48 過去・グラジオラス④
子供の頃、一目見たときからずっと好きだった。
アザレアを手放したくない。
たとえ、彼女が自分の事を想っていなくても。
アザレアとの心の距離に、グラジオラスは打ちのめされていた。
長い時間説得したが、アザレアは首を縦に振らない。
断られるごとに、どんどん嫌われている気がする。
アザレアは全く表情を変えず、グラジオラスが話しかけても、言葉を発してくれなくなった。
グラジオラスは心臓がキリキリと締め付けられるような、胸の痛みに耐える。
今まで流されていたように見えた彼女は、実は、明確な意思のもと行動していたのだろうか。
ならば、彼女が頑ななのは、アザレアの中に、グラジオラスと共に生きる選択肢は存在しないということなのか。
やろうと思えば、無理やり連れて行くことも出来る。
だがそれをしてしまうと、もう心の乖離は修復不可能なまでになってしまうだろう。
最初から嫌われていたとしても、バントアンバーの娘を無理やり娶った、かの王と同じにはなりたくなかった。
アザレアの目が、グラジオラスを責めているように感じる。
ああ、貴方も同じなのね、と。
「私の名前は知っているか」
グラジオラスはアザレアに聞いた。
一応昔会っているので、今更言う必要は無いと思っていた。
だが宿に連れてきてから、アザレアに名前を呼ばれたことは無い。
子供の頃、お互い名乗ったことがあったが、再会した時のアザレアの様子から、もう一度名乗ったほうが良いかと思う。
やはり、アザレアはグラジオラスのことを覚えていないのだろう。
そう考えるとまた、切なくなる。
グラジオラスは、彼女を忘れたことなどない。
アザレア・バントアンバーの事を。
彼女からすれば、グラジオラスを好きになる理由などないだろうが、それでも、全く関心を向けられないことは酷く悲しい。
まるで眼中にないのだと、思い知らされる。
グラジオラスの問いに対して、アザレアの答えは、意外なものだった。
「……ジオ、様」
小さな声は、グラジオラスに衝撃を与えた。
レユシット、と家名を呼ぶでもなく、グラジオラス、と名前を呼ぶでもなく。
この場で愛称を呼ぶというのはつまり、アザレアが過去の出会いを覚えているということ、他ならなかった。
グラジオラスは困惑した。
まるで覚えている素振りはなかった。
嬉しいはずなのに、喜んでいいのか分からない。
グラジオラスが聞かなければ、彼女は過去の話など持ち出さなかったように思う。
アザレアの表情は変わらない。
黙ったまま、暫く見詰め合った。
彼女の無関心さが、さらに浮き彫りになっただけだ。
過去の光景、正確には声、だが、それをグラジオラスは思い出す。
アザレアが、暴力を振るう父親に対して、怯える様子も憤る様子も無かった事を。
父親の事も、どうでもよかったのかもしれない。
グラジオラスと、アザレアの父親と、バントアンバーの家名を与えた王。
どれもアザレアにとっては、等しく無価値なのだ。
そう思えてならなかった。
「……アザレア」
恐らく、アザレアの心を動かすのは無理だろう。
長い時間をかければいい?
いつかは好きになってもらえる?
嫌がる女性を無理やり連れ帰ったとして、家族がどう思うかは分かりきっている。
グラジオラスは、レユシット家の次期当主なのだ。
反対されるのは目に見えているし、別の女性と結婚させられるかもしれない。
そうなれば、アザレアは本当に愛人だ。
グラジオラスにとっては、唯一の人なのに。
彼女が愛しい。
アザレアの心が欲しい。
(君のことが好きなんだ、アザレア……)
苦しかった。
幸せにするとは言えない。
誰も幸せにはなれないのだ。グラジオラスでさえ、アザレアの愛を得られなければ……。
グラジオラスは、周りに反対されながら、アザレアを一人囲い続ける未来を想像した。
この先ずっと、誰からも祝福されずに、最愛の人からも嫌われ続ける。
いつか精神を病んでしまうだろうな、と思った。
それはアザレアかもしれないし、グラジオラスかもしれない。
(私を好きになって欲しい)
こみ上げる思いを、口に出すことは出来なかった。
言っていれば、何か変わっていたのだろうか。
グラジオラスが本当に、心の底から、アザレアを愛していると。
気持ちがあれば、隣にいることを許してくれたのだろうか。
「……今夜が最後だ。だから」
喉の奥が乾いて、声が掠れそうになる。
最後の思い出に、なんて、まるで女性側の心境だ。
荒れ狂う心を悟らせないように、声が震えないように。
情けない話だが、失恋の痛みに、今にも泣き出してしまいそうだった。
冷淡な声で、グラジオラスは告げる。
「私を拒むな」
言葉とは裏腹に、優しい口付けを落とした。
別れを惜しむように、感情を飲み込むように、アザレアを抱きしめる。
彼女からの反応は無い。拒みもしない。
横抱きにしてベッドに運び、力の無い体を押し倒す。
アザレアの瞳は、相変わらず、何も映していないように見えた。
それでも、愛している。
(……愛している)
「……私の名を呼んでくれ」
アザレアの頬に手を滑らせた。
これが本当に最後だと、自分に言い聞かせて。
「これが最後だから……アザレア……」
それは初めて口に出した、素直に懇願する言葉だ。
アザレアは一つ瞬きした。
「ジオ様」
「様はいらない」
アザレアはグラジオラスの言う通りにする。
「……ジオ」
それが合図だった。
愛しい女性を抱きしめてまどろむ。
明け方まで起きていて体が眠気を訴えていても、眠りたくなかった。
深く寝入っているアザレアの顔をずっと見ていたい。
彼女が起きたら、別れの時間だ。
いっそ目覚めないでくれ、とまで思う。
彼女は体が弱い。
負担をかけないようにするのは難しいが、なるべく優しくした。
だが、少しでも目覚めるのが遅くなればいいと、思っていたのも事実だ。
何度もアザレアに名前を呼ばせた。
ずっと覚えているように。
いつか、再会する日が来れば、また呼んでもらえるように。
それだけが、グラジオラスの希望だった。
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