30 オーキッドの手紙
高い塀に囲まれた豪奢な邸宅が、等間隔に建っている。
塀の前の道は、大きな馬車が数台並んで走れるくらいに、広く整然としていた。
王宮からほど近くにある、貴族の住まう高級住宅街である。深夜ということもあり静まり返っていた。
晩餐の時間も終わりを告げ、もうすぐ、一番遅くまで仕事をしている使用人が就寝する頃だ。
小石が転がる音も大きく響く静寂に、小さな音が混ざった。がらがら、と段々音は大きくなり、地面を蹴る馬のひずめと車輪の回る騒音が、立ち並ぶ邸宅の前を通り過ぎては細くなっていく。
二人程度しか乗れない、小さな馬車だ。小ぶりで地味な外装のため、あまり目立たないが、作りは頑丈で、内装も豪華な一級品である。
やがて馬車は失速する。
止まった先の豪邸が、レユシット家だ。
御者が扉を開けると、男が一人馬車から降りた。
主人の帰りが遅いため、屋敷は、まだ煌々と照明が灯っている。
塀から邸宅まで距離がある。男はレユシット邸の入口へと向かって歩き出した。
「おかえりなさいませ」
使用人が頭を下げて出迎えた。事前に、いらないと言ってあったのだが、数人は残っていたようだ。
「グラジオラス様、今回はいかがでしたか」
丁寧ながらも、気軽さを匂わせて、老執事が問う。
答えが分かりきった、定番の問いかけだった。
質の良いコートを脱いで、老執事に渡しながら、いつも通りの言葉を返す。
「どうも何も、ただの付き合いだ。私のような若くも無い男は、義理を果たせば帰ってくるさ」
はき捨てるような声には疲れが滲んでいるが、憤りはない。
コートを受け取った使用人頭は、わざとらしく落胆してみせる。
「今回もですか……何処かによいご令嬢はいらっしゃいませんかねえ。グラジオラス様の奥方にふさわしいような……」
「何度も言うが、今更若い娘を娶る気は無い。若くなくても無い。跡継ぎは、養子をとると決めている」
いつもとほぼ変わらないやり取りだったが、老執事は、最近の主人がどこか気落ちしていることを知っていた。
最近と言うか、数年も前から。
「グラジオラス様、寂しいのは分かりますけれど、子供じゃないんですから」
「……何の話だ」
「オーキッド様が家を出てから、以前にもましてむすっとしていますよ」
「……」
自覚があるだけに、グラジオラスは言い返せない。
弟のオーキッドが家を出て、数年経つ。
オーキッドは主に王都で活動しているので、会えないこともないはずなのだが、彼はあまり家に寄り付かない。
理由を尋ねても、仕事が充実していて忙しい、としか言わない。
大切な弟のことは応援してやりたいが、もっと顔を見せに来て欲しいとも思う。
「ところで、オーキッド様から手紙が届いております」
「それを早く言え」
老執事が差し出した封筒をひったくると、立ったままその場で開封する。
手紙に目を通すと、グラジオラスは目を細め、わずかに微笑んだ。主人の穏やかな変化に、老執事も安心して、グラジオラスを待つ。
やがて、グラジオラスが若干眉を寄せたので、何かあったのかと思っていると、どこか不機嫌そうに理由を明かされる。
「近いうちに、紹介したい人がいるそうだ。文面からすると、女性だな」
「……グラジオラス様、先を越されましたね」
「待て。そうと決まったわけじゃない……」
グラジオラスは否定するが、声は弱弱しい。
紹介したい女性がいるということは、おそらく、結婚相手としてだろうと思う。
老執事は、半信半疑だった。オーキッドも長らくそういった話がなかったので、てっきり兄と同様、結婚する気がないものと思っていたのだが、知らぬ間に相手を見つけていたとは、意外である。
しかし、心に支える問題があった。
「ビオラ様が心配ですね。果たしてオーキッド様が女性を連れてきて、平静でいられますでしょうか」
「……ビオラは、もともと大人しいだろう」
グラジオラスの返答は、答えになっていない。
ビオラとは、グラジオラスの実の妹で、オーキッドの義理の妹だ。
昔から、ビオラはオーキッドによく懐いていた。オーキッドとビオラが親しくなってからは、ビオラはグラジオラスとも打ち解けて話すようになった。
傍若無人な、高慢な貴族そのものといった態度のグラジオラスを、ビオラは苦手としていたが、オーキッドといるときの兄の姿に、警戒は次第に薄れていき、共に過ごす時間が増えたことで、すっかり心を開いていた。
グラジオラスとビオラの関係はいたって良好なものだが、オーキッドに対しては、ビオラは懐きすぎている。
ビオラがいる限り、オーキッドは結婚できないのでは、と心配していたのだが、彼は一人家を出たので、そんなことも無かったようだ。
問題はビオラである。
大人しく、無駄口をきかないもの静かな女性だ。オーキッドの前では、少しお転婆を見せていたが。
ビオラにも縁談はくるのだが、彼女も結婚していない。縁談を拒否する理由は明言されていた。
「キッド兄様より素敵な男性ではないから」と。
グラジオラスはいよいよ心配だった。
実を言えば、長い間あらぬ期待をしていたために、ビオラが嫁ぎ遅れてもあせってはいなかったのだ。
こうなる前に、相手を見繕ってやればよかったと、グラジオラスは後悔した。
オーキッドの手紙には、まだその女性を連れて行けるかは分からないと書いてある。
彼は今、王都の隣街に滞在しているらしく、返答待ちでしばらく留まっているとのことだ。
説得に時間がかかっているらしい。
グラジオラスは、相手がどんな女性か想像した。
あの弟を射止めた女性。兄から見ても、オーキッドは見た目も性格も申し分なく、昔から自慢の弟だ。弟だと思っているが、親友だとも思っている。
手紙に、相手の情報はほとんど無い。年齢も分からない。とりあえずオーキッドと同世代の女性だとして、すぐに話が進まないのは、貴族ではないからだと思った。
女性のほうが、レユシット家という貴族に尻込みしているのだろう。
弟には離れて暮らして欲しくないので、結婚するなら出来れば屋敷に戻ってきて住んで欲しいと思う。
オーキッドの選んだ人ならば、間違いはないだろうが、妹は良い顔をしないかもしれない。
追い出すつもりではないが、先に妹の結婚を早めたほうが、無駄な争いを生まないのではと、グラジオラスは考えた。
頭の痛い問題である。
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