48%の技巧と48%の好奇心と1%ずつの可能性を秘めた女達

 こんにちは、石井です。太陽が淡く輝き、散歩日和な陽気の中、私と長谷川は室内で向かい合っていました。いつもの如く長谷川の家で過ごしているところです。彼女の部屋は広いので、勉強机の他に、部屋の真ん中を陣取るようにテーブルが置いてあります。私が来るときはたまに端に寄せられていますが。前に「早くエッチしたいから勉強するような空気になることを避けてる?」と訊いてブン殴られました。

 だけど今日は中間考査も近いということでわりと真面目に勉強をしています。意外かもしれませんが、私はこう見えて勉強はそこそこできます。さすがに学年一位とかは取れませんけど。本当に中途半端で、クラスじゃ十位以内とか、そんな感じです。帰宅部で部活に割く時間が無いんだからもっと頑張れって感じですよね。

 ちなみに、長谷川は……うん……正直、一緒に勉強してても私が教えることの方が圧倒的に多いです。いいんです、長谷川は部活頑張ってるから。運動が出来てさらに私よりも勉強が出来るって、マジで自分の誇れるポイントが身長くらいしかなくなっちゃうので、むしろ有難いくらいです。

 彼女は今もシャーペンのノック部分で頭をクリクリと掻いて難しい顔をしています。多分、分からないところがあるんでしょう。


「どこ?」

「ここ」

「あぁ。これ、ちょっと分かりにくいよね。問題集の解説も併せて読むと分かりやすいかも」


 該当ページを開いて向かいに座っている長谷川に見えるように置くと、彼女は唸りながら目を通し始めました。私が分かる範囲で教えてあげればいいんですが、それは最終手段です。彼女にそんなつもりは無いんでしょうが、「はぁ? 何言ってんの?」という顔で見られることがかなり多いので。まるで私がその瞬間思い付いた妄言をべらべらと話し始めたみたいな顔をするんですよ。いくら彼女にそのつもりがないと分かっていても精神にダメージが入ります。


「あー……ちょっと分かったかも」

「そう? 良かった」


 ずっと止まっていた長谷川の手が久方ぶりに動き出すのを見届けると、私は解いていた問題集に視線を落とします。いや、そのように振舞いましたが、実際は違います。私は長谷川のワイシャツの隙間をじっと見てました。お前裸見てるんだからいいだろって思う人も居ると思います。でもそうじゃないんです。こういうときにちらちらと見える胸は別腹なんです。


「ねぇ石井、分かんないことがあるんだけど」

「え? 何?」

「ほとんど見えてない私の胸、見る意味ある?」

「は、はぁ~~~~!?」


 見てないとは言いません。っていうかいつもどこ見てんだよとか怒られてますし、多分長谷川ももう慣れっこだと思います。彼女は私という人間をまだ理解していないようですね……まさか今更になってそんな言葉を投げかけられると思っていなくて驚いてしまいました。


「いい? ちら見えする谷間はまた別格なの」

「見たことないくらいシリアスな表情して言うなよ」


 言うわ。ここで熱弁を振るわなきゃ私が私として生まれてきた意味がないわ。

 しかし、長谷川は私をあの目で見つめていました。そう、勉強で分からないことがあって教えてあげた時にするあの目です。


「その目やめて!? なんで!?」

「今しなかったらいつするんだよ」


 激しく心外ですが、長谷川は私と違って元々女体が好き系女子ではありませんし、理解できないのも仕方のないことなのかもしれません。というかそういうことにして自分を慰める他ありません。

 再び問題集に視線を落としてはみましたが、先ほどのような集中はもうできませんでした。十分前の私、どうやって勉強に取り組んでいたんだろうってくらい無理です。ちらりと長谷川を盗み見ると、躓いていたところが解けて満足したようで、さっきよりもリラックスした表情でノートをめくっているところでした。


「ねぇ、長谷川」

「なにー?」

「私も知りたいことがあるんだけど」

「珍しいね。でも私に聞いてもどうせ分かんないよ」

「うん、知ってたら悲しい」

「何それ、ぶっ飛ばされたいの?」


 私は傍らに置いてあったタブレットを操作して、あるページを開きます。たった今生命を脅かされかけたことを華麗にスルーして、ある質問をぶつけました。


「四十八手って知ってる?」

「ぶっ」


 テーブルに置いてあったコップをそっと避けて、そこにタブレットを置きました。先ほど開いたばかりのページを長谷川に見えるように表示させると、私は高らかに宣言します。


「どれかしたい」

「テスト全部赤点取れ」

「できれば二つくらい試してみたい」

「内容は満点なのに名前の書き忘れで0点取れ」


 何それ、赤点より過酷じゃん。実際にそんなことが起こったらショックで白髪になりそう。


「あのさ、石井」

「うん」

「テスト、いつから?」

「二五日」

「今日は何日?」

「二四日」

「じゃあ分かるよね」

「うん。早く試して勉強に戻る」

「何も分かってないじゃん!」


 長谷川は手を伸ばして私の頭を叩くと、「馬鹿なこと言ってないで手を動かせ!」と怒鳴りつけました。手より指を動かしたいお年頃なんですよ、私は。

 泣きそうな顔をしつつも、私は次の交渉の手段を考えます。そしてそれはすぐに思い付きました。何、簡単なことです。


「じゃあここまでやったら、いいでしょ」

「はぁ……って、え、正気?」


 私は問題集のテスト範囲に指定されている最後のページを開いて指差したのです。これなら長谷川も文句ないでしょう。勉強は先にする。そのあと四十八手を試す。できれば二つ以上。

 私の熱意に押されたのか、そんなの無理に決まっているだろと高を括ったのかは分かりませんが、長谷川は「まぁ……いいけど」と呟きました。テスト前日、私は基礎問題は既に問題ないレベルでこなせます。私が長谷川に提示したのは応用問題。難しいやつです。正直、普段なら解けなくても「こんなレベルで賢くなくても大丈夫」とさほど気にしないやつです。それを全部自力で終わらせると宣言したのですから、彼女の驚きも当然と言えます。


「じゃあ、これ。持ってて」

「これは、解答集?」

「うん。それ見てズルしたって言われたくないから」

「ホント……エロにかける情熱だけは本物だよね、石井って」

「それは全部解いたあとで、また聞かせてよ」

「そこだけ聞くとかっこいいけど、お前四十八手試したいだけだってこと忘れるなよ」


 そこから私と問題集の戦いが始まりました。集中していないときであれば、質問の意味すら理解できないことがある応用問題をかなりのスピードで解いていきます。私、テストの度に四十八手という餌をぶら下げてもらうのが一番効率いいかもしれない。もういっそ、これからのテスト前勉強の全教科で実施してほしい。



****



 そして一時間後、私は泣きそうな顔で手を止めていました。え、なにこれ。マジで分かんない。そもそも証明問題って何? 誰に何を証明するの? 先生に自分の賢さってこと? する意味ある?

 ふと顔を上げると、長谷川は麦茶の入ったコップを傾けてコクコクと音を立てています。麦茶コクコクじゃあないんだよ、こちとら時間刻々なんだよ。


「長谷川、何してるの?」

「石井が終わるの待ってるんだけど」

「応用問題やってないじゃん」

「私は基礎だけでいいよ。キリのいいところまで終わったし」


 正直言うと今すぐ泣き崩れたいです。要するに私が余計なこと言ったせいで、せっかく長谷川が暇を持て余しているというのに、長谷川の体じゃなくて問題集と向き合う羽目になってるんですよ。しかもさっき気付いたんですけど、私が躓いてるページ、四十八ページなんですけど。煽ってんのかコイツ。

 苛立ちと怒りを感じたところで急に勉強ができるようになるわけがありません。いまだにどうやったら解けるのか謎です。


「もういいよ、石井」

「いやもうちょっとだから。あと二秒で分かるから」

「二秒でバレる嘘つくなよ」


 長谷川は立ち上がると、不必要な力でぎゅっとシャーペンを握る私の手を取ります。え……タイムアップ的な……? 死のうかな……。


「だから、もういいって。しよ」

「え!? いいの!? しよしよ!」

「『ここまで頑張ったんだから』的なプライドとか無いのかよ」


 私はルンルンでタブレットを持って立ち上がりました。ベッドに腰を下ろすと、まるでファミレスで好きなもの注文していいぞ、パフェもいいぞと言われた幼女のように画面をスクロールしていきます。


「えーとね! どれがいいかなぁー!」

「聞けよ」


 プライド? そんなものあるわけないじゃないですか。そもそも私、長谷川とエッチしたいからあんなこと口走っただけで、別に勉強とかどうでもいいですし。そんなことよりも、長谷川の気が変わる前にエッチをした方がよっぽど利口です。

 タブレットで開いているページは図解の他に文章でも体位が詳しく書かれていて、ものによっては動き方にまで言及されています。さすがの読解力皆無の私もこれを見て失敗するようなことはないでしょう。もう私テスト内容これがいい、四十八手を全部覚えて来いって言われたら満点取れる気がする。学年一位どころか全国一位になれる気すらする。


「で、どれがいいの?」

「せっかくだから、普段絶対しないようなやつがいいな」

「あー。え、ロープ使うのとかあるじゃん」

「ロープって。まぁいくつかそれっぽいのあるね」

「スズランテープで代用すれば……いけなくもない……?」

「ムードを大鉈で叩き割るような代用やめて」


 それ絶対キシキシ鳴るし、やけに肌に食い込むしで色々辛いやつ。


「ねぇこれは? 立ち松葉だってさ」


 私はタブレットを長谷川に見せて提案しました。私が立った状態で、寝ている長谷川の両足を抱えることになります。すごくアクロバティックで、たまたまでも絶対にやらない体位なので、長谷川も新鮮な気持ちでえっちできるかと思ったんですが、返ってきたのは極めて現実的な言葉でした。


「石井、私の足持って立てるの?」

「それくらい、いや、え……どうだろう、無理なのかな」


 この体位を試すというか、図解されている通りに私は長谷川の足を持って立てるのかということが気になってきました。とりあえず試してみよ、と長谷川は制服のままでベッドに横になります。それだけで扇情的で、なんかあえて四十八手なんてしなくてもいい気持ちにすらなりましたが、ここは我慢です。私はタブレットを長谷川の腰の横に置くと、彼女の足首を掴みました。いや、ちょっと待って、これ、足だけじゃない。絵では女性の腰まで浮いてる。あ、無理かも。


「石井?」

「めちゃくちゃ頑張るからちょっと待ってて」


 そう言って前置きすると、私は全力で長谷川の体を引き上げました。彼女の「おぉ」という声が響いて、なんとか腰が浮きます。そして、彼女の脚をまたぐように立っていた私の股間と長谷川の股間がぶつかりそうになります。


「で、できた……!」

「動かせないと意味なくない? できる?」

「や、やってみ……あれ? この体位、私達じゃ無理じゃない?」

「気付くのおっそ」

「気付いてたんなら言ってよ!」


 実践に移ろうとした私は、致命的な不足物に気付きました。そう、長谷川を責め立てる棒状の何かです。両手が塞がった状態では私はそれ以上何もできません。股間から、棒的な何かなんて贅沢は言わないから、せめて腕もう一本生えてくれないかな。


「今、お菓子でも作ろうと思ってレシピの通りの材料買ってきて途中まで進めて、中盤くらいのところでいきなりミキサーとか家に無い調理器具が登場しだした時の気持ちになってる」

「セックスをお菓子作りに例えるなよ」


 虚無の気持ちになりながらも、私はめげません。長谷川の体をゆっくりと戻して、タブレットを手に取り、再び試したい体位のセレクトパートまで戻ります。


「っていうかさ、これって全部男女のそれじゃん」

「まぁ、そうだね」

「私達で実践しよう思うことに、まず無理があるんじゃない?」


 長谷川の呆れた顔が、視界の隅に見えます。それでも私は熱心にタブレットをすいすいとスクロールしていきながら言いました。


「それは違うよ、長谷川。色々見てるけど、舌で女性器を愛でる体位もちゃんとあるし」

「キモい言い方すんなよ……」

ひよどりえの逆落さかおとしとかは? ほら、これ」

「さっきよりアクロバティックじゃねーか」

「でもこれ、私は長谷川の両脚を肩に乗せるだけだからいけそうじゃない?」

「じゃあやってみよ」


 長谷川はそう言うと、ベッドの真ん中を陣取って、私の心の準備が整う前に両肘を付きました。


「え、ちょっと待っ」

「よっと」

「いっっった!」


 私は突如振ってきた長谷川の両脚に肩を粉砕されてベッドに沈みました。なんでそんな勢いで脚を振り下ろすの? なんかのプロレス技かと思ったんだけど。


「ほら、無理じゃん」

「今のは長谷川があまりにも不親切な脚の下ろし方したからでしょ!?」


 さっきの、明らかに恋人にする行為じゃなかったですからね。私が同じことするとしたら敵にしかしないですよ。敵なんていないですけど。私はベッドに沈んだままの体勢でシーツに顔を埋め、くぐもった声で抗議します。まだ肩が痛いです。なんで彼女とエッチなことしようとしてこんなことになってるんですか。私、どちらかと言うと彼女の体の開発したいんですけど。必殺技の開発は御免被りたいんですけど。

 ゆっくりと顔を上げると、長谷川は一人でタブレットを操作していました。何を見ているのかと思えば、さきほど開きっぱなしになっていた四十八手のサイトでした。てっきり、これまでのやり取りで嫌気が差して、そろそろ「普通にしようよ」と言われるかなと危惧していたのですが。


「せめてこういうのじゃない?」

「え、見せて見せて」


 長谷川が私に見せてきたのは、立ちかなえという体位です。何でとは言いませんがよく見かける体位ですね。私はこれまでの失敗を生かし、まず二人で実践してみた時のことを脳内でシミュレートしてみます。立った状態で向き合って、私が長谷川の片足を持ち上げて、もう片方の手で……。


「え……」

「どうしたの?」

「二人で出来そうでビックリしてる」

「むしろ二人で出来そうにない体位ばっかり試したがる石井にビックリしたけどね、私は」


 長谷川ったら乗り気じゃないように振舞ってるくせにかなりノリノリじゃないですか? ここで答えないと女じゃないです。私はぐっと拳を握って、ベッドの上で立ち上がりました。


「やろう! 今すぐ!」

「お、おう……」


 私のやる気に若干引いている長谷川ですが、しぶしぶといった感じで私と向かい合います。タブレットで体勢を確認すると、私の首に腕を回しました。顔が近付いて、思わず息を飲みます。長谷川、可愛いな……。これだけ接近しても尚かわいいってすごいです。長谷川なら顕微鏡で見ても可愛さを維持してる気がします。


「断言するけど、なんかまた変なこと考えてるだろ」

「変なことなんて考えてないよ。長谷川のことを双眼鏡や望遠鏡や顕微鏡で見てみたいって思っただけ」

「双眼鏡は普通に変態っぽいし望遠鏡や顕微鏡はもう意味分かんないし。私は天体やミジンコじゃないんだよ」

「そうだよね、長谷川は長谷川だもんね」

「っていうか人間だからね」


 長谷川が呆れた表情で息を吐き、それが私の首にかかります。ムード的にはわりと最悪だったと思いますが、たったそれだけのことでなんかテンションマックスになりました。めっちゃえっちしたい、っていうかこのまましよ。四十八手を試すってそういうことだよね、嫌々ながらもオッケーした時点で長谷川もそのつもりだったってことだよね。

 私がはっとした表情で、長谷川を見つめていたからでしょうか。彼女も何かを感じ取ったらしく、少し顔を赤らめてさっと視線を逸らしました。長谷川の膝の裏に手をかけて持ち上げると、体がさらに密着します。少し汗ばんだ肌に指が沈んで、私はたまらず長谷川の腰を抱き寄せました。


「あのさ、長谷川」

「……うん」


 その時でした。結論から言います、神はいませんでした。っていうか私何かしました? 強いて言うなら存在するということくらいしかしていなかった筈なんですが、一階で扉が開く音を耳にした長谷川は私のことをとんでもない勢いで突き飛ばしました。


「いった!!」

「いいから隠れて!」


 遠くから、ただいまーなんて呑気な女性の声が聞こえます。おそらくは長谷川のお母さんでしょう。話したことがないので憶測ですが。長谷川には姉妹はおらず、父と母の三人暮らしなのでほぼ間違いないです。長谷川はいまだに私を両親に会わせることを忌避しているので、これはマズいと瞬時に理解します。友達として紹介してくれればいいじゃんと思うのですが、彼女は嫌みたいです。理由は知りません、もしかしたら無いのかも。

 私はベッドの上で、ぺしゃんこになった風船みたいに体を横たえていましたが、長谷川の鬼気迫る感じに圧倒され、可及的速やかに起き上がります。っていうか、エッチの真っ最中でお互い全裸とかでもないですし、そんなに慌てる必要あります?


「お母さん、今日は残業だって言ってたのに……めっちゃ早く帰ってくるじゃん……!」

「えっと、私どうしたらいい?」

「だから隠れろって!」


 長谷川は私が乗った状態のベッドを少し手前に引き寄せます。何その火事場の馬鹿力。いきなり地が動いたような感覚に驚くと、なんと彼女はベッドに手を付いて座っていた私を蹴り転がしました。彼女に蹴り転がされる女ってどれくらいいるんでしょうね、分かりませんけど絶対レアですよ。私の体はゴロゴロと転がって、長谷川が作ったばかりのベッドと壁の隙間にすっぽりと収まってしまいました。


「石井、やっぱスリムだね」

「いったたた……」


 あのね、今の長谷川のセリフはお互いに初めて肌を見せ合った時とかに言うセリフなの。間違っても彼女を隙間に蹴り飛ばしてそこに収まったのを確認してほっとしたように言うセリフじゃないの。分かる?

 そんな言葉が湯水のごとく湧いてきましたが、私は余計な言葉を一切発さずにいました。彼女の慌て具合から、私の声がするのはマズいと判断したからに他なりません。彼女想い過ぎて泣けてきますね、私はスリムなので重いっていうか軽いなんですが。

 長谷川は私の上にばさっと掛布団をかけて、あたかも私のところまでベッドがあるような感じでカモフラージュしました。咄嗟に思い付いたにしてはかなり上等な作戦だと思います。前からこういう事態を想定して対策を講じていたとしか思えないほどの鮮やかさですが、あまり深く考えても自分を苦しめるだけな気がするのでとりあえず置いておきましょう。

 私は布団を掛けられているので何も見えませんが、物音は聞こえます。軽やかな足音と、慌てて私がそこに居たという痕跡を消そうとしている長谷川の超高速お片付けの音が。カチャカチャとかジッパーを開け閉めするジー! という音が聞こえたかと思うと、私の脚のところに何かがズボ! と突っ込まれました。あぁおそらく私の鞄ですね、これ。そして直後にドアを開ける音が聞こえます。


「なんだ、やっぱり帰ってきてたんじゃない」

「あ、あぁ。ごめん、部屋掃除してて気付かなかった」

「……あれ? 誰か来てたの?」

「な……何故?」


 長谷川がテンパりすぎておかしな口調になっています。私はふふっと笑うのを堪えて息を殺し続けました。


「だって、ほら。コップが二つあるじゃない」

「あ、あぁ、なんか汚れてたから、あとから持ってきたの」


 私はとりあえず長谷川の応援をすることにしました。頑張れ長谷川、気合で言い逃れて。今の言い訳、結構いい感じだったよ。

 おそらく、私の持ち物を片付けることに気を取られてコップのことは忘れていたのでしょう。それにしてもさすが長谷川ママ。鋭い洞察力の持ち主です。しかし、私と長谷川が戦慄するのはここからでした。


「そう? でも、一人で勉強するなら勉強机があるじゃない。わざわざ丸テーブル出して一人で勉強? コップの位置も、まるで向かいに人が居たみたいな配置だし」


 長谷川? そこにいるの、お母さんだよね? どこぞの名探偵じゃないよね?

 私が長谷川マザーの、鋭いなんてものじゃない鬼のような洞察力に震えていると、彼女は少し早口で言いました。


「机の上、汚かったから」

「綺麗じゃない」

「掃除してたんだってば」

「そう?」


 かなり苦しい言い訳でしたが、なんとか言い包めることに成功したようです。お母さんはそれ以上追及しませんでした。いや、娘の必死な様子を見て居たたまれなくなって追及の手を緩めてくれただけかもしれません。しかし、お母さんが次に発した言葉は、さらに私達を絶句させるものでした。


「掃除してたんだっけ? 手伝おっか?」

「い、いや、いいよ」

「ベッドとか一人で動かすの大変でしょ。ベッドの下ってすごい埃たまるし。ほら、そっち持って」

「いやいいって、もう終わったから。ほんとに、大丈夫」

「ホントー?」


 なんでピンポイントでベッドに注目するんですか、この人。イジワル通り越して虐待レベルなんですけど。どきまぎしている長谷川も結構面白いですが、あいにく笑っている場合ではありません。お母さん、今なにしてるんだろ……下から覗かれたら即バレするんだけど……。


「ちょ、ちょっと、分かったって。じゃあそっち持って」

「はいはい」


 は? 長谷川?

 何? もしかして、『石井を隠そう大作戦』から、『掃除してたらなんか不審者が部屋に忍び込んでた大作戦』に切り替えちゃった? いい加減泣くよ?

 こうなりゃヤケだ。私は足首に当たっていた鞄を脚に挟み、二人がベッドをずらすタイミングに合わせてそっとベッドの下に潜り込んで隠れました。ベッドが動く速さに合わせて、、体の一部がこんにちはしないようにズリズリと、そして静かに動きます。ピタッとベッドが動きを止めたのを確認すると、今後の展開を占って軽く死にたくなります。とりあえずはなんとか移動できたけど、ベッドの下を覗かない確率って何%くらいですか? ちゃんと綺麗になったかなー? って覗かれる可能性、決して低くないと思うんですが。

 私がそっと死を確信していると、長谷川は言いました。


「掃除機持ってきて」

「はいはい」


 足音が聞こえたと思ったら扉が開いて、閉まる音がするとまたすぐに足音が遠のいていきました。これは、なんとか一命を取り留めた、ということでしょうか。しかし、すぐに彼女の母が戻ってきてしまうということは、問題を先延ばしにしただけな気もします。そして私には逡巡する暇もないようです。小さく怒鳴りつけるような声が私を呼んだのです。


「石井!」

「あ、うん。何?」

「ナイス回避」

「い、いやぁそれほどでも」

「すぐ出てきて。早く」


 言われた通りのっそりとベッドの下から這い出ると、半分くらい体を出したところで、長谷川に腕を掴まれます。急かすようなその所作を訝しむ暇なんてありませんでした。そりゃそうです、あの話の流れで、彼女の母親がいきなり夕飯の支度を始めてくれるなんて、とても思えませんから。


「ど、どうすればいい?」

「こっち来て」

「いやそっちって窓だよね」

「いいから」

「いや、いいからっていうか」

「は や く」

「はい」


 長谷川は掃き出し窓をそっと開けると、鞄を抱っこした私を外に出しました。あぁ、何かで見たことがある気がすると思ったら、あれです。浮気男といいことしてたら彼氏が帰って来ちゃった、みたいなドラマやバラエティの再現VTR。彼女なんですけどね、私。

 長谷川の部屋のベランダ、めっちゃ広いですね。自分の部屋にこんな立派なベランダがあるってすごくないですか? さすがブルジョワジーです。

 すぐに長谷川のお母さんが戻ってきたようで、部屋の中からは機械は部屋を掃除している音が聞こえます。すごい音、きっと最先端の技術を駆使した、吸引力の変わらないただ一つのクリーナーなんでしょうね。

 長谷川の部屋は二階にあります。どうにかして、今のうちに一階に降りることはできないでしょうか。靴がないので、そのまま帰るのは難しいですが、今の状況だと、長谷川のお母さんが「ベランダはー? ちゃんと掃除したー?」と顔を出せば終了します。生命活動が。

 ゆっくりと下を見てみると、なんだか私の知っている二階よりも心なしか高い気がしました。きっと一階の天井が高いんでしょうね、よく分かりませんけど。とにかく、勇気でどうにかカバーできるような高さじゃなさそうです。ロープさえあればなんとかなったかもしれませんが……残念ながら、私はそんなものを常備していません。こんなことあります? 一介の女子高生が日に二度も「ロープあったら良かったな」って思うって、そんなにポピュラーなことですか? こんなことなら四十八手試すときにロープ用意しとくんでした。

 静かに絶望していると、ベランダが勢いよくガラッと開けられました。後ろに誰がいるんでしょうか。私は恐る恐る振り返ります。そこには、憔悴しきった表情の長谷川がいました。


「良かった……お母さん、買い出しに出掛けるみたいだから」

「え、ホント?」

「それをこれから確認するんだよ」


 長谷川はそう言うと、私の隣に立って、ついでに私の頭を押さえつけて外から見えないようにしました。おそらくは玄関のドアを開け閉めする音がして、しばらくしてから車のエンジンの音が聞こえてきました。

 長谷川は笑顔で誰かに手を振っています。おそらくは自分の母宛てでしょう。


「お父さんが帰ってきてから外食行く予定だったんだけど、お父さんも今日は早く帰ってこれるらしくて、慌てて買い出し行ったんだよ」


 事情を長谷川から聞いた私は安堵しました。あの地獄のような時間がやっと過ぎ去ったと確信したのです。


「長谷川、じゃあ……!」

「うん」

「さっきの続き、できるね!」

「するわけないだろ!」


 長谷川に頭を叩かれ、これからえっちできないことにがっかりします。しかし、いつもよりもショックが少ないのは、きっとさっきまでの時間と比較して「まぁあそこでお母さんに見つかるよりかはえっちできない方がよっぽどマシだな」と思えたからでしょう。



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