1 雪と灰のなかの婚姻

1-1. オペレーション

 王太子デイミオンの部屋から出てきた小柄な男性に、グウィナが駆けよった。「エンガス卿……」


「グウィナ卿」ため息のような、ささやかな声だ。

「アーシャを呼んでいただいて、助かった。礼を言う」

 年を経た羊皮紙のような肌が、疲労のせいかいつもよりもさらに青白く、治療師である彼自身が倒れるのではないかと案じるほどだった。力ある五種の竜のうち、医術をつかさどる青竜のライダーの長であるダブレイン=エンガス・ニシュクは、五公の長老であると同時に国でもっとも優れた〈癒し手ヒーラー〉と考えられていた。今日、この夜までは。


 つい先ほど、グウィナと彼女の領兵たちが護衛するなか、アーシャ姫が貴人牢より連れてこられた。夕刻からデイミオンの治療に当たっていたエンガスは、姪にデイミオンの容態について引継ぎをして、部屋から出てきたところだった。


「いいえ……」

 グウィナは気ぜわしく拳を握ったり開いたりした。甥の容態が心配だったせいもあるし、目の前の老人になんと声をかけていいのかわからなかったせいもある。

 エンガス卿は五公十家の最大派閥として、現王リアナと陰に陽に対立していた。デイミオンは王太子として一応、彼らの側にいると目されているが、実際のところこの甥はリアナと敵対していない。それどころか、彼女の考えるところでは、彼らは深く愛しあっている。つまり、エンガスにとって、デイミオンは目下、最大の政敵となりうる人物なのである。


 そんな男性に大切な甥の治療を任せなければならない葛藤が、グウィナには強かった。


「ご案じなさるな」

 〈ばい〉の長期使用による痛みなのか、こめかみを指で押さえながらエンガスが言った。「どのような立場にあろうと、青竜を使役する者の責任はまっとうする。……それに、率直に言って、あなたの甥はオンブリア最大の軍事兵器だ。むざむざ死なせはせん」

「……でも、アーシャ姫は?」グウィナは不安に駆られた少女のようにスカートを握りしめた。「彼女は、デイミオンを恨んでいるのでは?」


「そうかもしれん。だが……」


 エンガスは扉のほうを見た。「弟のクローナンは、あの子の名付け親でもあった。私など足元にも及ばぬ優れた治療師であったが、その弟をして、自分を超えるライダーと言わしめたのが、アーシャなのだよ」


 ♢♦♢


 治療師の術衣を着たアーシャは、デイミオンの寝台の前に立った。


 義父エンガスと、その竜サフィールによって失血は止められ、呼吸と脈拍が一定に保たれるよう監視されている。


〔サフィア〕アーシャは自分の竜をんだ。〔損傷部位を、できる限り詳しく示して〕


〔イエス、マム〕若い雌竜は、彼女だけが使う奇妙な言葉で応答した。

 竜の力が脳に流れこみ、イメージを立ちあがらせる。淡いブルーの臓器、血液、それに破裂部分から漏れ出した汚染物質……

 義父と治療師の一団も、すでに同じことを済ませているはずだ。そのうえで、すでに手の施しようがないと判断している。


 、とアーシャは思った。青竜の偉大なる力は傷んだ臓器を修復できるが、外部からの治療には限界がある。これほど広範に臓器が損傷している場合は、本来、外科的治療が第一選択になるはずだ。

 とはいえ、彼女がその知識を得たのはほとんど古文書と言えるほど古い研究書からなので、はなはだ不安ではあった。同じ治療師である伯父に比べると、実技の経験にも乏しい。


(やってみる価値はあるのかしら?)

 成功すれば、王太子の生命を救った功労者として、恩赦が期待できる。失敗すれば、エンガス卿ともども政治的に葬り去られるだろう。そうはいっても、これほど困難な治療をやり遂げようと決意するほど、アーシャは自由を渇望しているわけでもなかった。むしろ、自分を取り囲むあらゆることに飽きて退屈していたと言ってもいい。

 だが、こうして大手術が必要な患者を目の前にすると、理屈抜きに治療の方法を組み立てている自分がいる。


 そんな自分の心の動きが興味深くもあったが、アーシャはひとまずそれを脇に置き、この手術に注力することに決めた。――まずは、損傷部位を同定しなければ。


「アーダルの、この男の次の後継者を呼んでちょうだい」

 アーシャは治療を手伝う呼び手コーラーの一人に命じた。しばらくしてコーラーが連れてきたのは、デイミオンと同じタイプの、つまり細身の熊のような壮年男性だった。


「お名前は?」

「……ヒュダリオンと申します、アスラン卿」

 アーシャは鼻にしわを寄せてうなずいた。叔父クローナンが彼女につけた名前は、古式ゆかしすぎてあまり好きではないのだ。「では、ヒュダリオン卿、アーダルとをお願いします」


「アーダルをすると?!」ヒュダリオンは真っ青になった。「甥は、それほど悪いのですかっ!? もう助からないのでしょうかっ!?」


 アーシャは顔をそむけて手をかざした。聞き間違いもそうだし、デイミオンそっくりの暑苦しい男の唾がとびそうで嫌だったのだ。

「まだ生きておられます」いやいやながら、そう説明した。

「生かしておきたいとお思いなら、アーダルに命じて、デイミオン卿の生体反応の管理と、損傷個所の同定をしてください。わたくしが指示したとおりに」


「はい、姫!」なんらかの希望を得たのか、ヒュダリオンは喜色満面になった。アーシャの手を握る勢いだ。

「なんのことかわかりませんが、とにかく恩に着ます、姫! 甥を助けていただけるのですなっ!?」


 暑苦しい、顔が近い、あの男そっくり、とアーシャは不快を感じた。

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