47 過去・グラジオラス③

 

 中年の女性――女主人らしい――は、グラジオラスの言葉に「はい?」と間抜けな声を出す。


「聞こえなかったか。この女性はいくらだ」


 女主人は、はっとして、「いえいえ、お客様! 買うなら、もっといい子がいますよ! この子じゃ満足されないかと……」と言い出したが、グラジオラスは途中で遮る。


「ここで一晩買いたいわけじゃない。買い取って、連れて帰りたい。まだ誰の手もついていないのだろう?」


 自然と底冷えするような声が出ていた。

 自分でも、何故こんなことを言っているのか分からない。

 理由があるとすれば……期待を裏切られたからだろうか。

 生きていて、再会できて、嬉しいはずなのに。

 迎えに行けば、助け出せば、アザレアが喜んでくれるとでも思っていたのだろうか。

 アザレアは、グラジオラスを見ても驚かなかった。

 自分がここに来ることを、予想していたはずはない。彼女はグラジオラスを見ても何も思わなかったのだろう。

 無関心すぎる。

 グラジオラスのことを覚えているのかさえ、微妙なところだ。

 散々人に言われて、自分の顔は印象に残るだろうと思っていたが、余りの滑稽さにむなしくなる。

 素直に、会いたかったとは言えなかった。


 グラジオラスは手持ちの金を、女主人に握らせた。

 相場よりもかなり多いはずである。


「足りないか?」


 グラジオラスが単調な声で言うと、その迫力に女主人は言葉も出なかったようで、激しく首を横に振った。

 恐らく「滅相も無い!」と言いたいのだろう。


 女主人を退けると、グラジオラスはアザレアに近づいた。

 会話は聞こえていただろうに、この期に及んでも、彼女は何も言わない。

 妙な自尊心が邪魔をして、自分の事を覚えているかどうか、尋ねることが出来なかった。

 グラジオラスは、抱きしめたい気持ちを誤魔化すように、アザレアを横抱きにして持ち上げた。

 こうすれば、自然と彼女に触れられると思ったのだ。


「では、この人は買い取った。私の好きにさせてもらう」


 それは女主人に向けた言葉だったが、アザレアに言い聞かせる言葉でもあった。



 グラジオラスは、オーキッドの前では割合素直だが、基本的には捻くれ者だ。

 アザレアを前にして、気のきいた言葉など言えるはずも無い。


 店を出て、アザレアを抱えたまま歩く。

 少し離れた商業地に、予め宿を取ってあった。ひとまずそこへ連れて行くつもりだ。


「あの店で働くのがどういうことか、分かっているのか」


 つい責めるような口調になる。

 アザレアは小さく頷いた。

 一応反応があったことに安堵して、グラジオラスは続ける。


「不特定多数を相手にして、少ない額を稼ぐくらいなら、金払いのいい一人に絞れ」


 実際どう思っているかはともかく、グラジオラスは勝手に、アザレアが「どういう意味だ」と疑問に思っているだろうと、説明を付け加えた。


「私が君を買ってやる」


 それは愛人にすると言っているのと同じだったが、素直になれないグラジオラスの気持ちを代弁するならば、「好きだから一緒にいてくれ」という意味であった。


 アザレアは何も言わなかった。


 旅程の全ては、アザレアと過ごすための時間だ。

 宿の寝台で、アザレアはグラジオラスを拒まなかった。

 女主人は、アザレアが客をとるのを嫌がったというような事を言っていたが、グラジオラスが触れても、嫌がる素振りは全く見せない。

 かといって、喜んでいる様子もまるでなかった。

 アザレアの気持ちが分からない。

 グラジオラスだからなのか、それとも、すべて諦めているのか。

 前者なら良かった。そこに好意があれば、こんなに嬉しいことは無い。

 だがアザレアの態度は、投げやりになっているように見える。

 グラジオラスだから受け入れたのではなく、一人を相手にしたほうがましだと、グラジオラスが言ったとおりに受け取ったのだろうか。

 好きな人は、グラジオラスを見てはいない。

 虚しさばかり募る。

 思い続けた女性を前に、情念を散らして、欲望に耐えることは出来なかった。

 どうせグラジオラスが来なければ、他の誰かに買われていたのだからと、自分に言い訳をして、彼女に触れた。

 肌を重ねた時のアザレアの声だけが、彼女を自分の物に出来たように感じさせた。

 言葉では気遣ってやれない。だが行為はひたすら優しく、アザレアを労わった。

 大事に、壊れ物に触れるように、指に愛しさを乗せて接した。

 無関心なくらいなら、いっそ嫌われるほうがいいと考える人もいるようだが、グラジオラスは、無関心な彼女に、せめて嫌われたくなかった。

 行動では示せても、口は素直に動いてくれないけれど。



 旅程は長い。

 日が経つにつれ、アザレアは少し喋ってくれるようになり、普通に会話をするようになった。

 お互いをどう思っているか、そういう話はしなかったが、何か聞けば返事をするし、呼べばグラジオラスを見つめる。

 彼女の気持ちは未だに読めない。

 恋人とも言えない関係で、好きだということも言えない。

 だが、段々心を開いてくれているような気はしていた。

 その理由の一つが、歌だった。


 アザレアの好きなものは何だと聞けば、歌だと言う。

 特別上手な訳ではないが、作ることと、歌うことが好きなのだと。

 もちろん、グラジオラスは歌をせがんだ。

 歌ってほしいと素直に言うのではなく、「君が歌いたいなら、好きにすればいい」というような言い回しなので、実際に歌ってくれるまで時間が掛かったが。

 アザレアの歌は、優しい響きがした。

 度々歌ってもらう内に、アザレアは自分からも、「新しい歌を作りました」と声をかけてくれるようになった。

 どの歌も好きだったが、ある日アザレアが歌い終わった後に言った言葉は、グラジオラスの胸を焦がした。


「今のは、貴方の歌です」


 最初は意味が分からなかった。

 だが、アザレアの言動を振り返ってみて、すぐに気付いた。

 アザレアが、グラジオラスのための歌をわざわざ作ってくれたのだ。

 彼女にとっては、何でもないことなのかもしれない。

 だがグラジオラスの耳に、心の一番大事な所に、その歌はいつまでも残った。



 いよいよレユシット邸へ帰らなければならなくなった頃、グラジオラスは懲りずに、まだ次があるつもりでいた。

 帰る時には当然、アザレアを一緒に連れて行くつもりだった。

 しかし、今まで流されるようにグラジオラスを受け入れていた彼女は、ここで強く拒否を示す。

 もう関係は終わりだと、二度と会わないとまで言う。

 彼女は頑なだった。

 理由が分からなければ納得できないと、グラジオラスは食い下がる。だがアザレアの意志は固く、何度も問い詰めた末、彼女はやっと一言、理由を明かした。


「貴族なんて、大嫌い」


 それは小さな声だったが、静かな部屋によく響いた。

 かつてアザレアの父親がこぼしたのと、同じ言葉だった。

 彼女はそれ以上何も言わなかったが、グラジオラスはそれだけで全て分かった気がした。

 バントアンバー家の娘は、王に見初められて、無理やり嫁がされた過去がある。

 そして、貴族社会では冷遇されていたのだ。

 アザレアも結局売られ、挙句、貴族の男ーーグラジオラスに買われた。


 何が違うのだろう。

 アザレアの状況はまさに、バントアンバーの娘だ。

 グラジオラスは有数の貴族で、アザレアのような娘一人どうこうした所で、咎める者はいない。

 アザレアを守る人は、誰もいない。

 そんな中で、また貴族に囲われるのは、彼女にとって、苦痛でしかないだろう。

 アザレアは、グラジオラスを信用してはいないのだ。

 いずれ酷い目にあわされると思っているのかもしれない。

 いや……すでにしている。

 アザレアがグラジオラスを拒まなかったのは、抵抗しても無駄だと思ったからではないのか。

 もっと酷いことをされると、思ったのではないか。


 グラジオラスには、家名を捨てて一緒に生きようと言える勇気は無かった。

 彼の思いは、あまりに一方的だったから。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る