4-12.祈りと恩寵、そして……

 一見すると、凍りかけた雪で滑る急斜面などよりずっと楽に踏破できそうに見える。だが、雪山越えの経験があるフィルは油断していなかった。高低差は風と嵐の勢いを強めるし、風雪をしのぐ場所もみあたらない。おまけに、この天候と環境でもっとも力を発揮するはずの力の持ち主は、不治の病で死にかかっている。


 寒さは筆舌に尽くしがたかったし、さらに風の強さとしつこさは想像以上だった。進むごとに、ウールの布ごしにも針を飲んだかのような肺の痛みに襲われる。

 寒さと痛みと疲労以外はなにも感じなくなりながら、脚を動かして前へ、上へと進み続ける。フィルの不屈の意思をもってしても、二つの峰は永遠に遠く、たどりつけないのではないかと思うほどだった。


 風が勢いを増し、眼前が白一色に染まった。強風で雪が巻きあげられ、周囲がまったく見えなくなる。牛乳のなかを歩いているかのようで、足を踏みだしても、踏んだ感覚がなく、方向どころか上下の感覚さえわからなくなった。強い酒に酔ったかのようにふらりと身体が傾ぐ。かろうじて前向きに手をつき、リアナとともに倒れこむ惨事は避けられたが、この状態ではとても進めない。しゃがみこんで毛布のなかに入り、吹雪が過ぎるまでじりじりしながらしのぐしかなかった。


 そして、吹雪がやんだら、また歩きだす。その繰り返しだ。


 リアナへの呼びかけはしだいに意味不明になり、腕にも指にも力がこもらなくなってきたが、歩きつづける。昔のことが次々と思い出されてきて、自分はもう死ぬのかもしれないと思った。兵士は死の間際に、よく走馬燈を見ると言うから。


 ……最初は戦時中の思い出だった。


 泥地の行軍。雨に濡れた塹壕。爆弾の衝撃。死んだ兵士に群がるネズミたち。腐った足。巨大な腐敗物と化した竜。あらゆる死、死、死。『竜祖と祖国を守るため……勝って、忠誠を証明しよう……竜王のほかに王はなし! われらは心臓を持たないハートレス。われらは何も恐れないフィアレス!』指揮官だった自分の勇ましい声が聞こえる。名誉ある死だけを求めていた自分の、なんと愚かだったことか。結局、自分だけが生き残ってしまったのだ。


 高貴なる竜騎手ライダーの無様な死もあれば、英雄譚になるべき無名の兵の犠牲もあったが、今となってみるとすべてが無意味に思える。遺髪さえ持って帰ってやれなかった部下の顔を思い浮かべようとしたが、難しかった。


 そして、母レヘリーンの時代の掬星きくせい城。貴族たちの嘲りと好奇のまなざし。レースと花と絹に包まれた平坦な戦場。


 子ども時代の思い出もあった。養父やほかのハートレスの少年たちと剣の修行に励んだこと。孤独だが、はじめて自分の居場所を与えられたと感じた。そう、その前には、自分は必要とされない子どもだったのだ。『いいえお母さま、僕には竜の声が聞こえないんです』……美しい母、美しい黒竜。自分の望むすべてを持っている兄。竜騎手ライダーになるのだと言っていた。その時感じたうらやましさを、誰にも知られたくないと思った……


 自分が〈乗り手〉になれるはずがない。だって自分は竜を殺したじゃないか。あの巨大な黄竜を――

 違うな、あれはもっと後の出来事だった。だが、朦朧もうろうとしているのか、すべてが連想的で、ばらばらのままだ。


 自分でも気づかないうちに、フィルは祈りはじめていた。もはや信じることはできなくなっていたはずの竜祖への、無言の祈りだ。踏みだす足の一歩一歩が、祈りの一回になる。肺を刺すナイフのような冷気の痛みさえ、その一瞬は忘れる。

 彼の人生に恩寵の思い出は見当たらない。それでも白い世界に足を踏みだし、わずかな思い出をたぐり寄せるようにしながら、すべての価値あるもの、美しいもののことを思い浮かべながら祈った。


 竜祖よ、どうか彼女を導いてください。



 かつてヴァデックの砂地で見たような、滴りおちるほど真っ赤な夕日が地平線に沈んでゆく。はじめのうちは祈りと現実とがごっちゃになっていて、自分は戦場の夢を見ているのだと思った。あのとき、半マイル四方が死体で埋まったあの地獄の戦いのさなか、誰かの声を聞いたような気がしたことをふと思い出した。その場に立っているのは自分だけ。部下たちの死体から形見の品をはいでまわっているときだ。まったくその場にそぐわない少女の柔らかい声が、彼の名前を呼んでいた。絶え間ない戦闘で気が狂ったのだとしてもかまわないから、自分を呼ぶその声がどうか本物であってほしいと心から願った。なにかを強く願うなど、波乱に満ちた半生を思い返してもこの一度だけだったのに、どうして今まで忘れていられたのかわからない。だが、それはたしかに、声だった。


 当時はまだ生まれてもいないはずの少女の声が聞こえるはずはなく、現実主義者のフィルはいつもなら真っ先に自分の正気を疑うはずだった。けれどもこの瞬間、彼は十八年前のあのとき、すでに恩寵が訪れていたことを確信した。


(奇跡はある。あるんだ、リアナ)

 そして、自分が生きている意味もそこにある。

 見わたす限りの赤い風景は、もう地獄ではない。雪がやみ、自分たちが稜線を越えて下り坂に入ったことの証明だった。はるか下に、ニザランの東の森が広がるのを、信じられない思いで見下ろした。


 涙がにじんできて、フィルは目をこすった。肺を刺す寒気の痛みのせいだ。峠を無事越しただけで、まだなにも終わっていない。日が沈めば、夜が来る。この夜を歩き抜いて、彼女を生かさなければ。 


  ♢♦♢


 その日の明け方、ニザラン自治領のもっとも北端にあるエールワズの船着き場に一人の男が現れ、王の住まいまで乗せていってくれるよう頼んできた。


 舟渡しはその頼みを断った。男があまりに不潔に見えたので、舟が汚れるのを嫌がったのだ。十年も櫛が入っていなさそうな脂で汚れた髪と、薄汚れたなめし革のような皮膚、泥のようになった旅装。しかも、背中には死人を背負っている。死人を乗せるのは不吉だからだめだ、と説明すると、男は鋼の剣で脅してきた。舟渡しは震えあがって、いやいやながら彼らを舟に乗せるほかはなかった。「の剣だよ、鉄の剣」と、舟渡しはあとで大げさに仲間たちに語ってみせた。彼らの共同体のなかで、生活に使う刃物は黒曜石の優美な小刀だけだ。金と銀以外の金属を忌み嫌うので、鋼と鉄の区別がつかないのも当然だった。


 三人の王のなかで、鉄の王の住まいはもっとも東にある。だからこの船着き場から一日とせずに着く距離で、舟渡しにとってはそれが唯一の救いだった。


 ニザランの乗客たちは屋形船の端に座り、流れていく川辺の景色を楽しんでいた。深みを帯びた緑の川面を、嘴の根元が黒々したコブハクチョウの一家が優雅に泳いでいく。春に生まれた雛がもうだいぶん大きいなどと乗客が目を細めている。高い樹の梢からフクロウが興味深そうに舟を監視していた。しかし男は野蛮な〈竜の子たち〉に間違いなく、屋根のある筏船の中央から動こうとはしなかった。死んだように動かない女に向かってなにかを話しかけているようで、髭に覆われた口元がしきりに動いていた。乗客のなかにはものめずらしげに彼らを指さしたり、ひそひそ話をしたりするものもいたが、近づく勇気のあるものはいなかった。山脈の東に棲む〈竜の子たち〉、あるいは〈鉄の民〉、あるいは竜族――は戦闘を好む野蛮な人種だと信じているのだ。


 明け方、黒々とした森に朝の光が差しこみ、川面を竜の鱗のようにちらちらと輝かせるころ、舟は小さな船着き場に到着した。いくらかの積み荷が降ろされ、人足たちが荷運び竜ポーターに移しかえるなかを、男は死体を背中に背負ったまま通り過ぎた。周囲の好奇の目線に動じることなく決然と歩いていくが、ふいによろめいたかと思うと、ばったりと倒れ、その衝撃であたりに砂ぼこりが舞った。

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