8-7. 戦争がはじまる
一羽のハヤブサが、ゆったりと旋回しながら、〈老竜山〉の中腹を見下ろしていた。
長い行軍の列が、まるで蟻のように小さく、規則正しく続いているのが見える。山の枯れ木に紛れて、彼らの鎧兜がきらきらと光を放っている。国境沿いにある人間の町、モレスクに目をやると、さらに攻城用の櫓なども見えた。ハヤブサは猛禽類の動きで首をかしげ、そちらに向かって高度を落としはじめたが、その聴覚は同時に接近してくるものたちを捕らえた。自分と同じような、数羽のハヤブサ――小型竜が、彼を追ってぐんぐんと近づいてくる。と、思う間にすでに視界の中だ。
ハヤブサは身をひるがえし、さっと北方へ向きを変えて飛びはじめた。背後の追っ手たちはしばらく、けたたましい声をあげてついてきていたが、国境を超えると姿が見えなくなった。
周囲の安全を確認し、ばさばさと羽音を立てて降下する。槍のような尖塔をめがけて舞い降りながら、ある一点で、ハヤブサの視点は入れ替わった。まるで、空と地面とが急にひっくり返ってしまったように、くるりと反転し、そこに突然、部屋が現れた。
「エサルさま」
従僕の呼びかけに、エサルはびくりと身体を震わせた。頬づえをついた腕の重みと、伸びかけた自分の顎髭の感触が戻ってくる。目に映るのは、壁にかかった巨大なタペストリーと、その前に遠慮がちにたたずむ従僕の姿だった。
「――呼んだか?」
「はい、閣下。エンガス卿がいらっしゃいました。お部屋にお通ししてよろしいでしょうか?」
「そうか」エサルは椅子の上で心もち姿勢を正した。〈
「すぐにお通ししろ。人払いも忘れるな。酒と食事は騎手長に持ってこさせるように」
部屋に入って来たエンガス卿は非礼を詫びてすぐに腰を下ろした。青白い顔に疲れがうかがえる。
「〈
エサルはうなずいた。王都と直轄地では、パンに生えるカビのように灰死病が静かに広がっている。〈
「モレスクに呼び集められた兵はおよそ三千。ガエネイスご自慢の対竜部隊も揃っている。移動中の兵が到着すれば、およそ六千近い大軍になります」
「こちらの備えは?」
「先月、王の前でご報告してから変わっていませんよ。国境警備兵が三百ほど、それにフロンテラの領兵が五百、うち
エンガスは疲れた様子で首を振った。「領兵が百、私の
エサルは舌打ちしたが、ほとんど自分へのいらだちのようなものだった。「でしょうな」
「猶予は?」
「一日半といったところでしょう」
老人は目をつむった。「時期を読まれておったな」
エサルは立ちあがって、たくましい肩をまわした。ぼきぼきと骨が鳴った。「まったく理解できない。黒竜の王こそ最大の抑止力ではなかったのか? なぜ、デイミオン卿が即位してすぐに、国境侵犯が起こるんです?」
「対竜兵器の完成にともなって、すぐに進軍してくるつもりだったのだろう」エンガスが言った。「メドロート公が殺され、リアナ陛下も不在となれば、白竜の恩恵が不安定となり、ひいては人間の国のごとく天候不順と凶作を招きかねない。ガエネイスはそれを読んでいたということだ。すでにアエディクラは飢えはじめている。われわれの備蓄が減る前に、食料と耕作地を手に入れたいのだろう」
「あのお嬢ちゃんの不在があだになるとは。予想外もいいところだ」
「そうだな」老大公は素直に認めた。『黒竜の王こそ最大の抑止力』というのは、エサルとエンガスのあいだでリアナを弾劾するための合言葉のようになっていたからだ。
騎手長が食事と飲み物を運んできた。エンガスには湯で薄めたワインが出された。老人はそれをひと口ずつ、時間をかけて飲み下した。若いエサルは、その仕草に妙な既視感をおぼえた。死んだ祖父がよくそういうふうな、薬でも飲むような飲み方をしていたのであった。
「リアナ陛下とフィルバート卿に追っ手をかけたのは、卿だな?」
ふいに核心をつかれ、エサルははっと身をただした。
「――ええ」
「なぜ殺そうとした?」
「あの娘はデーグルモールだ」エサルはうなった。「竜族の王が、あるいは王配が、
エンガスはカップを手にしたまま、悲しげにため息をついた。「いかなる異形に見えたとしても、〈血の
痛いところを突かれて、若領主は顔をそむけた。さしむけた追っ手はエサルのもっとも信頼する竜騎手たちだったが、すべてあの〈
「フロンテラの前の領主家はデーグルモールたちに惨殺された」エサルはなおも弑逆を正当化したいそぶりをみせた。
「あるいは、彼らこそデーグルモールであったかもしれぬ」エンガスは言ったが、本気でエサルを諫めようという風ではなかった。
「政敵は殺すものではない。
「それは、あなたの
エンガスはカップを置き、疲れきったようにつぶやいた。「そうだな」
「しかし、どのみち、もう計画する必要もない」
二人のあいだに重い沈黙が落ちた。
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