100%の羞恥心と100%の独占欲の狭間に立つ女
こんばんは、石井です。
私は今、長谷川の家のベッドで、寝てることになっています。何故私が狸寝入りしているのかと言うと、長谷川に腕枕してもらっているからです。おそらくは役割的に私がすべきことなんでしょうが、腕が痺れたと泣き言を言って以来、長谷川は私の腕の上に頭を置く事はなくなりました。
自分でも驚くほどヘタレだということは自覚しています。しかしですね、彼女に腕枕をしてもらうと、なんとおっぱいという特典が付いてくるんですよね、ちなみにおっぱいの得点は874682781点くらいですかね。満点をブチ抜いています。
彼女に腕枕の一つもしてやれないなんて情けない、私もっと頑張るから見捨てないで! という気持ちと、長谷川のおっぱいイエーーーーーイ!!!! という気持ちがせめぎ合い、結果後者が勝ってしまった、ということなんです。嘘です、お分かりかと思いますが、全然せめぎ合ってなんかいません。前者は後者に瞬殺されました。
とにかく、そういうワケで私は寝たフリをして何とは言いませんが顔に当たるぽよんぽよんを楽しんでいますし、このまま本当に入眠したいです。明日も学校ですが、長谷川の家族が居ないので、泊めてもらってそのまま一緒に登校する予定です。
彼女はというと、私の頭を抱きながら何やら調べものをしているようです。もしかするとネット小説でも読んでいるのかもしれません。調べものをしているにしては、タブレットをタップする音が聞こえないんですよね。腕も動かないですし。腕ね、うん、もうちょっと動いてくれていいんだよ、そうするとね、乳神様も『ゆ』って動くし。ゆ、って。
長谷川何してるんだろう。なんでもいいや。本当に眠くなってきた……。
翌朝、長谷川に起こされて、寝ぼけ眼で支度を済ませたあと、ゆっくりと朝食を摂っていました。何故かお茶漬けです。なんで? と聞いたら、お前が食べたいって言ったんだろって怒られてしまいました。私、いつも寝ぼけてワケ分かんないこと言うんですよね。でも今日はお茶漬けで良かったです。
以前、パフェなどと言ったせいで、朝から長谷川をコンビニに走らせてしまうという珍事がありました。変なこと言った私も悪いけど、長谷川は私に甘過ぎると思います。しかも、長谷川がわざわざコンビニに行ったって知ったのだって偶然だったし。
「これ、家にあったの?」
「なんで?」
「だって……またコンビニに行かせたり、してないよね……?」
「あー……そういえばそんなこともあったっけ。あの時は私も食べたいものあったし。石井は気にしすぎなんだよ。コンビニには行ってないから安心して」
長谷川と話していると、どんどんと分からなくなっていきます。彼女の言う通りなんですか? 私の考えすぎなんでしょうか。でも、逆の立場だったら、私はわざわざ朝からコンビニに走らない気がします。朝練で早朝から体を動かすことに慣れているテニス部と、ろくに身体を動かさない帰宅部を一緒にすんなって怒られそうですけど。
「……おいしいね」
「ね。たまに食べると妙に美味しく感じるんだよね」
私のは鮭です。最近の市販のお茶漬けってすごいんですね。いま焼いてきたでしょってくらい脂乗ってるんですよ。これ、どこのメーカーのものなんでしょうか。
そんなことを考えながらあっという間に朝食を平らげると、キッチンへと向かいました。おかわりするかと聞かれましたが、時間もあまりないので遠慮しました。
食器を下げてふとコンロを見ると、今さっき使いましたと言わんばかりの違和感を感じます。いや、まさかとは思いますが。さっき長谷川、コンビニ行かなかったって言ってたし。そうは思いつつも、もやもやは止まりません。このまま放置するのも身体に悪いと思い、私は彼女に問いました。
「ねぇ、今のお茶漬けさ、インスタントじゃないの?」
「……別になんだっていいでしょ。美味しくなかった?」
「いや美味しかったけど、むしろ美味し過ぎて感激したんだけど、そうじゃなくて、え、作ったの?」
「まぁ、うん」
「さっきコンビニ行ってないって言ったじゃん!」
「石井は馬鹿だなぁ、朝六時から開いてるスーパーだってあるんだよ」
「スーパー!? スーパー行ったの!? わざわざ!? しかもそこ、ここから歩いて三〇分くらいかかるお店じゃん!」
「走ったからもっと早く帰ってこれたよ」
「そういう問題じゃないじゃん!」
あの、本当に私の気にしすぎですか? 長谷川、普通の女の子より、大分尽くしてくれてません?
私がキッチンの縁に手をついて、額を押さえていると、彼女は心配そうな表情で言いました。迷惑だった? と。
迷惑なわけない〜〜〜嬉しいんだけど嬉し過ぎて心配になるっていうか長谷川ちょっと愛が重くない? って怖くなるっていうかでも長谷川が相手ならもうなんでもいっかって思ってるっていうかそんな感じ〜〜〜〜
と思うものの、そのまま伝えるとまたキモがられるので、「そんなことないよ、わざわざごめんね」と言うに留まりました。
「ごめんじゃなくてありがとうでいいじゃん。石井ってホント石井だよね」
「悪口みたいな感じで私の名前使わないでよ」
そりゃ私が食べたくてリクエストしたならありがとうって言えたよ。でも、寝ぼけて言ったことだもん、ごめんにもなるよ。
そんな言葉を飲み込みつつ、私達はいよいよ鞄を持って家を出ようとします。忘れ物は、まぁいっか。忘れ物をすれば長谷川の家に来る口実になるし。長谷川、家に家族がいるときはあまり上げたがらないんですよね、私のこと。隠れて飼ってる野良犬みたいな扱いにちょっと傷付きます。
広い玄関に辿り着くと、私が先に靴を履きます。そうして長谷川が靴を履くのを待つ少しの間、ふと壁にかけられた鏡の中の自分と目が合いました。いつも通り、眠たげな顔をしています。もう少し愛想よくできないんでしょうか、あの人。
「……?」
なんだろう、あれ。私は眉間に皺を寄せて、鏡に近付きます。
「え」
私は立ち尽くしました。なんだこれ、なんだこれ。見なかったことにして日常を再開したいけど、そんなことしたら私の日常は死ぬ。どういうことかというと、あることないこと言われて社会的に死ぬ。
「長谷川、これ」
ちょうど靴を履いて立ち上がった彼女に話しかけ、私は自分の首を指差します。
「なに?」
「なにって、キスマークだけど。気付いちゃったか」
「キスマークだけど、じゃないけど!? 私これから学校なんだけど!?」
「大丈夫、私も学校だよ」
「何が大丈夫なの!?」
なんか分かった気がする。長谷川が昨日調べてたこと。だっていま、「気付いちゃったか」って言いましたよ、この人。あわよくば、私にキスマークつけたまま普段通り生活させようとしてたんですよ。
「ま、早く行こうよ」
「で、でも……あ、そうだ。マフラーある?」
「初夏なのに?」
そうでした。首を隠さなきゃという気持ちが強過ぎて季節を忘却してしまいました。もうこうなったら、とりあえずはシャツの襟を立てて登校するしかないでしょう。いや、ホントにそれしかないのか? 誰か教えてください。
襟を立てて鏡の中の自分を見ると、明らかに不自然です。分かってはいましたが、こんなに不自然だとは思いませんでした。ネクタイするときに襟を寝かせ忘れちゃったのかなという感じしかしないです。
あ、それだ! 名付けて「ネクタイするときに襟を寝かせ忘れちゃった」作戦!
……名付けるも何もそのままですね。私は、いつも以上に眠たい顔をしていればいいのです。そして「今日の石井はやけに眠そうだな。あ、あいつ服もちゃんと着れてないじゃん」と思わせるのです。完璧か?
自分の天才さのあまり、長谷川とうっかりエッチしたくなってしまいましたが、ここはぐっとこらえましょう。そうと決まれば作戦開始です。私達は家を出ると、学校に向かいました。
「……石井、何してるの?」
「眠そうにしてる」
「元々の顔が結構眠そうだから大丈夫だよ。あんまりやると具合悪そうに見える」
「元はと言えば長谷川が……!」
「隠して過ごすの?」
「そうするしかないじゃん」
「まぁ。そうだろうね」
「なんでこんなことしたの」
「……本当に分かんないの?」
長谷川は睨み付けるように私を見ました。ようにっていうか思いっきり睨んでます。石になる石になる、石井が石になる。私は反射的に視線を背けます。そうして彼女がこんなことをやらかした理由について考えました。
……まぁ、実を言うと大体予想というか、分かっていたりするんですが。それにしても悪趣味だなぁって。私も人のこと言えないんだけど。
「……心当たりある顔だね」
「私がえっちえっちうるさいから躾の為にしたんだ……」
「自ら犬のような何かだと認めたね。……あ、あんたのクラスメートじゃない?」
「あっ」
まさかこんなところで会うとは。ほとんど関わりのない生徒であれば、どうせ私のことなんて覚えていないでしょうからまぁいいかと流せるのですが……私の斜め前を歩いており、たったいま私に気付いたっぽいクラスメートというのは、他でもない栄子さんでした。
栄子さんはヤバい。栄子さん以外なら誤摩化せる気がしてた。だけど栄子さんは無理。だって普段から私達のことを観察してるなんて豪語してた人が、ここに私がいる不自然さに気付かないわけがないです。
私はだらだらと冷や汗を流しながら、妙な着こなしのまま栄子さんに会釈しました。
「おはよー! あれー? 石井さ……………んおはよー! 長谷川さんもー!」
「お、おはよ」
栄子さんはかなり言葉に詰まって、おそらく千個くらいの言葉を飲み込んで私達に挨拶してくれました。その気遣いが逆に辛いっていうか恥ずかしいです。今の、「なんで石井さんがこっちにいるんだろう、いや、長谷川さんと一緒に学校来てるってそういうことだよね、触れたら恥ずかしがるかもしれないし、ここはスルーしてあげなくちゃ」ってことですよ。絶対そうですよ、栄子さんの目、めっちゃ泳いでますもん。
「石井さん、襟、立ってるよ」
「……?」
「もー、直してあげよっか?」
「あ、いい、大丈夫、たったいま、瞬時に意味を理解したから、大丈夫」
私は首元をさっと直す素振りを見せ、栄子さんが前を向いたのを見計らって、すぐに再び立ち上げました。
「最近暑い日が増えたよね」
「う、うん」
「長谷川さんは? やっぱり外での部活しんどい?」
「まぁね。でもこれからもっと暑くなるし、あんまりこの時期に暑いって思わないようにしてるんだよね」
「あぁー分かる。これから辛くなるの目に見えてるもんね」
五回。これが何の数字か分かりますか? 今の雑談の最中に栄子さんが私の首周辺を見た回数です。おそらく一度目はちらっと見ただけで、二度目以降が「えっ?」の視線ですね。
「あのさ、石井さん。襟、直ってないよ」
「うそ? もしかしたら形状記憶合金なのかも」
「なんで合金の服着てんだよ」
長谷川のばか、話し合わせてよ! と言いたいところですが、私だって服が合金だなんて言われたら、どんな合わせ方したらいいのか分かりません。
栄子さんの手が伸びて私の首に触れようとしたその時、長谷川が彼女の手首を掴みます。
「!」
「あ、ごめん。その……」
は、長谷川……私を、庇って……。
私は少し泣きそうになっていました。こんなことをしたけど、やっぱり、私が本当に嫌がるようなことっていうか、最低限は弁えてるっていうか、弁えてるんなら首にキスマークなんて付けるなって感じなんですけど、まぁ一度の過ちは誰にでもあるとして。私のこと、庇ってくれたんだなって確信しました。
しかし、私の『長谷川見直しちゃった、ラブラブしゅきしゅき♥』という感情はバキバキの粉々に踏みにじられることになります。
「石井さ、私につけられたキスマークを必死に隠してるから、邪魔しないであげてくれる?」
………………え?
何?
長谷川? なに?
いまなんて言ったの?
いやなんて言ったのかは聞こえたけど、ちょっと待って、嘘でしょ?
もうイヤ。よだれかけでも付けて「だうだう〜〜」って言って何も分かんなくなりたい。プラスティックの丸っこいフォークとスプーンを両手に持って「うぅ〜〜!」ってやったり、いきなり泣き出したりしたい。無理。
「……分かった」
分かったじゃないがな。栄子さん若干怯えてるじゃん……。長谷川がどんな顔をしてさっきの台詞を口にしたのか、なんとなく察せてしまいました。私のクラスメートを脅迫するのやめてよ……。
「と、とりあえずさ、私は二人のこと応援してるから。石井さんのこと取ったりしないし」
「べっ、別にそういうんじゃ……はぁー……もういい。嘘ついてもしょうがないもんね。分かった」
「長谷川さん、嫉妬深そうだもんね」
「それって失礼じゃない?」
「間違ってた?」
「否定はしないけど」
……栄子さんはどちらかというと私の友達だったと思うんですが、何故か私のことを置き去りで二人が会話をしています。あと嫉妬深いって、誰の話でしょうか。私の知らない別の長谷川さんでしょうか。
「ま、こんなに二人の関係性を理解してるのは私だけだからね」
「石井の次に気持ち悪いな、この人」
「私が一番みたいな言い方すんのやめて!」
「石井さんの次にキモいってそれよっぽどじゃん!」
「栄子さんも酷くない!?」
三人で騒ぎながら学校に向かっていると、いつの間にか教室に着きました。長谷川と別れて自分の席へと着くと、自然とため息が漏れます。
キスマークのことはバレてしまいましたが、栄子さんはまだ元々私達の関係を知っており、というか私達のことをこの学校の生徒の中で一番気に掛けていると自負するほどの女子なので、首について知られても、まぁいいかとなんとか割り切れます。
問題は長谷川のスタンスです。彼女は私を庇うと見せかけて、なんと積極的に私の首の秘密を栄子さんに暴露したのです。これは悪、あまりに凶悪です。
私は彼女が部活で頻繁に着替えをすることに配慮して、そういった痕を積極的に付けたことはありません。無茶して背中とか腕とか痣になった事くらいはありますけど……それは不可抗力ですし。
それをですよ、こんなめちゃくちゃ見えやすい、首とかいうポイントに付けてくるって、いくら私が帰宅部とはいえ、それっていけないことじゃないですか?
「今日の学校生活、不安しかないんだけど」
「普通でいいんじゃないかな。心配しなくていいよ」
「いや心配する要素しかないよ。ドント・ウォーリーを探せって感じだよ」
「まぁまぁ、きっとなんとかなるよ」
「え!? フォローしてくれないの!?」
事情を知ってる栄子さんですが、驚くことに味方はしてくれないそうです。彼女曰く、私がつきっきりで石井さんを庇ったら、クラスが離れてて石井さんと一緒に居れない長谷川さんに悪いじゃん、とのこと。
いや、もう今はそんなのどうでもいいから私の左側に常に立ってて欲しい。私の首もとに注目する不届き者が現れたら、その都度変顔して注意を引いて欲しい。
私は襟を立てるのを止めました。格好悪いっていうのもあるんですが、さっきの栄子さんとの会話で気付かされたことが原因です。指摘されたら直さないと不自然じゃないですか。それってその瞬間に発見される率がぐっと上がりますよね。
なので、今は首に手を当てて肘をついています。あくまでリラックスしてる風に装っている、ということですね。背後から声をかけられ、できる限り振り向くと、そこには椎名さんがいました。
「石井さん、首痛いの?」
「え? あ、あぁ、うん。なんで?」
「なんでって……なんか変な格好してるから。あ、寝違えちゃった?」
「そう!」
私は今月一番くらいの快活な声で返事をしました。そうして秒で『寝違えちゃった作戦』に乗り替えました。やれやれというテンションで笑っていると、椎名さんは、信じたくない発言をします。
「そうなんだ、今日体育あるのに、大変じゃん」
「……体育ってなに?」
「体育は体育じゃーん!」
あー……私、ちょっとそれ知らないですねぇ……知らないから休んでもいいですかね……。でも体育を休む原因がキスマークって完全にイカれてますよね。
私は逡巡します。そして一つの答えを導き出しました。まずは味方を作ろう、と。椎名さんは私と長谷川とのそれを知っていますし、なんだかんだ結構優しいし、大丈夫。
朝のホームルームが終わると、私は首を押さえながら椎名さんを人気のないところまで連れ出しました。廊下の端で向かい合う私達ですが、カツアゲの現場に見えていないかだけが気掛かりです。あ、もちろん、私が被害者です。
私は押さえていた首を晒して、椎名さんに見えるように首を少し逸らしました。
「実は……これ、見て欲しいんだ」
「わっ」
椎名さんは私の首をまじまじと見つめて、ニヤニヤしています。恥ずかしい。氷のように溶けてなくなりたい。そのあと水蒸気になってそこにあったことすら誰にも分からないようになりたい。
「なんとか隠したいんだけど……なんかいい方法ないかな」
「うぅん。絆創膏とか、如何にも『ここにそういうの付いてます!』ってアピールしてるみたいだしね」
「そうなんだよ。見えなくしてるだけじゃ駄目なんだよね」
「コンシーラーとかどう?」
「こんなの隠れる?」
「やってみようよ! あたし教室行って取ってくるから、トイレで待ってて!」
椎名さん、いい人過ぎる。彼女は軽やかに踵を返すと、教室まで走っていきます。ファッションに造詣の深そうな彼女が言うなら、隠せる可能性は大いにあるのでしょう。ほっとしながらトイレへと向かっていると、なんと廊下で長谷川に遭遇しました。
「元気にやってる?」
「そう見える?」
「わりと。それじゃ、こっち一、二時間目、理科だから」
「そう」
長谷川はいつもより少し妖艶な笑みを浮かべて去っていきました。その表情に何か深い意味を感じ取ってしまいそうになりますが、ぐっと堪えることにします。そ
トイレに辿り着くと、ラッキーなことに椎名さんと二人きりになれました。早く処置をして欲しいです、先生。私は化粧ポーチを漁る椎名さんを、切羽詰まった表情で見つめます。
「じゃあ首出して」
「はい」
「ホント背が高いよね」
「あー。うん」
否定するようなことでもないので、私はそのままぼんやりした返事をしました。っていうか、待って、めっちゃくすぐったい。変な感じする。
「椎名さん、あの、ちょっと」
「大人しくしてよー。っていうかやりにくい、ちょっと屈んで?」
「こう?」
椎名さんは、はつらつとしているからでしょうか、普段はそれほど小さいという印象はないのですが、並んでみるとかなり小柄です。長谷川よりも小さい気がします。って言っても、長谷川も別に小さいわけじゃないんですけど。多分普通です。
「二人って、隠してたんじゃないの?」
「私もそう思ってたんだけど……なんでこんなのことしたのか、私にも分からなくて」
「あー……あたしは、大体予想つくけど」
「え?」
どうして私にも分からないことが、椎名さんに分かるのでしょうか。なんか不公平じゃないですか? 私だって自分でピンときたりしたい。強そうな顔で「ふむ、なるほどな」とか言いたい。
「最近二人とも、放課後一緒にいること多いじゃん。誰が言い出したのか分かんないけど、石井さん達って、そうなんじゃないかって噂が流れて」
「……そ、うなんだ」
いつかそんな日が来ると予測はしていましたが、実際に他人の口からそれを聞くとショックです。どんな風に言われてるのか、詳しく知りたいけど、絶対聞きたくありません。複雑な乙女心ってやつです。
しかし、どうしてそれが長谷川が私にキスマークを付けることに繋がるのでしょうか。段々ただの嫌がらせとは思えなくなってきました。
「……そういえば最近、教室に来んなってよく言われるな」
「あー」
椎名さんは手を止めて笑いました。なんで長谷川の考えていることが分かるんですか? エスパーですか?
「あっ! もしかして、長谷川……それが原因で……いじめに……?」
「ないない。あたしが知ってるのは、どっちかって言うとその逆かな」
「逆?」
逆ってなんですか? 「わぁー! レズだー! 崇め奉れ!」ってクラスメートに担ぎ上げあられているということですか? なにそれなんか怖い。
っていうか長谷川って私と違って多分、元々そっちじゃないですし。それをするなら私にしてほしい。いや、やっぱりやめてほしい。そんなことでわっしょいされたら不登校になりそう。
「もー、ホントに分かんないの?」
「分かんないよ」
小さくため息をついていると、椎名さんは私のネクタイをぐっと引き寄せて笑いました。
「さっきから思ってたんだけど……あたしら、キスしようとしてるみたいだよね」
「えっ……」
洗面台に据え付けられた鏡を見ると、確かに私が身を屈めてそういうことをしようとしている、ように見えなくもありません。言葉に詰まって、誰宛だかよく分からない弁明をしようとした瞬間、椎名さんは大きな声で言いました。
「これ無理だよ。隠れないや」
「えー!」
絶望です。心の寄り所が手榴弾で爆散されるのを目の当たりにしながら地面に手をついて涙を流しているような気持ちです。完璧だと思ってたんですよね。化粧品で隠す作戦。
身を乗り出して首を見ると、彼女の言う通り、ほとんど隠れてません。この作戦が使えないとなると、いよいよ絆創膏の出番か……私は一人暗い顔をしていました。しかし、隣にいる椎名さんの目は輝いています。意味が分かりません。
「え、何?」
「木を隠すには?」
「……粉砕してから?」
「石井さんの首を粉砕することになるけどいいの?」
「絶対やめて」
椎名さんは得意げにスティック状の何かを取り出しました。『好奇心が勝って百均で買ったものの、クソだから全く使っていないそれ』と紹介されたそれは、口紅のようでした。口紅にクソとかクソじゃないとかあるんですか。私にはよく分かりません。
「見てよ、これ。真っ赤」
「ホントだ。すごいね」
確かに彼女が持つそれは、随分と赤がキツいです。こんなの似合う人、なかなかいませんよ。不二子ちゃんくらいしか思い付きません。それをどうするつもりなんでしょうか。
「これで、石井さんの首を塗るんだよ」
「うん?」
「あ、筆もあるから。首回りに装飾を施すカンジ。分かるじゃん?」
「いや分かんない分かんない」
何? 私これから何をされようとしてるの?
「あたしはさ、一生懸命石井さんのこと考えてアイディア出してるんだよ?」
「それは本当に嬉しいんだけど、だからってどこかの民族みたいになるのは違うと思うんだよね」
「大丈夫大丈夫、ほら。首出して。授業始まっちゃうよ?」
「……くっ」
こうなったらヤケだ。私は彼女に首を差し出しました。されている最中は、それはそれは必死でした。くすぐったいの極みです。
できたよ! と言われて鏡を見ると、そこには私が想像していた装飾とは、全く異なるものが施されていました。
「椎名さん」
「なに?」
「一つ聞きたいんだけど、この”首周辺に朱肉をドン! って押し付けました”ってカンジの赤いベタ塗りはなに?」
「え? ゆったじゃん? 装飾? みたいな」
「やるならもっと模様とかつけてよ! 貸して!」
私は彼女から筆と口紅を受け取り、ちょちょいと筆先で紅を掬うと、反対側の首に自分で筆を入れました。
「おー、すごい! それっぽい! 絵が得意なの!?」
「得意っていうか、中学の頃は美術部だったから。とりあえず、こんな感じでイメージしてたんだ?」
「いいじゃんいいじゃん! 反対側もやってみてよ!」
「えぇ……?」
私は彼女に乗せられるがまま、首周辺だけでは飽き足らず、頬と額にまで赤を差しました。なんなら鼻筋には別の化粧品で白を差しました。つまり魔が差した、ということです。
「ねぇヤバい、笑い死にするかも」
「いやノリで描いちゃったけど、これは無しね」
私は椎名さんにメイク落としを借りようとしましたが、授業開始の鐘が椎名さんを急かします。彼女はポーチに全てを雑に突っ込んで、「ほら! 授業始まっちゃう!」と私の手を引きました。
ちょっと待って待って、待って。私いま創作民族の顔面コスプレ中なのに?
しかし、当然ながら力では敵いません。私は「いやだあああああ」という奇声を発しながら、椎名さんに引っ張られる異邦人となりました。
「堂々としないともっと恥ずかしいよ!」
「どっちにしても恥ずかしいよ!」
すれ違う人がみんな私の顔を見て吹き出します。酷い人なんて指差して大爆笑です。こんなのキスマークがバレた方がマシじゃん。何してんの私。
愚かな自分に気付くと、驚くくらい心がすっと冷めていくのを感じました。冷めるというか、究極的に落ち着いている、というイメージでしょうか。教室に辿り着くと、私は無表情で着席しました。
現国の先生が私を二度見して、なんと三度見しました。だけど私は無表情を貫きます。心の痛覚を失ったようなイメージで、私はただそこに存在し続けているのです。私はこの謎のメイクを落とすまで、謎の民族になりきってみることにしました。
そうして授業が始まり、滞りなく終わろうとしています。今日のまとめということで簡易的なテストが配られました。みんながそれを解く中、先生は私の隣で立ち止まると言いました。
「……いじめ、じゃあないよな?」
「カッティウンバゥバアウンッハ」
「分かった、とりあえず今すぐ保健室に行け。いいな」
こんなメイクを施して普通に喋るのも恥ずかしかったので、私なりにそっち系の民族っぽい言葉を発したつもりなんですが、先生はとても心配そうな顔をして私を立たせました。
一人で保健室まで行けるかと聞かれましたが、私は暖かい乾燥地帯の民族になりきっていたので、当然何を言っているか分からないとでも言うように首を傾げます。すると、美々さんが立たされ、付き添いの命を受けました。
授業中、まだ静かな廊下を歩きます。隣のクラスの前を私が通ると、クスクスと笑い声が聞こえ、教室内がざわめいています。そうして理科室の前を通ります。先ほどと同じような声が漏れ聞こえます。もしかして長谷川も一緒に笑っているのでしょうか。だとしたら結構悲しい。気が付くと、私は理科室を覗いていました。
顔にヤバいメイクをした長身の女が教室を覗いているなんて、完全にコメディっていうかもうホラーですが、私はどうしても確かめたかったのです。
長谷川は笑っていませんでした。もうドン引きの表情です。変質者を見るような目で私を見ています。笑われてたら悲しいなんて思っていましたけど、笑われた方がマシでしたね。
しゅんとしたまま保健室に辿り着くと、まずはノックをします。優しげな声が私達を招くと、ガラガラと扉を横にスライドさせて中に入りました。そしてデスクに腰掛けた先生と目が合いました。先生と会うのは、エッチをする場所を探していた時以来です。
彼女は一瞬息を飲んで、直後爆笑しました。なんかここまでくるといっそ気持ち良くなってきますね。
「どうしたの?」
「私にも何がなんだか……突然石井さんがこんなメイクで授業を受けていて……」
「なんか面白いテレビでも観た?」
「別に影響されたわけじゃないです」
どんなテレビに影響されたらこんな装いになるんですか。
本当のことは言えません。事情を知っているクラスメートならまだしも、先生にそんなこと言うなんて、私のキャラじゃないというか。
それなりの理由を用意しなければいけないとは分かっていますが、なかなか言葉が思い付きません。私が黙って下を見ていると、美々さんが助け舟を出してくれました。
「大人になる過程では有りがちなことというか、その、一過性のものなんかじゃないかなって、私は思うんですけど」
誰が中二病じゃ。彼女が出してくれた助け舟は泥舟でした。いや、こんなことを言うと泥舟に失礼ですね。トイレットペーパー舟ですね。ソッコーで海の藻くずと消えました。
そして全てが面倒になった私は真実を告げました。
「あのですね……首のキスマークを、隠したくて」
「えぇ!?」
美々さんは目を丸くして驚いています。そうですよね、キスマークが付いていたなんて聞いたら、驚きますよね……。
「たかだかキスマークを隠す為にそこまでやったんですか!?」
「最も正しい驚愕じゃん」
美々さんの素直な反応に打ちのめされていると、先生がメイク落としシートを手渡してくれました。さっと肌の上を滑らせてみると、真っ白だったシートの表面が真っ赤になってました。これ、全部私の顔についてたんですね。本当にヤバいですね。
顔と首を綺麗にしたあと、なんだか疲れてしまい、私は先生の許可を得てベッドへと腰を下ろしました。隣にはぴったりと美々さんが密着しています。やけに目がキラキラとしています。
「キスマーク、見せてもらえませんか?」
「えー……」
だけど、ここまで付き合ってくれたんだし、無碍にするのも忍びない。私はため息をつくと、押さえていた手を解いて、「はい」と言います。
「うわぁ。結構がっつりいかれてますね」
「だよねぇ……って、ちょっと」
美々さんは私の許可なく、私の一番上のボタンを外しました。いや、軽く抵抗はしましたよ。やめてよーって。でも、それより強い力でこられたらもう成す術がありません。私には自分の非力さを呪うことしかできません。
シャツの襟を邪魔にならないように引っ張って、美々さんはまじまじとそこを観察しています。こんなの見て楽しいですか?
「でも意外ですね」
「何が?」
「こういうの付けるの、どちらかと言うと長谷川さんじゃなくて石井さんの方なんだと思ってました」
分かる、私もそう思ってた。途方に暮れながら、こうなってしまった経緯を話していると、保健の先生が言いました。
「寝てる間に付けられたって……あのさぁ石井さん。ちゃんと彼女のこと大事にしてんの?」
「!?」
「この間も長谷川と一緒にいたんだから、さすがに分かるよ。あ、今は他に生徒いないから安心して。しっかし驚いた。あいつ、彼氏がいるんだと思ってたのに、まさか彼女だったとはね」
「先生は長谷川と仲いいんですか?」
「うーん、多分ね。部活で怪我した子の付き添いとかでここに来るし。一年の頃から知ってるよ」
怪我した子の付き添いしてあげるとか私の彼女優しい、天使。キスマーク勝手につけてくるところ以外は完璧。
私は彼女の意外な一面を見つつ、先生の話に耳を傾けます。彼氏がいると思ってた、ですか。まぁそりゃ普通そうですよね。あんな可愛い子、相手がいると思うのは当然ですし、なんとなくイケメンを想像しちゃいますよね。私なんかが付き合ってていいんだろうか、という不安がどんどん大きくなってきたので、これ以上考えるのはやめようと思います。
「彼氏いないのかって聞いたこともあるよ。いるって言うわりに歯切れ悪いから、そいつの愚痴を聞かせてよって言ったら、とにかく鈍感なところだってさ。それが、まぁ、コレじゃあね」
先生は私を見下ろして笑います。コレ扱いやめてください。癖になったらどうするんですか。
しかし、長谷川の私への愚痴が鈍感、というのが意外ですね。てっきりエッチが絶望的に下手って言われるかと。まぁ実際そんなこと陰で言われてたらボンバーマンみたいな爆弾抱えて自爆するんですが。っていうか鈍感じゃないですし。
そのとき、予鈴が鳴りました。一時間目が終了したようです。私はまだまだ盛りだくさんの今日の日程を考えて鬱屈とした気持ちになりました。そこに、先生は非常に有り難い言葉をかけてくれました。
「他の子が来るまでは寝てきなよ。ベッドは空いてるからさ」
「いいんですか?」
「まぁ状況が状況だし。いいよ。特別ね」
「やりましたね!」
「美々ちゃんは帰ってね」
「なんでですか!?」
いやそれこそなんでですか。この人、ちゃっかりサボるつもりだったみたいですね。ただでさえ引くほど成績悪いんだから、授業に出た方がいいと思うけど。
「えー。私、石井さんと同じベッドで寝るから場所取りませんし。いいですよね?」
「サボりたいのは分かるんだけど、それ色々ヤバいからマジで帰って欲しい」
「それって意識しちゃうってことですか?」
美々さんは普段とは違う、少し影のある表情を見せて、くすりと笑いました。上手く言えないけど、なんだか誘われてるみたいでドキッとします。もちろん浮気なんてしませんけど。
「とりあえず、お前は駄目。ほら、帰った帰った」
「そんなぁ〜」
背中をぐいぐいと押されて、かなり強引に追い出された美々さんは扉の向こう側で「先生のけちんぼさん〜」などと言ってから走り去っていきました。さきほど感じた妖艶な空気はやっぱり考えすぎだったみたいですね。
私は気を取り直してベッドに寝転がると、長谷川のことを考えました。この間学校でしたけど、保健室っていうのもいいですよね。長谷川とドキドキしながらこのベッドでいいことしたいな。絶対拒否られるって分かってるけど、したいものはしたいな。
妄想に耽ってしばらく経った頃、先生に話しかけられました。
「こうなった理由、分かった?」
「椎名さんが私にメイク落としを貸してくれなかったことが直接の原因ですね」
「そうじゃなくて。なんで長谷川にそんなことされたかっていう話」
「あぁ……うーん。実は、あんまり分かんないんです。先生にも歯切れの悪い答えをしたことからも分かるように、私達は関係を隠して過ごしていたんです。考えれば考えるほど、どうしてこうなったのか、分からないですね」
先生は呆れたように息を吐いて腕を組みました。
「石井ちゃんは、結構モテるみたいだけど、その自覚はあるの?」
「……どこの石井ちゃんの話ですか?」
「そういうとこだよ。長谷川、心配なんじゃない?」
「……私が? 浮気しないか?」
不可解極まりないですが、先生の話を総括するとそういうことになると思います。まぁ前提からおかしいんですけどね、私全然モテませんし。っていうか浮気って……そんな心配されてるって心外ですね。
「浮気もそうだけど、さっきみたいにクラスの子にちょっかい出されてるんじゃないの?」
「……ちょっかいって、何の話ですか?」
「あぁ、そこからか。こりゃ鈍感だわ。ま、まだ若いし、仕方がないけど」
「なんかすみません」
「とりあえず、今日は折角午前授業の日なんだから、終わったらちゃんと話し合ったら?」
えぇ話し合いますとも。私も長谷川が何を思ってこんなことをしているのか知りたいですし。主に再発防止的な意味で。こんなスリリングな日常もうゴメンです。
そこまで考えて、私はふと、先生のある言葉にやっと気付きました。
「……午前授業?」
「えぇ。今日、四時間目で最後でしょ?」
「あぁ!」
言われてみればそうでした。キスマークをつけられてしまったショックですっ飛んでいました。たまにあるんですよね、お昼前に学校を終わらせる日が。
「三時間目からは出なよ、授業」
「はい……ただ、体育なんですよね……」
「あちゃー。そういうことなら仕方がない。よし、先生が一肌脱ごう」
先生は棚の引出しをがらっと引くと、何を取り出し、私に手渡しました。それは、湿布でした。
「寝違えたって言って、こいつを首から肩にかけて貼りな」
「先生……!!」
先生、優し過ぎる。私、先生のことは絶対忘れない……!
私は先生から最強のアイテムを受け取り、授業後半と放課後に備えることになりました。まずは手に入れたこの現時点の最強アイテムをどこかで貼りましょう。ここからなら、職員トイレが一番近いです。本当ならここで装着していきたいところですが、先生がもう行けと言うので、勢いのまま保健室を出てきてしまいました。
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