7 喪失

7-1. クローナンの亡霊


 結局、リアナが夜中に熱を出し、フィルは自分の言葉を守れなかった。

 

 

 目を覚ますと、手で触れそうなほど近くに砂色の髪があった。どうやら、フィルは彼女を看病しながら眠ってしまったらしい。すーすーと穏やかな寝息が聞こえる。頭と片腕だけを布団の上にのせて、身体のほうは窮屈そうに椅子に収まっていた。


 夜どおし看病していたフィルが、ときおり声をかけてくれたのをおぼえている。

 〈隠れ里〉を出てから長いあいだ知っているのに、この男が眠っているのを見るのははじめてかもしれない。英雄で竜殺しで、優しくて嘘つきで、言葉ではリアナを傷つけても、彼女のためになにを犠牲にすることも厭わない。矛盾だらけの男にリアナはそっと手をのばし、髪を撫でた。



 〈癒し手ヒーラー〉が来るという時間になってもフィルは目を覚まさず、起こすのもしのびなくて、リアナは寝台の上で来客を出迎えた。

 警戒しているのは、彼女にずっとつきそっていたフィルでさえ、治療中の〈癒し手〉を見てはいないと言っていたからだった。

『部屋が狭くなると妖精王に追い出されて、その間は外の見張りを……遠目に見た限りでは、竜族の男性のように見えましたが、フードを被っていたので』と、昨日は言っていた。



 ほどなくして、ツリーハウスの階段を登ってくる音に続いて、〈癒し手〉が現れた。フィルの言葉通り、縫いとりの入った紺の外套に、フードを目深にかぶっている。小柄な男性だ。青竜はいないと見えて、力を貯めておく術具をいくつか身に着けていた。


「わざわざ出向いてきていただいて、すみません」クッションを挟んで上半身を起こすと、少しばかり王の威厳をくわえた声音で礼を述べた。「わたしはリアナ・ゼンデンと申します。……あなたは?」


 フードからは細くて高い鼻すじと、老成した口もとが微笑んでいるのだけが見える。〈癒し手〉はなにも言わずに寝台に近寄ると、なぜかフィルバートの顔の近くで鼻を動かした。リアナは思わず、彼を守るように頭に腕をまわした。


「おやおや。音に聞こえた〈ヴァデックの悪魔〉も、さすがに疲れがたまっているようだ」男の声は高くも低くもなく、人を落ち着かせる力があった。「私はなにを見ているのだろうね? この男が女性の腕のなかで眠るところを見られる日が来るとは」

「失礼ですが……?」

 リアナが尋ねようとしたとき、フィルがはっと目をさました。重い金属がこすれる音。まばたきするよりも早く剣を抜き、〈癒し手〉の喉もとに突きつける。


「フィル! 剣を下ろしなさい」竜に命じるように、リアナが短く制した。そして、〈癒し手〉に向かって言う。「お顔を拝見しても?」



 〈癒し手〉がフードを取ると、黒髪碧眼の竜族の顔が現れた。見知らぬ顔だったが、どことなく見覚えがあるような気もしないでもない。フィルが息をのんだのがわかった。「どうしたの、フィル?」


「――クローナン王!」そう叫んで、慌てて椅子を降り、臣下の礼を取ろうとする彼を、男性がとどめた。


「よい。死者には王も臣下もないだろう。……久しいな、〈ウルムノキアの救世主セイヴィア〉、〈れ谷の鷲獅子グリフォン〉、〈剣聖〉フィルバート・スターバウ」リアナよりもはるかに王の威厳に満ちた声がそう言った。


「陛下、でも、あなたはもうお亡くなりになったはずだ……」フィルは幽霊を見たような声だ。

「クローナン王?」リアナはあっけにとられて繰りかえした。「だって……。どういうことなの?」


「リアナ王には、お初にお目にかかる」男性がローブを脱ぐと、軽く会釈をしてみせた。「本来なら、私の即位のときに王太子としてお会いしているはずだったのだが、あなたは行方が分からなかったからね」


 リアナはしげしげと男を見た。

 見覚えがある、と思ったのは、エンガス卿に似ているせいだった。痩せて小柄で、骨ばった貴族的な顔だちと、猛禽のような色の薄い瞳。違うのは髪の色が黒いのと、整えられた顎髭の形くらいだった。それでようやく思いだした。クローナン王は、エンガス卿の弟だったはずだ。


「じゃあ、本当に……?」

 もう何があっても驚かないと何度も思っているが、それでも死んだはずの人間を目にすれば驚く。思わず、〈竜の心臓〉のあるあたりに手を触れた。


「〈隠れ里〉にいたとき、ずっと〈ばい〉の絆を感じていた。それがある日なくなって、それから村が襲われて、フィルとデイがやってきて……」

 もちろん、その絆はあの秋の日に切れて、もうどこを探っても見当たらなかった。


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