甘い恋人契約

 

 数日後。

 信じられないことに、私は今、普段通りの生活を送っていた。

 店の開店準備をしながら、時折お祖父様が、私に声をかけてくる。


「エステル、こっちも手伝ってくれるか?」


「はい、お祖父様、今行きますわ」


 何事も無く店を開けた直後、早速来店のベルが鳴った。

 朝一番、店に入ってきたのは、見慣れた常連客である。私の評判を積極的に上げてくれる男性のうちの一人だ。別に取って食いはしないのに、やたら不安そうな顔でキョロキョロしている。

 私が余所行き用の笑顔を張り付けて見守っていると、男性客の目が此方に向いた。私の姿を認め、真っ先に寄って来る。彼はやっと安心したような顔をした。

 その男性客は話し出した。


「エステルちゃん、噂を聞いて気が気じゃなかったよ。あのユオ・クルッツの愛人にされそうになったんだって? 本当、俺心配で心配で……」


 随分情報早くないか?

 本当に昨日の今日くらいだぞ。

 まあ、この商業都市なら、情報もかなり重要だからな。こんなものか。


「ご心配お掛けして、申し訳ありません。この通り、何処にも行っていませんわ」


 にっこり笑うと、男性客は顔を赤くしてぼさっとしていた。

 彼は少しして我に返り、どもりながら、会話を続ける。


「そそ、そうだね。安心したよ。この店はやっぱり、エステルちゃんがいないとね。お、俺も、エステルちゃんに会いたいし」


 人の事をとやかく言いたくはないのだが、この男性客、どうもパッとしないな。

 見た目……顔の造形とか、身長がどうとかではなくて。

 何と言うか……姿勢? 猫背?

 あと喋り方。

 まあ、私に害は無いからいいんだけど。

 お祖父様も、「うちの孫はもてるな~」という感じで、誇らしげだし。

 私は内心でそんな事を考えながら、御守を手に取り、にこにこと「見てください、新しい刺繍なんですよ~」と然り気無く商品を薦める。

 だが男は喋るばかりで、買う様子も商品を見る様子も無い。正直邪魔なので、私は愛想良く「またのご来店をお待ちしております」と頬笑みかけて、さっさと男を追い出した。

 男性客は気分を害した風でもなく、「ま、またね、エステルちゃん」と頭をかきながら店を出て行った。


 あれから、お祖父様も私も、変わりなく過ごしている。

 命を狙われてもいない。

 そして、店を畳まなくてはならないと、数日前まで張り詰めていた雰囲気も和らいでいた。

 理由は明らかである。

 ユオ・クルッツは、あの夜の約束を守ったのだ。



 ※

 私が奴と契約を交わした翌朝、そう、朝である。

 平然と意識を手放した自分が信じられなかった。

 だって、眠ったら最後、いや眠らなくても、殺されるかもしれないというのに。

 変装もばれてしまう可能性がある。

 迂闊どころの話ではない。

 何度目か分からないが、馬鹿か私は、と自分を叱責した。


 日は上ってはいるが、まだ早朝のようだ。

 隣に奴はいない。

 いつからいなかったのか。

 奴が抜け出したことにも、全く気付けなかった。

 本当に、一体どうしてしまったんだ、私は。

 何か薬でも盛られたのか?


 いや、言い訳を考えるのはよそう。

 私より、奴が上手なのは事実だ。


 私は身なりを確認し、何か仕掛けられていないか、眠る前と違うところはないかと、異常が無いことが分かると、窓辺に寄った。

 考えても、もう無駄だ。

 奴の戯れ言が、本心であることを祈るしかない。

 まあ、それはそれで、微妙な気持ちだが。

 奴が本当に私を好きだと言うなら……せいぜい媚びてやるさ。


 ユオ・クルッツなんて、大嫌いだが、それでお祖父様と、店を守ることが出来るなら。


 人がいないことを確かめてから、私は奴の部屋から脱出した。

 追手はおらず、私は無事に家に辿り着くことが出来たのだった。



 まだ朝も早く、お祖父様は起きてはいなかった。

 鉢合せる心配もなく、どうやら深夜に抜け出したことはばれずにすんだようだ。


 開店時間になると、なに食わぬ顔をしながら、私は店に立っていたのだが、お祖父様は前日のことがあったので、浮かない顔だ。

 私も奴の言葉は半信半疑なので、自信を持って励ますことは出来ないでいた。

 むしろ、いつ正体を突き止められて糾弾されるかと、戦戦恐恐としていたのだが、奴の行動は早かった。


 昼間、前回と同じような時間に、奴は店に来た。

 あの低俗な部下は連れておらず、一人である。

 当然だが、お祖父様は身構える。昨日の今日だ、まさか、もう気が変わったのかと、私が連れていかれることを恐れていた。

 しかし、予想に反して、奴は頭を下げたのだ。

 これには、お祖父様も、私も、呆気に取られる。

 奴は以前の態度を謝罪した上で、店を取り潰すこともしない、と約束した。

 まさかこんな反応が返ってくるとは思わなかった。

 信じられない気持ちだ。

 救済する店全てに、こうやって回るつもりだろうか?

 奴はお祖父様にも謝ったが、なんとエステルとしての私にも、殊勝な態度で詫びてきた。

 ……調子が狂う。

 奴の事が分からなかった。

 それが数日前の事だ。




 私はあれから、奴の部屋に行っていない。

 しかし奴は、こういう言い方は癪だが……真摯に対応した、ように思う。

 いや、契約の通りではあるのだが、奴が当然のように履行するとは、思っていなかったのだ。

 私は、謝罪までは要求しなかったのに、あの態度である。

 正直、戸惑っている。

 何かの罠かもしれないという気持ちは、拭いきれない。

 だが、奴は、約束を果たしたのだから、私だけ知らぬ顔をすることは出来ない。

 行きたくないが……

 また気紛れを起こされる前に、機嫌を取りに行くとするか……。



 その夜、私は同じ手口で奴の自室に忍び込んだ。

 奴の出した条件は確か、毎晩会いに来い、というものだったはず。

 少し間をおいてしまったので、若干気まずい。

 多少の誤差は見逃して欲しいと思う。


 何となく、どうせまた布を被って隠れているんじゃないか、という気がしていたので、前方を注視する。


「ステラ……」


 耳もとで声がした。


 …………!!!


 叫び出さなかった自分を誉めたい。

 奴は、カーテンの陰から姿を現した。

 つまり、私の真横だ。

 ……怖いだろ! 普通に!!

 だから何で、気配を消すんだよ!!


 心臓をばくばくと鳴らしながら、奴を睨み付ける。

 今夜も月が出ているから、私の目に込められた批難にも気付くだろう。


 私が口に出して文句を言う前に、奴はゆっくりと私に近付いた。

 黙って待つ。

 奴は、私の顔をじっと見つめた後、素早く抱き締めてくる。

 だから、何だ、その早業。

 無駄に動きが速い。

 フェイントまで入れてくるから、かわせなかっただろうが。

 きつく抱き締められ、思わず遠い目になる。

 私は、何をやっているんだろう……。


「ステラ、ステラ……会いたかった……」


 奴の声は、低く色気があった。

 至近距離で呟かれるので、よく聞こえる。

 背筋がぞくり、とした。

 変な気分だ……。


「毎晩って言ったのに、来てくれないから、不安だった」


 奴は批難するように言う。というより、拗ねているのか?

 私は決まりが悪く、言葉が出てこない。


「もしかして、嫌われたのかと……」


 いや、最初から嫌いだけど。

 奴の言葉に、間髪を容れずに言い返す。まあ、口には出さないが。


「顔を見せて。声を聞かせてくれないか」


 やたらと甘ったるい声で、私の頬に手を添える。

 するり、と、口元の布を下げられる。

 されるがままだ。


 ………何と言うか。

 こいつ何なの?

 私のこと好きなの?

 いや、まあ、そう言っていたが……

 頭が混乱する。

 自分でもよく分からないが……

 無性に、恥ずかしい。


 ああ、私らしくない。

 私らしいって何だ。

 大体、こいつが常軌を逸した行動をとるから、おかしくなるんだ。

 ……恋人に対する行動としては、普通か?

 そもそも、暗殺者に恋人になれと言うところから普通ではないだろう。

 うん、おかしいのはこいつだ。


 私がうだうだと考えていると、ちゅ、と短い音がした。


 反射的に、奴の頭に打撃をくらわす。

 今のは記録的な速さだったと思う。

 奴も避けられなかったようだ。


「いっ…………」


 頭をさする奴を、冷めた目で見た。

 相当痛かったのか、涙目で私に言う。


「き、キスはダメだったか……?」


 当たり前だ、死ね、ふざけるな。

 よっぽど言ってやりたかったが、人間怒りすぎると言葉も出ないな。


 唇に奴の感覚が残っている。

 顔が熱くなった。

 ……む、無論、怒りで、だ。

 奴は気落ちしたように、続けた。


「やっぱり、同性だと、抵抗があるか……男にされるのは、慣れそうにないか……?」


 ………あっ。

 忘れていた。私は今男設定だった。

 男にキスするなよ。

 というか、私にするな。


「でも、恋人だから、いずれは……その」


 照れながら勝手なことを抜かす奴は、どう考えても、恋人同士のやり取りを求めている。

 ……気が重かった。


 奴も譲れないらしく、それから一悶着あった。


「やはり、キスはしたい。その先はまだ……急がないから」


 結構ぐいぐいくる。

 その先ってなんだ、聞き捨てならない。

 おい、今ぼそっと「大丈夫、やり方は分かっているから」とか言ったな? 止めろ。

 あと距離近いんだよ。

 ずるずると引き摺られるようにして、ベッドに寝かされる。

 抵抗は無駄に終わった。私は諦めの境地である。

 毎回この流れになるんじゃないだろうな。

 ……毎回、か。

 嫌だな。


「大丈夫、今日は何もしない。ただ、キスだけ……」


 そう言う奴は、私に拒否権を与える気はないようだ。


 手を重ね、奴の顔がおりてくる。

 唇が重なった。

 先程とは違い、すぐには離れない。

 私はなるべく冷静でいようとする。

 触れるだけだった唇を、少し離して、再びくっ付けられた。

 控えめな動きで、舌を這わせてくる。

 奴は目を閉じて、啄むように、味わうように、口付けを繰り返した。


 私はその間ずっと、閉じられた瞼を見ていた。


 キスを堪能した奴は、目を開けると少し顔を赤くする。


「名残惜しいが……今日は、これで」


 奴は上から退き、寝る体勢になった。

 また私を抱き締めて眠るつもりらしい。


 思っていたより、乱暴ではなかった。

 優しい動作に、どう対処すればいいか分からない。

 強引にされれば、強く拒否するのだが、あんな、壊れ物を扱うように触れられると……。

 ……私は冷静だ。

 ただ、受け入れている振りをしただけだ。

 奴に心を許したわけではない。

 断じて。

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