第7話 R-5 岬家の裕孝君2

「お前……馬鹿だろう? 田辺の奴は不細工で厚かましいが頭は良かった。お前の場合は、頭が非常に残念な奴だな」


「────」


  は・・恥ずかしい。え・・なんで違うの? 答え間違ってるの?


「馬鹿ならしょうがない……俺の家庭教師など、どだい無理だ。首だ首」


 裕孝君は犬を追い出すかのように、しっしっと手を振った。


「ちょ‥‥ちょっと待って!」

「何だ? 言い訳しても首は撤回しないぞ」


 訝し気に裕孝君は私を見る。


「その答えが間違っているのなら、正しい答えを教えてくれる?」

「はっ。小学生の俺に答え聞くのかよ? お前‥‥プライドってのがないのか?」


 裕孝君はそういって机の上にあった赤ペンで私の答案に間違った個所を嫌がらせの様に印をつけながら答えを書き込んでいく。


 あ‥‥成程そこで間違えてたんだ‥‥と私は横目で彼が書く答えの内容に魅入っていた。凄く頭いいんだなぁ。


「これが答えだ。気が済んだか?」

「ねぇ? それってどの参考書に載ってた問題なの?」

「──まさかお前、俺が答えを丸暗記して書いてるだけと思ってるのか?」


 裕孝君の眼差しが、どんどんと軽蔑を含んだものに変わっていく。


「うっ、だって微分って小学生には難しいでしょう? 誰かに教えてもらったの?」

「……こんなの、参考書一つあれば、独学でできる」


 裕孝君はそういうと机の横にあった分厚い問題集を取り出し、突きつけるように渡す。先程の私の質問に対する答えということなのだろう。本には何度か広げた事があるのか、色々と記しがされてボロボロだ。


 私は問題集をパラパラとめくると解答の欄に、とても綺麗な字で具体的な解説が書いてあるのを見つけた。筆跡からして恐らく裕孝君のものではない。書いた人は自分用に解説をつけておいたというよりは、このほうが相手が理解しやすいのでは? という意向を汲んで書かれているようだ。もしかすると誰か年上の人から自分の所持していた本を、裕孝君の為にと贈った物なのかも。発行年月日が私の高校時代よりも前のようだし。



「これってずいぶん昔の本だね?」

「──だったら、なんだ?」

「お兄さんとかお姉さんからもらったの? 問題集の解答欄に手書きで解説までかいてくれてるし」

「なっ! 違う………それは俺自身が書いたものだ」


 裕孝君はそういうと慌てて私から問題集を取り上げた。


「ふふっ。とっても大事な本なんだね。解説を書いてくれた人は裕孝君の事をとても大切におもっ

「黙れ」

 

 急に低い声で話す裕孝君に、私は驚いた。てっきり怒りながらも照れたような反応がかえってくると思ったからだ。

 もしかして、その人と何かがあって、仲が上手くいってない、とか?


「ご、ごめ──

「さっさと帰れ! だいたい俺は、こんな本など、なんとも思っていない!」

 裕孝君は怒鳴りながら、問題集を至近距離から投げつけ、それを私は避け──「ぐほぷ‥‥」れなかった。


 痛い‥‥・


 しかも鼻に──あれ‥‥なんか鼻から生暖かい物が。

 

「‥‥なんでわざと軌道を外したのに、自らぶつかるんだ」


 うん。どうしてだろう。ゲームでもリアルでも鈍いなぁ‥‥私。


「あ・・やばっ」


 ダラダラと鼻血が流れ出し、手で押さえていたものの、絨毯にぽたぽたと真っ赤な血液が落ちる。は・・鼻かみ! いやハンカチ、どこ? どこだっけ? 染みがっ。高級絨毯に染みがっ。クリーニングになっちゃうよね。「弁償してくださいませ!」ってロッテンから言われたら払えそうにないよ。


 私はあたふたとカバンの中のハンカチを探していると、苛立ったのか裕孝君が箱ティッシュを私の足元に投げつけた。


「拭けよ 全く人の部屋に、くそっ」

「あ‥‥ありがとう」


 私は慌てて絨毯についた血液の汚れを取ろうと必死になった。


「あほか! お前だよお前。元をたたんと、いつまでも床に落ちるし、匂うからやめろ!」

 

 あ‥‥そっか。そうでした。でも臭うは酷いよ。それとも血が苦手なのだろうか?

 

 私の反応に裕孝君は呆れ果て、眉間に深い溝を作っていた。

 

 私は鼻をティッシュで抑えていると、やがて鼻血の勢いは治まってきた。だが鼻は痛いままだ。取りあえず追加の血がでてこないよう両方の鼻をティッシュで栓をする。恥ずかしいがこれ以上床を汚して弁償を迫られるのは避けたい。完全防備が優先だ。


 裕孝君は呆れた顔をして見ていたが、私は気にしないことにした。若干残念な人間をみるような哀れみも入ってる気がするけど気にしない・・キニシナイ・・・。


「お前には、女としての恥じらいはないのか? 豚みたいな鼻だぞ」


 くっ、気にしないって暗示かけてんのに、とどめをさしてくるとは。


「そんな事より、雑巾とかないの? 床拭かないと」

「そんな事よりって‥‥お前‥‥」 


 私は裕孝君の呆れた声を無視して、少しでも絨毯の染みが取れるよう必死にティッシュで絨毯をたたくようにして拭いた。


 うぅ・・弁償っていわれたら本当、如何しよう。


「‥‥はぁ、本当、なんだこいつ。イライラするし……」

 

 裕孝君は、血の匂いが苦手なのか、手で鼻をかるく覆いながら学習机にある受話器をとりボタンを押した。内線みたいなものかな? 


「おい、家庭教師が床を汚した。掃除をしに来い!」


 要件だけ告げると、裕孝君はガチャリと受話器を乱暴に置く。


「坊ちゃま、床が汚れたと連絡がありましたが」


 ロッテン、こと結城さんが即座に駆けつけてきた。はやい! 早いよ。10秒もたってないよっ。もしかしてすぐ近くで控えてた?



 結城さんは私の顔をみると、ギョッとして一瞬固まったが、すぐに無表情に戻り何処からともなく私にウェットティッシュを渡してくれた。「お顔の汚れがはげしゅうございます。おふきください」ってことなのだろう。無言で渡されたけど。


 結城さんは慣れた手つきで、ささっと汚れた絨毯を綺麗にふき取り始める。私も慌てて手伝おうとするとやんわりと視線で拒否された。絨毯はさすがプロというべきか、汚れはほとんど目立っていない。


「あの・・ゆ・・結城さん。すみません。汚してしまって。しかも掃除までしていただいて。その、く・・クリーニング代っていかほどでしょう・・か?」


「こちらの不手際ですので、その必要はございません。すぐに病院の手配を──」


 結城さんは私の足元に落ちていた本と鼻血で、おおよその事態を理解したようだ。でも、たかだか鼻血で病院まで手配してもらうのはさすがに気が引ける。


「いえ、大丈夫ですから。痛みも引いてきましたし、これぐらい慣れてるので、問題ありません。ハハハ」

「だ、そうだ。豚にはティッシュで十分だろう」

「なっ、ちょっと!どういう意味よ!」

「豚に豚といって何が悪い」

「な、なんっ──こんのっ! くそ生意気坊主……はっ! しまっ……」


 やばい、腹がたったとはいえ、くそ生意気とかいってしまった。ちらりと結城さんをみると、鉄仮面の彼女が口をぽかんと開けていたが、私の視線に気がつくと、瞬時に元の無表情に戻り軽く咳払いをした。


「──坊ちゃま、片倉様にきっちり謝罪なさってください」

「なぜだ? 謝るのは絨毯汚したこいつだろ?」

「いえ、怪我をさせた坊ちゃまのほうです」

「まて、結城、勘違いをしてるようだが、投げた本の軌道に、こいつが自ら、ぶつかりにいったんだぞ」

「坊ちゃま、そもそも本は投げるものではございません」

「……」

「坊ちゃま、怪我をされた姿を片倉様のご家族様が見られたらどう思われるか‥‥。坊ちゃまなら特にその気持ちが、おわかりになるのでは?」

「……醜い姿をさらすなら、俺なら、死んだほうがいい、と思うがな」

 裕孝君は暗い顔で冷たい言葉を吐き、私の背筋は凍り付いた。


『死んだほうがいい』


──え……それって


 本気じゃないよね? 誰でも、思わず酷い事を言葉にしてしまう事があるし。

 でも、口から出た言葉は妙に現実味があって冷たい感じがして………。

 それは結城さんも同様に思ったようだ。


「坊ちゃま──なんて事を‥‥」

 

 鉄仮面が完全にはがれ、彼女は動揺のあまり口元を抑えていた。


「……うるさい」


 結城さんの普段とは違う態度に、居辛くなったのか裕孝くん突然立ち上がった。そのまま部屋から出ていくのかと思いきや、何故か向かうのは壁の方で……。


「なっ、坊ちゃま! またその部屋に入られるのですか?」


 裕孝君は結城さんの制止を無視し、壁に手をかけた。すると壁だと思っていた部分が横滑りに移動する──どうやら引き戸のようだ。部屋は明かりがついてない為、中はよく見えない。


なんの為の部屋なんだろう? こもる為の部屋?


「──お前、何を見ている。首だといっただろう? さっさと消えろよ」


 私の視線の先を遮るかのように、裕孝君は部屋の入口に立つ。


「坊ちゃま……これで何人目ですか? 奥様が悲しまれます」

「う、煩い‥‥目障りな奴は皆、いなくなればいいんだ」


 裕孝君はそういって扉を閉めようとする手を、私は無意識に抑えていた。

「──なっ! 何だ、お前。邪魔をするな」


 なんでだろう……私もよくわからない。でもこのまま行かせてはいけない気がする。


 私のように、後で取り返しのつかない事になる気がしたのだ。


「ねぇ! さっきの言葉本気なの?」


 私は必死に扉を引っ張りながら聞いていた。


「お前っ──いい加減にしろ」

「死んだほうがいいって言ったの嘘だよね? 本当は──違うんだよね?」

「──は? 首の事じゃないのかよ」


 私の言葉に裕孝君の力が一瞬緩み、反動で暗い部屋の隙間から光が入り混む。


あ、あれ……あの絵柄はたしか


「音宮さんの‥‥‥」

「───ちっ」


 私の言葉を遮るかのように裕孝君は力強く私の手をつかむと、そのまま暗い部屋の中へと引き込まれた。



 え? 何を?


結城さんが「坊ちゃま!」と非難する声が聞こえたが、裕孝君は無視してそのまま扉の鍵をガチャリと閉めた。



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