10-4.竜に乗る者

「だめ!」

 集中がとぎれかかり、伸ばした手のひらから水滴が散って顔を濡らした。溺れ死んだってかまわないから、水を、もっと……


「頭を下げろ!」そのとき、命令する大きな声が聞こえた。「大きく吸って、口を閉じるんだ!」


 知らない声だと思った。あるいは、知っている声かもしれないとも思った。高くも低くもない、かろうじて男性とわかるような特徴のない声だ。でも、デイミオンと同じ、命令することに慣れている声だ。命令に相手が従うことを知っている声だった。

「あれは、誰……?」リアナは目をすがめ、思わず呟いた。


 炎が一気にかき消えたかと思うと、黒い影のようなものが視界をかすめる。シャーッと威嚇の声をあげながら地面すれすれを旋回し、デイミオンが背鰭クレストをつかむと一気に上昇した。


 アーダルがさっと顔をこちらにふり向けた。なにも映していないような、無慈悲で空虚な目が、別の竜の姿をとらえる。と、すさまじい咆哮をあげた。炎が勢いを増し、尖塔のような巨大な尻尾がすばやく動き、目の前の生き物を叩き落とそうとする。その竜は小柄で年老いた古竜で、その背に二人の男を乗せていた。尻尾はかろうじて彼らに直撃しなかったが、風圧で大きくよろめく。


「やめろ!」フィルが叫んだ。「おまえの主が乗っているんだぞ、アーダル!」


(主を認識できないほど自制を失っているのに、あの黒竜は攻撃されて、レーデルルが攻撃されないのはなぜ?)


「アーダルのテリトリーに入ってしまったんだわ。……デイミオンの制御がはずれて、本能で行動している」

 言いながら答えが浮かぶ。レーデルルは雌だ。あの黒竜は雄なのだろう。

(でも、なにか……)

 なにか重要なことがある。リアナはそれに気がつきかけたように思った。

 デイミオンは、「制御できない」と言った。でも、本当に?


 レーデルルでさえ自分の命令に従わないことがあった。ましてアーダルは古竜のなかでも桁はずれに巨大で力も強い。だから、制御できないという理屈自体はわかりやすい。これまで彼が暴走したときにもそう思ってきた。だが……


 

 はじめてそれを目の当たりにしたとき、頭を直接支配するかのようなデイミオンの〈呼ばい〉で気を失いかけた。そして二人とも森に落ちていったのだった。二度目は、彼女を通じてさらに力の上流にいるナイルに呼びかけたために、さらにその力は強かった。この二回とも、力の奔流に彼女のほうが先に耐えられなくなったのだ。

 リアナの頭にひらめきが走った。



「あなたに助けられるとは……」

 小柄な黒竜の背につかまって、デイミオンが呆然とつぶやいた。ほんの数か月前に、死闘を繰りひろげた相手だ。あのとき、目の前の男に刺された腹の傷がもとで死にかかったのだ。それは相手にしても同じかもしれなかったが。


「助ける? 甘えたことを言うな」不死の王は言った。「あの竜を御すのは、ライダーとしてのおまえの義務だ。死んでもやり遂げろ」

 立ったまま見下ろしてくる冷たい青の目は、できないなどと言わせないものがある。

 もちろん、言うつもりもない。これはすべて、自分の弱さが招いた惨事だった。


〔アーダルは本能的に攻撃してるわ!〕

 〈ばい〉のなかでリアナが言った。〔主人との絆が切れて、自分が制御できなくなって怯えているの〕


「恐怖か……」デイミオンは口に出して答えた。

〔だから、どうしてもアーダルとの〈ばい〉を復活させないといけないの〕

「だが、いまは火の勢いをしずめるだけで精いっぱいなんだ。〈ばい〉を強めると、消火に手が回らなくなる。〈老竜山〉が焼き尽くされてしまう」

〔でも、やらなくちゃ。それしかないの、デイミオン。やって〕



「私が火を止めよう」

 〈不死しなずの王〉が言った。「真上に下ろすが、数秒しか保たせられない。何があってもその間に〈ばい〉を取り戻せ」

「――わかった」

 だが、どうやって?

 目の前の満身創痍の男に、消火できる目算がありそうには見えなかった。自分にしても同じだった。勝算はなにひとつなかったが、男の言うとおり、そうするしかない。デイミオンは黒竜シュノーの背に膝立ちになって、アーダルとの距離を測った。

「死角にまわって、背の正中線の上から落としてくれ。そこなら、しばらくの間炎に焼かれずに済むはずだ」


 シュノーは老獪な動きでそっと巨竜の背に近づいていく。デイミオンが立ちあがり、今度はダンダリオンが膝をついた。


「行け。……行って義務を果たせ、ライダー」

 その声を背に受けて、デイミオンは思いきって黒竜の背に飛び降りていく。


(フィルバートは、いつもこういう気分なんだな)


 あえて風圧を弱めずに、衝撃が竜に伝わるように着地し、その勢いでごろごろと転がり落ちる。かろうじて背鰭クレストに捕まり、そのまま腹這いの姿勢で呼びかけをはじめた。

〔アーダル!〕

〔アーダル、俺だ。気づいてくれ!〕

 だが、竜の思念はエネルギーの奔流そのもので、いくら呼びかけても流れくだる溶岩に向かって叫んでいるも同じだった。


 デイミオンは自分のものだった竜を見下ろした。小さな山のような首筋から細い背鰭クレストがたなびいているのが見える。この背中に羽毛をつけて歩いていたような頃から育ててきて、気がつくと大陸一のアルファメイルになっていた。おそろしいほどに大きく、この竜を御すなど、到底できないような気になってしまう。

「どうしたら……」


 そのとき、声のかぎりに彼を呼ぶのが聞こえた。

「デイミオン!」

「リア!……」

 姿はようやく目視できるほど離れているが、声は〈ばい〉ではなく肉声だった。

「アーダル以外の〈ばい〉を、全部断ち切って!」

 その意外な言葉に、デイミオンは目を見開いた。



 リアナからも、信じられないという彼の表情がかろうじて見えた。彼女は竜術で声を増幅しながらつづけた。

「〈血のばい〉は。あなたがどんなに強い声で呼んでも、わたしも、誰も、壊れたりしない! だから、やって!」

 言いながら、リアナにはようやくわかりはじめていた。デイミオンはのだ。自分の強さと力で周囲を傷つけることを、無意識に恐れている。だから、あの二度の暴走でアーダルを止められなかった。アーダルを制御するほどの力を放出すれば、彼につらなるリアナたちも無事ではいられないからだ。

 すべての力を出しきれば、デイミオンには制御できる。どうか、そうであってほしい。


 そして、青年からすべての〈ばい〉が断ち切られた。おそろしいほどの沈黙が竜とライダーたちを襲った。


 その光景を真上から見下ろしていたダンダリオンは、ありったけの力をかき集めて周囲の酸素を一気に遮断した。目に見えるのは炎が消えていく様子だけだが、火を起こすよりもはるかに強い負荷がかかる。肌が灼け、熱を察知した身体が黒い蔦の紋様で覆われていく。金髪が照り返しで赤く染まり、猛烈になびいた。


 アルファメイルのテリトリーに入る本能的な恐怖で、シュノーはすくみあがっていた。それでも、震えながら、〈ばい〉に応えて力を出し続けている。ダンダリオンは〈ばい〉を使ってそっと老竜の目を閉じてやった。


「おまえには苦労をかけるな」

 決心して、炎の中心近くに降りたった。上空よりも効率よく消火できるはずだが、制御に失敗すれば焼け死に、運よく成功したとしても、煙に巻かれて死ぬ位置だった。自分は愚かなのだろうと考えることはこれまでも何度もあったが、死の間際までそう痛感するはめになるとは思っていなかった。


 息子を失い、同胞とはなれ、二度と戻るまいと思っていた祖国に足を踏み入れてまでやろうと決意したことも果たせず、いまここで死ぬ。


 死神のような目がくるりと向けられ、あっと思う間もなくシュノーが尾でぎ払われ、炎で包まれた。だが、もはや救助にまわす余力はない。〈ばい〉の道から竜の断末魔の苦しみと熱が逆流してくる。皮膚の上で、黒い紋様がのたうつように暴れまわっていた。


 ダンダリオンはその通路を閉じることなく、痛みと苦しみが襲ってくるにまかせた。

(あと少し)


 アーダルの目が見開かれ、ごうごうと燃えさかっていた炎が力を失いはじめたのはそのときだった。

 デイミオンが、あの黒竜の王が、ようやく竜との〈ばい〉を取り戻しはじめたのだ。


 あと数秒。


 内臓がけ、口からなにかが噴きだしてくる。熱さで生理的な涙が浮かび、炎のなかに飛び散った。


 〈不死しなずの王〉が炎につつまれていくあいだにも、まるで目に見えない毛布がそっと大地を覆うように、炎が消えて乳白色の煙があたりをめぐりはじめた。


 竜たちの声が静まりはじめ――……


 ダンダリオンが最後に頭に思い描いたのは、おそらく、老竜のことだった。竜の御国みくにについてのごく短い祈りが、開いたままの口のなかに残った。


 だが、その祈りを聞いた竜族はどこにもいなかった。

 


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