38 アザレアの歌
滞在三日目になった。
移動を含めて七日間ほどを予定しているので、まだ半分ほどだ。
リナリアには今日、やりたいことがあった。
そのためにオーキッドへ頼み事をしようと、彼の姿を探して歩き回る。
途中、グラジオラスにばったり会った。
昨日のこともあり、あからさまな態度は良くないと思い、軽く会釈する。
そのまま通りすぎようとしたが、呼び止められたので、仕方なく振り返った。
まだ笑顔を向けるのは難しい。
リナリアの不機嫌そうに見える顔も、それはそれで可愛らしいので、相手に不快感は与えなかった。
リナリアの僅かな変化に気付いたグラジオラスは、ここぞとばかりに話し掛けてくる。
リナリアは若干聞き流しながら、ふと思った。
オーキッドは休暇中らしいので構わないのだが、グラジオラスが毎日屋敷にいるのは大丈夫なのだろうか。仕事をしていないという事は、無いと思うのだが。
わざわざ聞くのも面倒なので、まあいいかと、疑問はそのままにしておいた。
「ところで、君に掛けられた呪いのことなんだが、解く気はないか? 出来れば協力したいんだが……」
話の流れで、グラジオラスが同じような調子で言うものだから、うっかり聞き逃すところだった。
本気で言っているのかと、俄には信じられず、グラジオラスを見上げる。
「まだ、調べている途中だが、必ず君の助けになる。だから……」
饒舌に話し続けていたグラジオラスが、急に言い淀んだ。
「今すぐとは言わないから、これからも、このレユシット家で暮らしてもらえないだろうか……」
受け入れてもらうのは難しいと、理解しているような言い方だった。
リナリアは、心底不思議に思う。
悪い人には思えなかった。
彼は、どうやって母と出会い、どの様な時を過ごしたのだろう。
母は、別れなければならなかった彼と、どうして関わったのだろう。
グラジオラスは、リナリアの知らない母を知っているのだ。
母を想っていたように感じさせるグラジオラスに、一体どんな事情があったのか。
気付けばリナリアは、彼にも会いに来れない理由があったのではないかと考えていた。
そうでなければ、自分に言い訳が立たない。
グラジオラスに心を開く、言い訳が。
父の事を知りたいと思った。
だが、考える時間がほしい。
リナリアは、今度は深く頭を下げて、その場から立ち去った。
広い屋敷の、廊下を歩く。
オーキッドが見あたらない。
道をよく覚えていないので、あまり無闇に歩き回ると、迷ってしまいそうだ。
うろ覚えに進んで行くと、見覚えのない扉で行き止まる。
此方ではない、と来た道を引き返した。
……つもりだったのだが、どこまで歩いても知らない廊下である。
案の定、迷ってしまった。
(だって、広すぎるんだもの……!)
誰に向けてか、心のなかで言い訳しながら、人がいないかと、辺りを見渡す。
屋敷の広さに対して、人数が少ない。
リナリアの視界に、使用人を見つけることは出来なかった。
(どうしよう……)
自分の不甲斐なさに落ち込みながら、あてもなく歩く。
こうなれば、誰かに会うまで、知っている道を探すしかない。
絨毯が敷かれた長い廊下を進む。
屋敷は静かだ。
どこかの扉を開ければ、突然騒がしい空間に出るのかもしれないと、空想しながら足を動かす。
……何だか、ほんの少しだけ楽しいかもしれない。
隣にカーネリアンがいれば、もっと良いのに……と、自然に考えてしまう自分に、苦笑した。
知っている道は見当たらなかったが、暫くすると、広場に出た。
吹き抜けではなく、その広場だけで隔離されている。ガラス張りの空間が、庭の一角に突起状に出ていた。
庭に面した壁は全てガラスで出来ているため、木々の緑がよく見えた。床は絨毯だが、雰囲気は温室に似ている。
広いが、壁際に椅子が設置されているだけの、何もない場所だった。
(何をする部屋なのかな……?)
リナリアの他には誰もいない。
目の前に庭が見えるのに、防音がされているらしく、風も、何の音も聞こえなかった。
静寂に包まれた室内は、音がよく響きそうだ。
リナリアは振り返って周りを確認した。
(誰もいない、かな)
オーキッドを探していたのは、許可を取ることと、場所を貸してもらうためだった。でも、少しくらいなら……と、リナリアは唇を開く。
(叱られるかしら……)
不安はあったが、欲求には抗えない。
リナリアは、大きく息を吸い込んだ。
何日か振りに、歌声を響かせる。
美しい声は、どこまでも伸びやかに、空気を震わせた。
声を出すのは、心地よかった。
久しぶりに歌ったら、少し気分が上向いた。
グラジオラスは、本気で呪いは解けると思っているのだろうか……
もし話せるようになったら、まずどうしようか。
きちんと、声に出して、フリージアに謝罪しよう。
カーネリアンには、ずっと一緒にいてくれたこと、今までのお礼を言おう。
それから、きっとフリージアとは恋人になっているだろうから、リナリアのことはもう、大丈夫だと……
そう、いつかは、言わなければ。
カーネリアンに甘えてばかりはいられないのだから。
楽しげな歌を選んだつもりだったが、歌い終わりは、リナリアの感情をのせて、哀愁を帯びていた。
街に帰ったら、カーネリアンの隣には、もうフリージアがいるのかもしれない。
あの街には、母との思い出があるが、それは悲しい記憶も伴う。
リナリアを留めているのは、カーネリアンの存在だけだ。
リナリアの中で、カーネリアンの存在は大きすぎた。
グラジオラスの言葉が頭を巡る。
ここにいたほうが、恋心を切り捨てられるのだろうか……。
リナリアの心は揺れていた。
グラジオラスは陶然として、リナリアの歌声に聞き入っていた。
決して、リナリアのあとをつけていた訳ではない。
ただ、リナリアが何処に向かうのか気になったので、行き先だけ確認しておこうと思っただけだ。
しかし、いつまで経っても特定の場所に辿り着く様子ではないので、もしや迷っているのでは、と心配で見ていたのである。
一応、あとをつけていたと思われるのは嫌なので、気配を消し、細心の注意を払って見守っていた。
そうして暫くして、ガラス張りの広間に辿り着いたリナリアは、美しい声で歌い上げたのだ。
これほどすばらしい歌声は、聞いたことが無い。
歌唱力は比べるまでもないが、アザレアも歌が好きだったことを思い出す。
リナリアの歌は、アザレアに通じるところがあるのかもしれない。
母と娘の共通点を見つけたことが嬉しくて、笑みがこぼれた。
グラジオラスは上手く隠れていたのだが、再びリナリアが歌い出した時、その音が耳に届いた瞬間、ただ立っていることが出来なくなった。
足が勝手に動きだす。
足音に気付いたらしいリナリアが、歌うことをやめて、振り返ってしまった。
「歌っていてくれ!」
グラジオラスは懇願する。
必死な様子を見て、リナリアは戸惑いながらも、言われた通りに続きから歌い出した。
グラジオラスがじっと見つめているので、少し気まずげにしていたが、彼女は最後まで歌いきった。
歌ったあとは、頬が熱い。
リナリアは深呼吸して、目線を上げた。
ぎょっとする。
目の前の男性は、瞬きもせず、涙を滂沱と流していた。
リナリアが動揺して固まっていると、彼は、リナリアの方へ踏み出してくる。
二人の間の距離が詰まった。
彼は、戦慄く唇で、リナリアへ向けて言葉を紡いだ。
「きみは……」
突然、グラジオラスに抱き締められた。
彼は震えながら、泣いている。
触れられる事に、不快感は感じなかった。
「アザレアの歌を、歌えるんだな……」
リナリアは、何のことかすぐに理解した。
今歌ったのは、母が作った歌だ。
特に今のは、母の思い入れも深く、よく歌ってくれたものだった。
リナリアのために作られた歌ではないことは知っていた。
幼い頃、「これはリナリアの歌よ」と、一つ一つ教えてもらったから、疑問を持ったのを覚えている。
じゃあ、これは誰の歌なの? と。
母は「これは特別なのよ」と曖昧に笑った。
ああ………そうか………
彼の歌だったのか………
これは、グラジオラスの歌だ。
母、アザレアが、愛しい人のために、リナリアが生まれる前に作った歌だ。
泣いてしまうのも、無理はない。
彼は、きっと、母と別れたその時に、もう二度と聞くことはないと思っていただろうから。
グラジオラスの、母への愛情を痛いほど感じた。
こんなに、彼が痛がっているのだ。
リナリアは父を抱き締め返す。
抱き締められる力が強くなった。
あんまり泣かれると、つられてしまう。
リナリアまで涙が出るのは、何故だろう。
きっと、母も愛されていたことが、嬉しいからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます