序章 二人の囚人 ②


 騒がしい夜だった。


 幽閉の塔からは、さまざまな景色が見わたせる。タマリスを囲む高い山々も、西の切れ目から見えるわずかな海も、そして掬星城きくせいじょうと呼ばれる王城のほとんどすべての場所も。囚人である彼女は、最初の頃こそその眺めに心慰められたものだが、近ごろでは朝と夕のわずかな時間しか外を眺めることはしなくなっていた。

 巨大な黒竜が城に降りたったのは、粗末な昼食を済ませてすぐのことだった。たいして興味はなかったが、聞きなれた羽ばたきと耳うるさい鳴き声につられて、窓辺に立ったのだった。それからはひっきりなしに、夜にいたるまで古竜や飛竜が発着場に降りたっている。もっとも、すぐに飽きて窓から離れてしまったのだが。


 彼女は燭台の下で、けぶるようなサファイアブルーの目を瞬かせた。まだ成人の歳をいくつも超えていない、若く、美しい顔が明かりに照らされている。蝋燭ろうそくを節約して使うような生活を送ったことはなく、目の前に開いた本をもくもくと読みすすめていたところ、さらに塔の内部までが慌ただしくなってきた。


 ……王宮が騒がしいのは政変クーデターか、王がまた死にでもしたか。

 彼女はそのどちらも経験していたし、さらに政変のほうは自分でたくらみさえしたので、もはや珍しくもなんとも感じない。だが、幽閉の塔のほうもそれに合わせるように騒々しく兵士が行きかいだしたのは、いったいどういうわけなのだろう。


 ここは貴人牢なので、捕らえられたのは彼女と同じ貴族の一員なのだろう。だから、政変をまっさきに疑ったのだが、事件を起こしたのが果たしてオンブリアのどの貴族かと考えると判断に悩む。なにしろ思いつく人物が多すぎる。

 現王リアナは北部領主筋の名家の出身だが、王位に就くにはあまりに若く、政治手腕もほとんど未知数だ。政変を起こそうと思えば、それは朝食に卵料理を作るよりも易しいだろう。

 興味から、というより単に暇をもてあまして、彼女はクーデターを起こしそうな人物を列挙してみた。白い指がゆっくりと折られる。


 彼女の伯父で最大派閥のエンガス卿? ――いや、今このタイミングでは分が悪い。

 南部領主で王佐のエサル卿? ――これはありそう。なにしろ、伯父を通じて、エサル卿がひそかにエンガス派にくみしていることを知っていたから。利害関係の一致があってリアナ派の筆頭として王佐の地位にあったが、そもそもエサルは野心と無縁の男ではない。現王の体制にすこしでもほころびがあれば、王佐以上の実権を握ろうと思っても不思議ではない。


 それとも、王太子にして黒竜大公のデイミオン卿? ――これが一番ありそうかも。もしそうなら、それみたことかとリアナを嘲笑してやりたいものだ。短命に終わりがちだった三人の王を補佐してきた、名実ともにもっとも王位に近い男。王であるリアナに求婚したなどという噂もあったが、それもこれも全部、自分の王位のためだったというわけだ。


 ただ――と、彼女は細い首をかしげた。それにしては、姪を溺愛する伯父や身内からなんの連絡もないのが不可解だし、やはり、あまりにも警備がものものしすぎる。古竜の力を自在に引き出す竜騎手ライダーたる彼女には、たった一人の囚人のために二十名以上の兵士が配置されていることが読みとれていた。


〔いったいどういうことなのかしらね、サフィール〕

 自分の竜に呼びかけることは禁じられていたので、彼女は伯父の竜に〈ばい〉を送ってみた。……だが、意外なことに青竜サフィールは応答を寄こさなかった。膨大な意識いっぱいに集中して、だれかの生体反応を点検し、見守っている。

 オンブリアを竜の王国たらしめている、神にも等しい力を持つ五種の古竜。そのうちの青竜は、医術をつかさどる。

 ――城の中に、だれか、重傷を負ったものがいるんだわ。



 本はちょうど章の最後までたどりつき、今日はもう終わりにしようと考えているところで、階段のほうから足音とざわめきが聞こえてきた。静寂を破られ、美しい顔をしかめる。幽閉の暮らしの唯一のとりえが、誰に邪魔されることもない静けさではないのか? まったく、ばたばたと騒がしいこと。


「ですから、困る、と申し上げております、閣下――」

「わたくしの邪魔をしないで!」

「いくらお身内といえども、フィルバート卿への接見は認められておりません! お控えを――」

「あの子のことは、いいえ、いまは違うの。とにかく、に会いたいのよ。どいてちょうだい!」


 彼女はその声と内容に、また首をかしげた。塔は立ちがれた木のような外観をしており、上がるのも下りるのも、内部に通じる一本の階段を使うしかない。その階段を一番てっぺんまで登ってくれば、それが彼女の部屋なのだった。

 彼女が本を閉じ、書きつけの紙を引き出しにしまうと、ちょうど声の主が立てる音がやみ、扉の前に立ったのがわかった。見張り兵と、なにやら言い争いをしているのが聞こえる。鍵を寄こせの、どうだのと。


 がちゃり。錠の開く音がした。


 錆びついた扉が耳障りな音を立てて開き、兵士に両脇をはさまれて、来客が姿をあらわした。よく知った顔の貴族女性だったが、もう半年は顔を合わせていないだろう。自分を見て、一瞬息をのんだのがわかった。変わりはてた姿、とでも思ったのだろうか? いや、そんなはずはない。ここは貴人用の独房。朝になれば王宮から侍女がやってきて、彼女の銀髪を昔と同じに美しく結いあげてくれるのだから。


 来客――グウィナ卿は時候の挨拶もすべて無視することに決めたようだった。もちろんそうだ。ここに社交を求めてくる人間などいるはずがない。彼女も気どったそぶりはやめて、ただ顔だけをそちらに向けた。

 オンブリアの領主貴族たちを束ねる五公の一人にして、王太子の血縁でもある女性は、せっぱつまった声で言った。


「デイミオンが重傷を負ったわ。あなたの助けが必要なの、アーシャ姫」



 とらわれの元齋姫、アーシャは薄暗がりの中でものうげに微笑んだ。

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