魔法が使えないのも、身体が弱いのも。全部、全部嫌だった。
あの朦朧とした意識のなかで聞いた言葉の通り、せめて男であれば愛されたのかもしれないと、何度も考えた。それなのに、どうして……。
ぷつんと、張り詰めていた糸が千切れた。
「……ふっ、ぇ、いまさら……」
「ああ、いまさらだな」
勝手に目から溢れ出る涙を拭おうと伸びてきた手を、叩き落とす。
響いたバチンという音は、「触らないで」と叫ぶ子どもの声以上にはっきりとした拒絶の音だと、頭のすみで他人事のように思った。
「男の子だったら、良かったって……言ったくせに……!」
「それは……」
「言い訳しないで!言ったことは変わらない!」
そう、変わらない。あの時の記憶は消えない。
「目が合うと、顔しかめるくせに!お姉様は褒めても、わたしには声もかけなかったくせに!わたしが書庫にいると、仕事で使いたい本があっても自分は近づかないで、じいやに取りに行かせてたくせに!」
「……気づいていたのか」
「わたしだって気づきたくなんてなかった!気づかれたくなかったなら、ちゃんと隠してよ!」
自分でも驚くぐらい、涙と言葉がどんどんと溢れてくる。
今まで溜め込んでいた
たまに渡される甘いお菓子や本、身に付ける出番のないドレスや髪飾り。外へ出られない代わりの温室。そんな物、本当は要らなかった。
容姿が違っても、魔法が使えなくても、身体が弱くても、女でも、それでもいいんだと認めてほしかった。それだけで良かった。だから今のままでも愛してくれるお母様とお姉様にべったりで、そうではないお父様のことを避けたのだ。
「……ウッ、ずっとそうだったのに、いまさらそんなこといって……しんじられるわけないっ、じゃ、ないですかぁ……!」
愛されていたのか、という安心と嬉しさ。
じゃあ今までの対応は何だったんだ、都合のいい嘘をつくな、という怒りと哀しみ。
いろいろな思いがぐちゃぐちゃに混じりあって、もう自分でもよく分からなくて。記憶にある限りでは生まれて初めて、声をあげて泣いた。
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