10-9.この春を、その次の春を、永遠にともに

 和睦のためにリアナが出した条件は、思いもかけない形で彼女を苦しめることになった。

 収穫が終わった冬と、繁殖期の春。この二つの時期にリアナがオンブリアに戻れるように、デイミオンは和平の条件を調整していた。その期間、代替のライダーとしてフィルバートがアエディクラに留まることまでが条件に含まれていた。

 フィルバートは、それをデイミオンと二人で決めたとあっさりと白状した。しかも、あのケイエの城を巻きこんだ壮大な兄弟げんかの後にだ。

 そして、タマリスに戻らずに、そのまま北部領に旅立ってしまったのだった。レーデルルと、彼女の心臓とをもって。


 ナイルとルーイは顔を見あわせた。ルーイが、「フィルバートさまのことですから、きっとお元気ですよ」となぐさめた。ナイルは、「白竜のライダーの所在については、私が責任をもって陛下にお伝えします」と言った。


「ありがとう。……でも、大丈夫」リアナは、強いて微笑んでみせた。

 上王の返答を得ると、二人は丁寧に場を辞した。

 ところでこの二人は、のちにタマリスで繁殖期シーズンを過ごすことになり、そこで王位をめぐる計画に巻きこまれることになるが、それもまた別の物語になる。



「陛下」

 人目を引く、燃えるような赤毛と竜族風の黒いドレス。五公の一人グウィナ卿は、黒竜の主人としての威厳と優美さを完璧に同居させていた。彼女は優しくリアナを抱擁すると、「なんてきれいなの。甥は幸せ者ですわ」と言った。


「ありがとうございます、グウィナ卿」

 リアナの返答は少しばかり形式的なものになってしまった。この愛情深い女性が、デイミオン同様にフィルバートを大切に思っていることを知っているからだった。

 そんな彼女の葛藤を知ってか知らずか、グウィナはそっとささやいた。

「アエディクラにいるもう一人の甥から、祝福の手紙を預かっています」


 リアナははっと顔をあげた。

「彼は……フィルは何て?」

 グウィナは、どこかフィルバートに似た、胸が締めつけられるほどやさしい微笑みを浮かべた。「『この地上のどこにあっても、あなたに幸多からんことを願う』」


「……フィル……どうして?……」

 リアナは手紙に目を落とし、ひとり呟いた。

 あんなに子どもっぽくいがみあっていたのに、それすら結局はポーズで、二人は相変わらずリアナのために協力していて、フィルはやっぱり自分を犠牲にして彼女の人生を守っていて、遠くから幸せを願うなんてきれいごとを言う。それがどうにも歯がゆかった。

 そして、これから先の長い十年のあいだ、リアナはほとんどフィルに会うことができなくなる。そのことに、自分でも驚くほど打ちのめされていた。


「リアナ」

 しめっぽい気分を破ったのは、デイミオンだった。貴族たちに挨拶をしてまわっていたはずなのに、いつの間に戻ったのか、背後からそっと腕をまわされた。「……少し出よう」

「でも……」

「挨拶も食事も済んだ。もう十分だ」


  ♢♦♢

 

 崖にへばりつくカサガイのような掬星きくせい城の、そのわずかな中庭に、早咲きのリラが満開になっていた。灰色とラベンダーの混じる夕暮れの、もやのかかったような薄暮の光のなかで、重い房をなして小さな花があふれている。デイミオンが彼女を抱えて歩いていくと、しっとりと香る花房が頬をくすぐった。背後の窓以外はどこを見ても空に面して、はるか眼下にタマリスの街が一望できる。


「どうしていつも抱いて運んでいくの?」リアナは聞いた。「一人で歩いていけるのに」

「羽毛をつけた幼竜ヒナみたいにおとなしく俺の後をついてくるなら、そうしてやってもいいがな。……あちこちに飛びだしていかれるのは困る」


 軽口を言いあいながら移動し、デイミオンは彼女をリラの木のすぐ脇にある露台バルコニーの手すりに下ろした。美しい場所で、タマリスの夕暮れを眺めながら中庭の光景も楽しめる。ただデイミオンはずっと彼女を腕に囲ったままで、それはいま、リアナが竜の力を持たない〈ハートレス〉だからだった。


 彼女の心臓を持つフィルバートのことを、彼女は思った。いまはアエディクラにいるのだろうか。その空の下、レーデルルとともにいて、いったいなにを思うのだろう。


 彼女の結婚式に、フィルも、レーデルルも、アーダルもいない。喜ばしい日のはずなのに、そこだけぽっかりと胸に穴があいたようで、さみしかった。


 デイミオンもそう思っていたにせよ、口には出さなかった。かわりに熱くかさついた唇が冷たく柔らかい唇を覆う。最初は上唇を食むようにゆっくりと、そして角度を変えながら、何度もむさぼるように奪われて、リアナは彼の口のなかに熱いため息をもらした。長身の男に抱きかかえられるようにして、密着した腰から興奮が背中を這いあがっていくようだ。それでも、その感覚は彼女一人のもので、互いの興奮がまじりあってより強く欲望をかきたてられるようなかつての身体感覚は、もうなかった。苦しめられた時期もあったのに、〈血のばい〉があったころのあの感覚を懐かしくも思う。


 この春が終わったら、また離ればなれ。そしてそれが十年続く。青年期の長い竜族にとってさえ、それは途方もなく長く感じられた。 


「行きたくないの」キスの合間に、目も合わないほどの近さでささやいた。

「……ああ」

「ずっとここに、みんなの近くにいたい。デイのそばにいたい」

「わかっている」

 たくましい腕がぐっと彼女を抱き、リアナは彼の胸に顔をすり寄せて甘えた。自分で言いだしたことだということは十分わかっていたが、デイミオンが諫めてくれるとわかっているからこそ、泣き言が言えるのだった。


「おまえが行く先で、数十万の民が飢えと渇きから救われ、戦争の可能性を減じることができる」

「うん」

「白竜のライダーや、〈日和見ウェザーチェッカー〉たちを交代で送って、農業復興の目途が立ち次第、おまえが帰ってこられるように交渉しよう」

「うん」

「十度もの夏と秋を、俺と離れて過ごさせたりはしない」

「うん」リアナはそれを聞いて、安堵のため息をもらした。「信じてる、デイミオン」

 デイミオンは彼女の顔をすくいあげて目を合わせた。「そしてこの春を、その次の春を、永遠にともに重ねよう」


 黒い髪にも濃紺の長衣ルクヴァにも、小さな白い花びらが落ちていた。自分もきっとおなじだろう。

 リアナは夫の首に腕をまわし、甘い言葉と青い目の輝きにうっとりした――が、ばたばたという羽音に竜のうるさい鳴き声が聞こえてきて、とろけるような気分に水を差した。リアナは舌打ちしたくなった。竜舎と飼育人たちはなにをしているの? こんなにもたくさんの竜が集まって――竜?


「ところで」デイミオンは露台に両手をついて、彼女の身体を大きく外に傾けた。「その春のはじまりは今夜からなんだが」

「そうだったかしら?」バランスが崩れることが気にかかって、リアナは落ちつかなげに言った。「暦の上では、あと六日……五日先じゃない?」

だ」

「ねえ、それより下を見て。すごい数の古竜と飛竜が……なにがあったのか確認しなくちゃ」


 竜たちの騒ぎに、宴席の貴族たちもなにごとかと窓に近づいてきていた。なかには古竜の主人たちもいるのだろう。デイミオンの背ごしに、ライダーたちの驚嘆と悲憤の表情が見えた。

 デイミオンはそれを一顧だにせず、さらに彼女をした。「その必要はない。俺がんだんだ」


「どういうこと……きゃあ!」リアナの疑問の最後は、悲鳴に取って代わった。デイミオンに抱えられ、露台から落ちていく。ほんの二、三秒のあいだ。そしてあっさりと、黒竜の背に着地した。


「レクサ、いい子だ」デイミオンが言うと、黒竜が「ギエェ」と従順に答えた。王国の第二の竜ベータメイルは王の〈ばい〉に従い、なめらかに旋回しながら上昇しはじめた。


 露台に走り出てきたハダルクがなにかを叫んでいた。デイミオンにはたぶん聞こえているのだろうが、制止を無視してにっこりと手など振ってやっている。


「レクサはハダルクの竜なのに……」

「ジジイたちのくだらん長話で、このまま夜中まで待たされるなんてごめんだからな。早く二人きりになりたい」

 首筋に顔をうずめてくる男に、リアナは無駄な抵抗をこころみた。「でも、宴席は? 最後の挨拶も……デイ、待って」

 そう言っているあいだにも、黒竜は上昇して城を離れていく。



「いいや」デイミオンは黒髪をなびかせて笑った。「もう一秒も待てない」


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