49 過去・グラジオラス⑤

 

 別れの日。

 もう昼を過ぎて、身支度を整えた二人は、宿を出て乗合馬車の所へ向かっていた。

 アザレアをそこまで送り終えれば、グラジオラスに干渉できる事はもう無い。

 目的の場所に着いた後も、馬車が来るのを待つ間、アザレアに必要事項を説明した。

 ただの確認で、少しでも会話をしていたいという悪あがきだ。


 夜を共にしたが、アザレアが身ごもっているかどうかは、分からなかった。

 だが万が一ということは想定して、グラジオラスは金銭面での援助を申し出た。しかし、理由は彼女を買ったことに対する報酬だと、冷たく突き放した言い方をしてしまう。

 アザレアはそれを受け入れた。

 グラジオラスの未練がましい施しではなく、正当な報酬だと認識したから、アザレアは素直に金銭を受け取ったのだろう。

 しつこいと思われないように、なるべく遠まわしに、子供が出来ていたらグラジオラスの事を頼るようにと、仄めかしておく。

 アザレアは暗く笑った。


「それはありえません。子供は出来ないと思いますから、二度とご迷惑はお掛けしません。私、こんな体なので」


 これまでになく、きっぱりとした物言いだった。

 その言葉もやはりグラジオラスの胸を突き刺したが、せめてと思い、アザレアの住居の手配をすると言うと、それも断られる。


「お金も頂きましたし、もう、あてはあるんです。何も心配してもらうことはありませんから、どうか、私の事は気に留めないで下さい。私の居所も調べないで。会いに来ないで下さい」


 アザレアは疲れてぐったりとはしていたが、かつてないほど、生き生きとしていた。

 人生の目標を見つけたような顔だ。

 そこにグラジオラスが介入する隙間は無い。


「私を買って下さって、ありがとうございます」


 アザレアは頭を下げて、グラジオラスに礼を述べる。

 彼女は後腐れなく、と思っているのだろうが、グラジオラスはぐだぐだと暗い気持ちから抜け出せないでいた。


 段々と、馬車が近づいてくる音が聞こえる。

 グラジオラスにとっては、終わりが近づく絶望の音だ。

 最後にアザレアは、曇りのない笑顔で別れを告げた。


「さようなら、ジオ」


 今まで見た中で、一番魅力的な表情だった。

 グラジオラスはアザレアの笑顔に見蕩れた。喉を焼く感情を飲み込みながら、忘れまいと、馬車に乗り込む彼女を目に焼き付ける。

 アザレアは、馬車の窓から振り向くことも、手を振ることも無かった。

 馬車が走り出す様を、最後まで見届ける。

 世界から音が消えたようだった。

 ただ遠くなっていく愛しい人を、ずっと見つめる。

 やがて何も見えなくなって、時間が過ぎ去っても、グラジオラスは同じ方向を見つめ続けた。

 ふと、不快な感触が頬に当たり、手で拭う。

 そこで、自分が泣いている事に気が付いた。


(情けない……)


 グラジオラスは溜息を吐くと、涙で濡れる目元を乱暴に擦り、歩き出した。




 レユシット邸に戻ったグラジオラスを、弟のオーキッドが問い詰めてきたが、詳細は語らなかった。

 グラジオラスは普段通り振舞おうとしたのだが、どうすれば普段通りなのかも、頭が働かない。

 様子のおかしい兄を、弟が酷く心配するので、グラジオラスは一言だけ、本当の事をこぼした。


「失恋した」


 オーキッドは尚も聞きたそうにしていたが、グラジオラスはやんわり遮ると、自室に籠った。

 自分の事は、もういい。

 アザレアを好きになってしまって、他の女性と結婚したいとも思わない。

 オーキッドも、ビオラもいる。グラジオラスに子供がいなくても、何とかなるだろう。

 もし二人とも、グラジオラスのようになってしまったら、養子を取ればいい。

 親族であれば問題無いだろう。

 グラジオラスは寝台に体を横たえ、目を閉じた。





 静まり返った部屋に、歌声が聞こえる。

 はっとして、体を起こすと、声は聞こえなくなった。

 幻聴だ。


(どうかしている……)


 アザレアの歌だった。

 グラジオラスはまだ覚えているが、もう二度と、聞く事は出来ない。

 同じ時代、同じ国に住んでいるのに、彼女に会う事は出来ない。

 口ずさもうとして、やめた。

 アザレアの声を、自分の声で上書きしたくないと思ったから。


 ――会いに来ないで下さい。


 アザレアの望みは、叶えなければならない。

 グラジオラスは律儀に、彼女との約束を守り続けた。




 時は流れて、グラジオラスは自分に娘がいることを知る。

 愛する人の面影はないが、自分の子供であることは疑いようが無かった。

 娘との邂逅は喜ばしいものだったが、明かされた事実に、グラジオラスは深い絶望を味った。

 アザレアは亡くなっていたのだ。

 そのときの気持ちを、言い表すことなど出来ない。

 こんなに早く死んでしまうなら、囲っていれば良かった。

 憎まれても、蔑まれても、無関心だとしても、体の弱い彼女の一生に寄り添えば良かった。

 後悔してもしきれないグラジオラスは、残されたものが無ければ、失意の内に命を絶っていたかもしれない。

 だが、娘がいる。

 グラジオラスの知らない、アザレアを知る少女が。

 グラジオラスとよく似た容姿の娘と、アザレアが、どのように過ごしていたのか、知りたかった。

 アザレアの娘リナリアは、母に大切に育てられたようだ。

 リナリアの態度や、聞いた情報から、グラジオラスが知るアザレアとは思えないほど、彼女は娘に愛情深く接していたらしい。

 アザレアに対して、グラジオラスが持つ印象と、リナリアが持つ印象は異なる。


 リナリアはアザレアのように、体が弱いわけではないようで、少し安堵した。

 しかし、リナリアは声が出なかった。

 それが呪いによるものだと知り、何とか解いてやりたいと思う。

 グラジオラスには、生きる活力が芽生え始めた。

 愛しい人が産んだ娘のために何かしたい、力になりたい。

 一度深い絶望を味わった事で、振り切れたように、娘には優しい言葉をかけることが出来た。

 リナリアと、家族になりたい。

 父と娘として、一緒に暮らしたい。

 だが、リナリアはグラジオラスに好意を持ってはいないようだと、態度で分かった。

 グラジオラスは落ち込んだが、めげなかった。


 そして、掛け替えの無い宝を手に入れる。

 リナリアの歌は、グラジオラスが二度と聞けないと思っていたものだ。

 グラジオラスのための歌を、娘に歌わせたアザレア。

 彼女の本当の気持ちは分からないけれど、それだけで、グラジオラスは報われたような気持ちになった。

 目の前の娘が、たまらなく愛しく感じた。





 現在、グラジオラスは娘に宛てた手紙を書こうとしている。

 初めて会った時の別れ際、文通しようと約束したのだ。

 今度は、次に繋がる約束。

 今は手紙のやり取りでも、いずれは一緒に暮らして、直接話せるようになりたい。

 勿論リナリアは、筆談ではなく、本当の声で話すのだ。

 グラジオラスは未来に向けて着々と、呪いに関する情報を集めている。

 絶対に解けるという確信がある。それは決して遠くはないはずだ。

 その時が来たら、リナリアを迎え入れよう。


(さて、何から書いたものか……)


 手を止めて暫し悩むが、書きたいことはすぐに決まった。

 グラジオラスの好きな人達のことを書こう。

 グラジオラスが何を考えて生きてきたのか、分かるはずだから。

 オーキッドやビオラ、家族のこと。

 アザレアを愛したこと。


 そして、リナリアがいてくれて、どれだけ幸せなのかということを。



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