10-2.黄金の〈呼ばい〉

 そう答えると、リアナのなかの何かが爆発的に変化した。身体のどこにも感じられなかった竜の力が、燃えさかる炎のように体内をかけめぐる。細胞のひとつひとつが生まれ変わりながら熱をおび、その熱が〈竜の心臓〉に伝わって、これまでにないほど強く脈々と、力が全身に送りこまれていく。青一色の世界に、翼を広げるように一気に白い光が満ちる。フィルの腕がのびてきて、光の中心部がその腕になった。風と光のあまりの強さに、目を開けていられないほどまばゆい。


 自分の胸から取りだされた〈竜の心臓〉は、剣の形をしていた。重力に引きずりこまれているはずなのに、剣が引き抜かれる一瞬、身体がぐっと浮きあがるのを感じた。

 フィルバートの目が自分と同じスミレ色にかわり、そこで時が止まった。

 いや、止まったのは落下だった――〈竜の心臓〉を取り込んだフィルが、空気の流れを変えたのだ。上空に引っぱられ、手をつかまれて、ようやく姿勢が安定した。上下が定まって、空中に浮かぶ姿勢になる。


 もう落ちることはない。フィルバートを通して、レーデルルの存在をすぐ間近に感じた。ルルは飛行船のすぐ上に旋回して、空気の力で衝撃を抑えこんでいた。それでなんとかもちこたえているようだが、アーダルの攻撃に何度も耐えることはできないだろう。

(――行かなくちゃ)

 たぶん、方法はある。いまこの一瞬で思いついただけのものにしても。


 どうやって彼を説得しようかと悩みながら、リアナは呼びかけた。

「フィル」

「――いいえ、無理です」

 まだなにも言っていないのに、フィルは早口で続けた。「アーダルのいる場所まで行くつもりでしょう? でも、彼らのいる上空には酸素がほとんどないはずだ。いいですか、デイミオンは竜の力で酸素を調節しているだろうけど、あなたは呼吸ができなくなって死ぬ。あるいは炎に巻かれるか。たとえ誰がどうなろうとも連れていけないし、〈竜の心臓〉も渡せない」

 そして、苦く微笑んでつけくわえた。「……おれの気持ちとしては。でも、あなたは行くんでしょう?」


「……行かせてくれるの、フィル?」

 口調にも、顔にも、まだ迷いがあった。だがフィルはぐっと唇をかみしめた。

「あなたは何度もおれを信じてくれました。だからおれも信じる。……デイミオンを止めて、助けてください」


 フィルは二人分の体重を抱えて器用に飛び、ほどなくしてオレンジ色に燃え広がりつつある老竜山に近づいた。

「それで、どうするつもりですか?」

「このまま、近くまで連れていって。酸素が薄くなるところで、〈竜の心臓〉ごとわたしを落として」

 フィルが目を見開いた。

「デーグルモールは呼吸を必要としない。たとえ竜の力を使えなくても、死ぬことはないわ」

 死ぬほど無茶だと思っているのはあきらかだったが、青年が口にしたのは制止とは違う言葉だった。


「かならず追いかけて助けます。……手を出して」

 フィルの胸の前に手をのばすと、レーデルルが〈アバター〉と呼んだものが光りながらあらわれた。さっきほどまばゆく強くはなかったが、細身の剣は竜の力の化身であることがわかった。


 それを抜きながら、リアナは問うた。「でも、フィルはどうするの?」

 彼はにっと笑った。「おれは〈ハートレス〉ですよ」

 その不敵な言葉を最後に、フィルは竜の力を失って落ちていった。眼下で指笛の音がして、見る間に一頭の飛竜があらわれ、青年をするりとすくいあげた。



  ♢♦♢


 次に落ちていくのはリアナの番だった。

 幻影の剣は消え、〈竜の心臓〉は体内に戻ったはずなのに、やはりフィルのように力を使うことができない。あの光の強さが力の強さに比例していたのだろうか?


 もしも〈竜の心臓〉の起動に失敗したら、地面に激突して死ぬ。もし墜落しなくても、アーダルの炎に焼かれて死ぬのだ。頭から落ちていくから眼下も見えず、恐怖が落下の速度をより早く感じさせた。

 

 燃えさかる炎は、火山の火口に似ていた。人智を超えた神の怒りのように、めまぐるしく形を変えながら空気を消費しつくしていく。その中心にデイがいた。


「デイミオン!」リアナは叫んだ。「デイミオン!」


 水の中に飛びこむときのように、思いきり息を吸って、止めた。

 〈竜の心臓〉を起動し、ヒトの心臓を止める。

 掬星城でモンスターのような扱いを受けて軟禁されていたとき、自分は無意識にそのような状態になっていたと明かされた。だから、それを意志の力で起こすことも、できなくはないと思った。


 だが、思ったようにはいかなかった。

 よく知っている感覚のはずなのに、掴めそうでどうしても手が届かない。落下はさっきよりも、さらに速く感じる。爆風がわきあがり、風圧で身体が大きく持ちあがって別の方向へ飛ばされた。視界が反転し、どちらが天地かわからなくなる。

(だめ、ぶつかってしまう――)


 絶望にかられたそのとき、風の方向が見えた。風の流れが、まるでタンポポの綿毛が群れになって飛んで行くように、はっきりと。


(『白竜のライダーは、かつて、〈流れを追うものフローチェイサー〉と呼ばれていた』)

 誰かの言葉を、いま思いだした。


(見えた!)

 もう、あと一歩でとどく。

 それは、剣の形をしている。


(〈竜の心臓〉! 動いて!)


 どくん。鼓動を感じた。脈動とともに恐怖が消え、リアナはロウソクを吹き消すように心臓の動きを止めた。死が、すぐ手の届くところにあらわれた。暗闇で開く第三の目のように。


 あのときと同じだ。イオに張りつけにされて、激痛と熱でもう死ぬのだと思ったとき、それが起こったのだった。


(死は終わりではない。それは水面をくぐり抜けるようなもの)

 深く年老いた声がどこかで響く。


 


 死の間際の自分が、赤ん坊の自分が、ありとあらゆる層の自分が告げていた。すべての目が自分を見ていた。

(それは、手袋をひっくり返すようなものだよ、わが子よ)

 マリウスの声が最後に響き――

 

 そして、〈ばい〉の道がひらかれた。


 だが、それはデイミオンの声ではなかった。それはアーダルという濁流のなかの一枚の枯れ葉でしかなかった。黄金の文字列が情報の奔流となり、数字に似たなにかが質量を訴えかけてくる。懐かしい感触がしたのは、かつて〈御座所〉で見たものに似ていたからだと気がつく。輝きながら押し流されていく情報。どんなライダーも、こんなものに耐えられるはずがない。もしかしたら、デイミオンはすでに肉の器に成り果て、ここにあるのは太古の知恵が川となって流れるものだけなのかもしれない。


 滝つぼに落ちていくように、黄金列の下流に流されていく。


「デイミオン!」リアナは繰りかえし叫んだ。「戻ってきて! 手をつかんで! お願い、デイ――」


 自分の指先が、情報の一片となって分解されていこうかとするそのとき、デイミオンがふりむいた。その髪は熱と空気でたなびき、目は金色に輝いていた。

 口もとが、自分の名前を呼ぶ形にひらかれる。


「受けとめて、デイミオン!」

 手をつかまれた瞬間、情報の奔流は消え、すべてが感情とエネルギーの世界になった。


 文字列が黄金の泡となってはじけとんだ。そこにいるのは、デイミオンとリアナだけだった。広げられた腕に、迷いなく飛びこんでいく。春に黒土から球根が芽吹くように、よろこびが力強く湧きあがり、周囲を満たす。


 〈ばい〉が満ち、竜たちの気配がリアナのなかに戻ってきた。あたり一面を支配するアーダルのグリッド。だが、どこかにはハダルクたちの竜もいる。それにレーデルルも。


 幻影が消えると、そこは炎のなかだった。ライダーが呼吸できるように、いびつに空間がゆがめられ、空気が澱のようによどんでいる。それでも、デイミオンの腕は力強く、温かかった。息が止まるほど強く抱きしめられ、そのあと顔を両手で挟まれた。その顔はよろこびというよりも、絶望に近かった。もしもここにいるリアナが幻ならば、彼の心臓は砕け落ちてしまう。そんな顔だった。


「リアナ」

 ようやく名前が呼ばれた。そしてくり返し何度も何度も。うなる風も、炎の轟音も、もう聞こえない。


「わたしは生きているわ、デイミオン」リアナはささやいた。


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