41.彼女はずっと、曖昧な夢を見ている。


 ……夢を見ていた。

 毎日がひもじくて、いつもお腹がすいていて、朝から晩までくたくたになるまで働いて。

 でも、私にとっては、とても幸せな夢だ。


 だけど、私の大切に思っているその人は、幸せじゃなかった。

 いつも自分たちは、不幸だ、不幸だって、口癖のように繰り返して。

 毎日を過ごすのが辛そうで、全てを憎むような目をしていた。

 幸せな毎日だったけど、それだけがとても悲しかった。

 

「だんなさま、お花はいりませんか? 銅貨一枚です。おじょうさま、お花はいりませんか?」


 その日、私は街へ出て、路上で花売りをしていた。

 花と言っても、きれいな花じゃない。土地の痩せた路上に生えていた、雑草のような花だ。

 これは商品じゃないのだから、綺麗な花である必要はない。私はこうして、憐みを買っていただいているにすぎなかった。

 

「だんなさま――あっ!」


 突然、すれ違った男の人に、突き飛ばされた。

 花かごが宙を舞って、地面に転がる。慌てて花を拾おうとしても、花は行きかう人々に次々と踏みつぶされていく。

 それでも私は地面に這いつくばって、残った花を必死で拾い集めた。

 そのとき、地面に影が映って、見上げる。

 その人は、鋭い眼光で私を突き飛ばした男の人を睨んでいた。


「――こんなみじめな生活は、もうやめよう」


 その人は、突然そう言った。


「ダンジョンへ行こう。こんな掃き溜めの生活から、一緒に抜け出そう。ゴフェル」


 その人は、この世界の全てを憎むような目をして。

 吐き捨てるように、そう言った。



***



「う……っ」


 意識が浮上する。

 ひどい、頭痛がした。

 何だろう。長い、懐かしい夢を見ていたような気がする。けれど、内容はもう思い出せなかった。


 目を開けると、見覚えのない場所だった。

 ひんやりと冷たい、無機質な灰色の床と壁。それ以外は何もない。


「……え? 手、が……!」


 左手が動かせないことに気が付いて、慌てて確認する。

 無機質な壁に古びた手錠が埋め込まれていた。その手錠に左手が拘束されている。強く引っ張っても、抜け出せない。

 ――やばい。何があったんだっけ。

 そうだ、市場でカルナさんに襲われて、リオくんが気絶して。

 きっと私は、カルナさんにさらわれたんだ。

 

「おはよ。スズさま、だっけ?」


 突然声をかけられて、びくりと身体が震えた。

 部屋の片隅に、誰かが立っていた。

 知らない人だ。気配が薄くて、全く気が付かなかった。

 二十歳前後ぐらいに見えるその人は、肩に届くぐらいの黒髪で、垂れ気味の瞳は血のように赤い。特徴的な下がり眉だ。中性的な顔立ちだけど、声の低さから男性であることが分かった。


「まぁ、もう夜だけどね?」


 その人は、薄く笑みを浮かべてそう言った。

 

「……誰?」

「僕の名前? メアっていうんだ。もちろん偽名だけど」

「……ここは、どこ?」

「僕ね、質問ばかりする女が大嫌いなんだ。少しは自分で考えたらどう?」


 メアと名乗った男はそう言って、軽蔑するように顔をしかめた。

 少し考えて、くちびるを噛んだ。

 ……きっと、ここは元にいた国じゃない。顔を上げて、メアを睨んだ。

 

「――ここは、どこの国?」

「察しがいいね。ここはサリエニティ共和国だよ。これは本当」


 メアは、にっこりと笑った。

 表情がころころと変わって、まるで子どもみたいだ。それがとても不気味だと思った。

 自分の状況を確認する。

 拘束されているのは利き手じゃない左手だけ。武器を出して、メアを攻撃することもできるし、召喚もできる。

 ――とにかく、早く逃げなければ。

 そう思って、神経を集中させる。


「――バロン、来て!」


 すぐにバロンを召喚しようとした。

 けれど、反応がない。驚いて何度も試したけど、バロンは現れなかった。

 こ、この緊急時に何やってんだバロンは……! まさか拒否してるんじゃないだろうな!

 メアの口元が薄く緩んでいる。まるで馬鹿にしているような表情だ。


 ……うう、仕方ない。こんな危ないところに呼びたくないけど、私がさらわれたとなれば、リオくんは王宮にどんな罰を受けるか分からない。


「――リオくん、来て!」


 今度は、リオくんを召喚しようとした。

 けれど、また反応がなくて呼び出せなかった。

 ど、どうして……? 

 まさかもう、リオくんの身に何か遭ったんだろうか。


「はぁ、頭が悪いなぁ。見てるだけで、イライラするよ」


 呆れたような声が聞こえて、顔をあげる。

 冷たい目で、メアは私を見下ろしていた。


「どうして移動能力者であるあんたを、能力が使える状態で放置していると思うの? 僕がそんな馬鹿にみえる?」


 そう言われて、目を見開いて驚く。

 慌てて、武器召喚を試した。


「……武器が、出ない」


 たくさん亜空間内に入れた武器も、取り出すことが出来なかった。

 ……能力が、使えなくなってる。


「ど、どう、やって……」

「その手錠だよ。かなり大昔にね、能力無効化の高レベル能力者が作ったモノらしいよ。それで拘束されている限り、能力は作動しない。元々は君の国にあったものだけど、カルナがあんたの部下を決める面接のときに盗んできたんだ」


 左手首を拘束している、寂れた手錠。これで拘束されている限り、能力が無効化される。

 心拍数が分かるぐらい、上がっていく。

 ……それじゃあ、私はここから逃げられないじゃないか。


「あースズさま、おはよ! 目ぇ、覚めたんですねぇ」


 聞き覚えのある気だるい声が聞こえて、声のする方を見る。

 カルナさんが、ニコニコと笑いながら、ひらひらと手を振っていた。

 それからすぐに、悲しそうな表情を浮かべて、しゅんと俯く。


「今日はごめんなさい。でもさぁ、スズさまが僕を部下にしてくれないから、仕方なかったんだ。部下にさえしてくれれば、メアにはつかなかったし、こんなことしなかったのにー」


 わけの分からないことを言うカルナさんを見上げて、震える身体を抑える。

 落ち着くために息を吐いて、口を開いた。


「……カルナさん、お願いです。離してください」

「だめですよぉ。もうメアと約束しちゃいましたから」


 残念そうに、カルナさんは言う。

 だめだ。話が全くできない。する気もないみたいだ。


「……市場の人たちは無事なんですか?」

「大丈夫! 眠っただけだよ」

「……どうやって、一斉に気絶させたの?」

「ああ、それはねぇ、さっきも言ったけど、僕の血液をすんごーく細くしてぇ、メアの能力を乗せたんだぁ」


 楽しそうに言われて、眉根を寄せる。


「メアの……能力?」

「睡眠能力だって! すごいよね、メアって。いくらリオが強くてもさぁ、寝ている間は戦えないもんねぇ?」


 そう言ったカルナさんに向かって、メアがギロリと睨んだ。


「……勝手にばらすなよ」

「ごめーん。えへへ、怒られちゃったぁ」


 カルナさんは悪びれなく笑う。

 楽しそうな表情が、この状況に激しい違和感を醸し出していた。

 ……だめだ、怖い。ここから逃げ出したい。

 手錠から出ている鎖を、もう一度強く引っ張ってみる。だけど、やはり手錠はびくともしなかった。

 心臓がどんどん早くなる。

 モーガン様の言葉を思い出して、身体の震えが止まらなかった。

 今は、もう夜だと言っていた。

 つまり私がさらわれてから、かなり時間が経過している。

 早くここから逃げなければ、目の前で私を連れ去られてしまったリオくんが、王宮に何をされるか分からない。殺されてしまうかもしれないんだ。


「……何が、目的なの?」

「は? 本気で聞いてるなら、救えないぐらい馬鹿だね。治癒能力に決まってるだろ?」


 メアは吐き捨てるようにそう言って、血のように赤い目で私を見た。

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