15 アザレアの夢

 

 自分の手を、誰かが握っている感触があった。

 ゆっくり瞼を上げると、寝台に男性が浅く腰掛け、自分を見ている。

 瞬時に、夢だと理解した。

 ここに居るはずのない人だったから。

 男性は見たことのない穏やかな表情で、優しく頭を撫でてくる。

 あの人は、こんなことをしない。

 これは自分の願望が見せる、ただの夢だ。

 分かっていても、心は幸福につつまれる。

 男性は目を合わせ、低く落ち着いた声で、望んだ言葉を告げた。


「会いたかった。アザレア」


 夢でも、もう彼は会いに来てくれないと思っていた。

 安らかに死ねるとしたら、今がいい。

 ああ……幸せだ。







 病院に運ばれた母は、何日も眠り続けた。

 意識は一度も戻らず、毎日見舞うリナリアは憔悴していく。

 カーネリアンと神仕えも、時間に都合をつけて病院に来て、リナリアを励ました。

 高度な医学が発達しているわけではなく、リナリアも母の体がどのような状態なのか分からなかった。

 ただ、医者には、もう目を覚まさないかもしれないと言われた。

 何も考えられなかった。


 段々と痩せていく母を見ていて、ある時、リナリアは思った。

 これは罰なのではないか。

 自分の過去の行いのせいで、母は目覚めないのではないか。

 反省したところで、神様の怒りはおさまらない。

 自分は、たった一人の家族を取り上げられるほど、悪いことをしたのだろうか?







 神仕えが病室を訪れた時、リナリアは静かに泣いていた。

 虚ろな瞳で、母を見つめる姿は悲愴としか言えない。

 めったに泣かないリナリアが、全てに絶望したように流す涙は、見る者に彼女が限界である事を知らしめた。


 神仕えは、リナリアの側へ寄ると、彼女の肩にそっと手を置いた。


「リナリア……」


 リナリアは神仕えの声聞くと、弱々しく首を振る。

 彼女の心は、弱い。

 自分を守ることすら出来ない。


「今、何を考えていますか?」







(……何を?)


 自分が居なければ良かったのだと、自身を追い詰めていたのだ。

 無意識に神仕えの袖を掴む。


(私が悪いんです。神仕えさま、どうすれば私は、神様に許されますか?)


 口を開いても、言葉は出てこない。

 罪の証のように。


 神様に許されたい。

 言葉を取り戻したい。

 言葉を尽くして、これまでの謝罪と、感謝を伝えたい。

 もし、許される時がきたら、カーネリアンに、好きだと言いたい。

 カーネリアンが、どれだけ心の支えだったか、救われてきたか、何度言葉にしても足りない。


 悲しみと、恋情と、様々な思いが込み上げてきて、解放されずに喉元に留まる。

 破裂しそうなほど痛い。

 押さえきれなかったものが、両目からボロボロと零れる。


 気持ちを声に出して、楽になりたいのに。


(私には、その資格もないの……)


 慟哭した。

 声は聞こえない。


「リナリア……自分を責めることはないのですよ」


 優しい言葉に、涙がいっこうに止まらず、両手で顔を覆った。

 神仕えは布を取りだし、控えめに顔に近づけてくる。

 神仕えは、布に涙が染みていくのを見ながら、俄には信じられない事を言った。


「呪いと祝福は別物です。話せなくても、貴女の加護は失われていません。呪いは言葉を封じましたが、貴女の神様は、歌声を守って下さいました」


(加護は、失われていない……?)


 意味が分からず、徐に神仕えの顔を見た。

 涙で滲む視界に、慈しむ微笑が映る。


「歌ってごらん、リナリア」


 深くは考えなかった。

 病室は静かにしなければ、だとか、声が出るはずがないとか、一瞬思考を過るが、ほんの小さな期待にかき消される。

 半信半疑のまま、自分の鼓動ばかりが大きく聞こえた。


 リナリアは、そっと息を吸い込んだ。







 澄みきった美しい声が、病室に響き渡る。


 控え目だったそれは、やがて歓喜をまとい、大きくなっていく。

 久しく歌っていなかったが、天使の歌声は健在だった。







 現金なものだと、リナリアは自嘲した。

 加護なんて役に立たないと、どうせなら母を治してくれと、神様を軽んじていた癖に。


 歌った瞬間、こんなにも、神様に感謝している。


(私を見放した訳じゃなかった……)


 神様は、他の神様の呪いを跳ね返すことは無かったが、リナリアの歌声だけは守ってくれた。

 それは、神様に最も愛された歌声だ。


(お母さん……聞いて、ずっと声が出なかったけど、私歌えるのよ)


 母に聞かせるように歌った。


(目を開けて、一緒に喜んでよ……)


(前みたいに、とても上手ね、って誉めて)


(リナリアの歌、大好きよ、って……)

 


 声は、嗚咽混じりになった。

 長い時間歌ったが、リナリアの願いが叶うことは無かった。

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