6-11.おまえを育てた腕は

 先ほどの、火格子の近くに戻ると、マリウスから皿を受け取った。大きなマッシュルームに詰めたイラクサのシチュー、ジャム数種とビスケット、ハーブティーという質素なものだ。シチューを口に運ぶ男を、リアナは不思議な思いで見つめる。褐色の肌やマルベリー色の瞳、白髪は養父と同じだが、顔に刻まれた皺ははるかに少なく、頬や口もとは若々しい。手指は長いがごつごつしてはおらず、優雅なほどだ。似ているといえなくもないが、年齢がかけ離れすぎていて、同一人物と信じることはやはりできない。だが、スプーンを静かに上げ下げして、ほとんど音もたてずに食べている姿にふと重なるものを感じた。イニもまた、田舎の育ちだという本人の言とはかけ離れた優雅な所作で食事をしていたものだ。今思えば、彼もデイミオンと同じような竜族の貴公子だったわけで、それも当然かもしれない。


「……結局、〈隠れ里〉でわたしを育ててくれたのは、あなたなの?」

 ビスケットにジャムを乗せながら、リアナは尋ねた。「キノコのほう、それとも、虫のほう?」


「いまのように、おまえが食事中にもあれこれ竜の飼育について訊いてきたことは、よく覚えているが」男はフォークを口から外して答える。「赤ん坊だったおまえのおむつを替えた腕は、もうない」


「記憶はあるけど、身体がないっていうこと?」

「そうだ。マリウスの身体を持っていた。その身体が古びてきたので、私は生殖し――、どうやってやるかは食事中には聞かないほうが無難だろうよ――まったく同一の情報を持つ新しい個体が生まれた。それがいま、おまえの目の前にいる私だ」

「……前のイニは? もういないの?」

「いない」男が言った。

「お墓もない?」

「ああ」

「いつだったの?」

「二度前の夏至のころだ」

「そう……」リアナはナイフを置いた。彼女が〈隠れ里〉でイニの帰りを待ちわびていたあの秋、あの運命の秋に、すでにイニは死んでいたのだ。彼女から遠く離れて。


 三人はそれから、黙って食事を済ませた。女官が食器を下げると、〈鉄の王〉は標本類の置いてあったキャビネットのひとつから蒸留酒のボトルを出してきて、自分の目の前に置いた。切子硝子ガラスの美しい杯が二つ。


「どうしてわたしを育てることになったのか、まだ聞いてないわ」

 王はすぐには答えず、酒を注いだ杯の一つをフィルに渡した。手を伸ばして断ろうとするのを王が制した。何度目かのため息のあと、フィルはリアナに断って杯に口をつけた。この男がフィルを扱おうとするやり方が、リアナはすこしばかり気にかかった。なんとなく、自分と同じ意図を感じる――護衛や兵士としてではなく、竜族の貴公子として扱いたいし、そうふるまってほしいというような。考えすぎだろうか?

 

 フィルがのどを潤すのを見届けてから、ようやく王は口を開いた。「……ニザランに定住して、しばらく経ったころ」


「ある重苦しい秋の夜のことだったよ。風はまるで黒竜が吠えるようだったし、雨が鎧戸にぱらぱらと打ちつけていた。じきに、豆袋をひっくりかえしたような音を立てて降りはじめ、煙突からも流れくだって、暖炉を煙でいっぱいにした。

 私が書斎で、ちょうどあの机に向かってなにか本を読んでいるときだったと思うが、扉がぱたんと勢いよく開いて、そこから重装備の兵士が乗りこんできた。汚れた軍靴がぬかるみのような音を立てた……」

 リアナはわずかに首をかしげて、扉を見つめ、その光景を想像してみようとした。扉も、机も、この書斎にあるものはなにひとつ当時から変わっていないかもしれない。


「兵士がずぶ濡れのフードを取って、なにかを口汚く罵りながら毛布にくるまれたものを私に押しつけたところで、ようやく誰だかわかったというわけだが……」

「待って」マリウスの口調に苦々しい顔をしている青年を仰いで、リアナは慌てて口を挟んだ。「そうだわ。その兵士って、フィルね?」

「そうだ。そして、毛布にくるまれていた赤子が、おまえだよ」

 リアナは額を手で覆って天井を仰ぐしかなかった。あの話が、ここにつながるのか。


 戴冠式を終えたばかりのころ、フィルバートは彼の秘密のひとつを明かしてくれた。『十六年前、おれは、赤ん坊だったあなたをエリサ王から託されて、あなたの養父のもとへ運びました。〈隠れ里〉のことを知っていたのは、そのためです。……そのときは、まだ違う場所でしたが』


「私の竜を殺した男が、どうして私の城に、書斎に土足で入ってくるのかと尋ねると、その男はこう言ったよ。

 『エリサ王の遺言により、ご息女の養育はあなたに任されることになった。身魂しんこんをなげうってつとめろ。竜祖にかけて誓わなければ俺があなたを殺す。誓いを破った場合も殺す。今すぐに決めなければいずれにせよ殺す』」

 リアナは黙ってフィルを見た。フィルは気まずそうに咳ばらいをした。「……立てこんでいたもので」


「この男は、おまえが見ていなかったときには、それはもうひどかったんだぞ。髪も髭も伸ばしっぱなしで、抜き身の剣のごとくでな」

「仕方がないでしょう、いくら王の遺言とはいえ、相手は叛臣ですよ。エリサ王の意図もわからなかったし、不信感でいっぱいで」

「それは、おまえが不潔でやさぐれていたことへの言い訳にはならないようだが」


「そう」リアナはなんともいえないため息をもらした。

「結局のところ、それがあなたたちのつながりってわけね。あなたがわたしの母を殺そうとして、フィルがあなたの竜を殺して、そしてフィルがわたしをここに連れてきた……」

 自分の余命を察知して、娘の養育をだれかに託す――それはいいとして、なぜメドロートでも、ほかの身内でもなく、自分を殺そうとした男だったのか。母エリサの意図がわからない。リアナがそう言うと、マリウスは「彼女の意図など誰にもわかるまいよ」と言った。


「命が惜しかったわけではなし、一度は断るつもりでその赤子を受け取ったのだ。とにかく、一晩は預かるが、ノーザンに連れて帰らせるのが一番だろうと言って。だが……」

 マリウスは杯を置いて、リアナをしげしげと眺めた。「その布切れにくるまれた赤子はひどく泣きわめき、言葉はまったく通じず、なにをしてほしいのかひとつもわからなかった。そのくせ、ひどく無防備で、たった一晩でも放っておけば死んでしまうように見えた。

 それで、やろうとしていた仕事も、読もうと思っていた本も、なにひとつ進めることはできず、ただその赤子を抱いたり下ろしたりして慌てふためき、憔悴しきって朝を迎えた」

 王は効果的な一拍を置いて続けた。「ちなみに、その男は私の寝台で高いびきで寝ていた」


 フィルはもはや反論せず、うんざりした表情を浮かべただけだった。リアナはなんとなく微笑ましくなった。


「一晩が経って、赤ん坊も私も疲れきって台所でうたたねをしていると、フィルバートが出立しゅったつを告げに来た。そしてそのときには、私はもう、そのわけのわからない小さな生き物を、自分ひとりで育てるつもりになっていたよ。……育児にまったく非協力的な先人たちをなだめたりすかしたりして人間の薬草師ウィッチを連れてこさせてね。それがまた性格の悪い刀自で……」


 マリウスの語る自分の昔話を、リアナはあごの下で手を組んで、笑顔で聞いていた。

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