4-11.カレン峠

 その一夜のことは、後から思い返そうとしてみても、フィルにはほとんど思い出せなかった。ただ茫然とリアナを抱き、なぜこんなことになったのか、なぜ彼女でなければいけないのか、と同じことばかりをぐるぐると考え続けていた。


 火口があり、粗朶そだの燃えがらもきちんと処理されていたから、自分はやるべきことをやったのだろう。冷静に、ふだん通りに。


 自分の身体も確認した。今のところ、灰死病らしい兆候は見当たらない。潜伏期間があるかどうかもわからない。不治の病として恐れられる一方、実態はほとんど何も知られていないも同然なのだ。流行をはじめたのは先の大戦あたり。感染性かどうかもわかっていない。


 だが、確実にわかっていることもある。このままだと、彼女はあっという間に衰弱して、三日もせずに死ぬ。王都タマリスで最高の〈癒し手ヒーラー〉が治療しても、回復するとは限らない。そう思いいたって、フィルは自分がどれほど打ちのめされているかに気がついた。行軍のときでさえ経験しなかったような過酷な雪山を越えても、彼女が死んでしまえば、すべてが無駄になる。


 すべてが無駄になろうとしているのだ。ぱちぱちと勢いよく燃える火を見つめながら、ぼんやりとそう思った。


 おそろしいほどの絶望感のなかで、フィルは、自分の心のどこかには自暴自棄に似た安堵があることも認めざるをえなかった。彼女が死ぬのなら、誓いによってどのみち自分も死ぬしかない。黄泉には王権も、竜も、〈ばい〉もなく、もはやデイミオンにも彼女に触れることはできなくなる……。


 それは甘美な考えに思えたが、すぐに打ち消した。守られるべき誓いがあり、果たされるべき約束がある。それらが与えてくれる力がなければ、とうていこれまで生き延びてこられなかった。自分にそれを思い出させるだけの分別があったことに感謝した。


 もはや追跡の心配もないため、その日は思いきって寝るつもりだったが、寒さのせいでうとうとしている時間のほうが長かった。毛皮にくるまり、かじかんだつま先をほぐして温めながら、カレン峠への道筋を思い描いた。そこを越えれば、もうニザランは目前だ。つまり、最後の難所ということになる。最後だが、最大の難所だろうと目測をつけていた。考えているうちに寝る間が惜しくなり、フィルは翌日の準備をはじめた。

 

 翌日は快晴だった。一面の銀世界が目にまぶしい。

 リアナを起こして準備をさせ、自分はオートミールと干しブドウ、干し肉、湯を口に含んで戻すようにして食べた。発熱しており、鱗状の病変がさらに広がっていることを確認する。わずかだが血も飲ませた。デーグルモールと灰死病という二つの奇禍が、彼女の体内でどのように作用しあっているのかはわからない。ただ、摂取させることができるものはなんであれ口に入れさせたい。竜の背に乗せることはできたが、首にしがみつくようにするのがせいいっぱいで危なっかしい。その時が来たら自分が背負わねばなるまいと考える。


 風雪よけのウールを彼女と自分の顔を覆うようにそれぞれ巻き、竜で進んでいく。荷物のほとんどは捨ててしまった。フィル自身の一日分の食料だけが残っている。一日でカレン峠を踏破する不退転の決意だった。それ以上は、彼女の身体がもたないだろうと考えたからだ。


 午前は天候に助けられ、カレン峠に続く北の登山道に無事行き当たった。勾配がきついが、道がはっきりしているのがありがたい。竜の脚が雪に深く埋まり、一歩、また一歩と進んでいくのを、声をかけて励ました。


 しかし、峠を目前にしたあたりで、竜が使えなくなった。雪で見えづらい木の根につまずき、前脚を折ってしまったのだ。どのみち、この先の細い峠を越せるか怪しかったので、フィルは迷うことなく竜にとどめを刺し、傷口から湧き出た血を鍋にとった。彼は血入りの茶をなかばえづきながら飲んだが、リアナはむせて飲み込むことができず、フィルが手のひらを切って与えた血も、わずかに唇を湿す程度にしか口にできなかった。数日前には、彼女に血を与えるより悪い事態が起こるなどとは想像していなかったのに、竜祖はなんという試練をリアナに与えるのだろう?


 竜の死骸を捜索隊に発見されると行き先の手がかりを与えることになってしまうが、もはやそんなことを思いわずらう余裕はなかった。フィルはリアナの服についた氷片を割って落とした。そして、自分の体温のおかげでかろうじて液体の形を保っている水筒の水をリアナに飲ませ、自分でも最後まで飲み、そしてまた雪を詰めて服のすきまに押しこんだ。スノーシューを履いて足首としっかり固定すると、あらためて呼びかける。


「リアナ。カレン峠を越えるまで、あなたを背負っていきます」聞こえているかはわからないが、そう説明した。「一刻も早く、峠を越えないといけないから……でも、眠ってしまわないで。なにがあっても、起きていてください」


 リアナは凍ったまつげの奥からじっとフィルを見た。返答はない。


 フィルはかまうことなく彼女を背に負って、わずかな荷はまとめて前に下げた。上体をまっすぐに立て、バランスを考えて彼女の手足をおさめ、歩きだす。

 スノーシューで歩くカンはすぐに戻ってきたが、風が吹きはじめ、舞う雪で視界が悪くなってきた。覚悟を決めて、目測をつけた方角へ進む。


 彼女の指や爪先や肌が凍傷になるのが心配で、最初のころはこまめに止まっては末端をさすって温めた。しかし、長時間が経っても指先も肌も黒ずむことなく、鱗様の病変をのぞけばきれいなままだった。口をきく元気もないようだったが、ときおりふと正気を取り戻したように彼の肩から腕を伸ばして正しい方角を指さすこともあった。フィルバートはそれでずいぶんと元気づけられた。


 しばらく、気まぐれな吹雪のせいで足もとにばかり気を取られていたが、ふと気がつくと峠の見える位置まで来ていたらしい。風がやむとさっと視界が開けて、目の前の景色が明らかになった。白雪に覆われたなだらかな坂と青く澄み渡った空、黒く切り立った左右の山が荘厳な対照をなしていた。振りかえるともう木々もなく、目が痛むほどにまぶしかった。フィルは片手で庇をつくって見た。あれがカレン峠だ。

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