第65話 渡し船
俺は家に帰るなりふて寝してしまった。子供のような態度だとの評価も受けようものだが、そうしたくもなるほどにむしゃくしゃとしていた。今日のリハビリは頑張ったと思うし、称えるように右足はガクガクと笑っている。もう日が暮れるまで動きたくないのは疲労という理由のみにとどまらず、やはりと言うかなんというか、あの阿呆医者の顔を思い出せばこそ陰気を吸って布団の黴にもなろうというものだった。
硬い和布団に挟まれていると、つかの間の安寧を得られる気がした。和布団はうすぺらいくせにやけに重い。縦にも横にも広いので重力の影響をまんべんなく受けているのかも知れない。時折俺はこの状況を分厚い本に挟まれる押し花のような気分だと形容するのだが、それにしてもこの絶妙な圧迫感には不思議と落ち着くものがあった。真夏のクソ暑い時期に何をやっているんだと思われるだろうが、俺には必要なことだった。
「ただいまー」
一時の睡魔にうつらうつらとしていると、玄関の引き戸がガラガラと開き、芙蓉の帰宅を知らせる声が聞こえた。帰宅時に姿を見かけないと思っていたら、芙蓉は出掛けていたらしい。
いや、「らしい」ではない。俺は知っていたはずだ。芙蓉は用事があったそうだ。だから今日の通院は芙蓉に車椅子を押して貰う事ができずに、一般道で登山のような労を執ったのだ。通院もリハビリの一環と思って歩きはしたが、雨降りのおかげで普段の倍は体力を持っていかれた。
芙蓉が帰ってきたということは、いま何時だろう・・・。仮眠する程度のつもりだったがそこそこの時間が経過しているかもしれない。
変な時間にぐっすりと寝てしまうと夜眠れなくなってしまうんだよなぁ・・・と生活リズムの心配をしながら布団の中で欠伸と伸びをして、這いずって布団を抜け出る。いつの間にか日が沈んで暗くなった室内で目を擦る。どこに何があるかもわからないので、俺はそのままズリズリと腹を引きずり襖を探した。
たぶん、この辺だろ・・・。そう思って腕を伸ばそうとすると向かいからドタドタと落ち着きのない足音が聞こえ、襖が開いた。
「よもぎー、寝てるのー?」
眩しい光が俺の両目を襲撃すると同時に顔面に物理的衝撃を受けた。オープンと同時にラッシュしてくるから、芙蓉のキックがクリーンヒットだった。最近こんな事故が多い気がするが、パンを咥えた少女と曲がり角で衝突する導入の少女漫画程度の頻出レベルだと思えば案外日常的にあっても普通なのかも知れない。
そんな冷静な分析をしている最中も時間が止まるわけもなく、芙蓉は俺の顔でつまづき、加速度を維持して俺の背中にダイブした。隙きを生じぬ二段構えだがたとえ五体満足でも俺には躱す能力はない。甘んじてその応酬を受取、芙蓉もろともダメージを受けた。もう、ぐえっとか声を上げるほどの体力もなかった。
「いっ・・・ててて・・・ちょ、うわぁ! ごめんよもぎ! 大丈夫!? 生きてる? よもぎ! よもぎぃー!」
まあ、こんなところに倒れてる俺にも非がある。魂が抜け出てないことを確認するようにじんじん痛む顔を撫で、力尽きたようにその場で倒れた。
「きゃああああ! 嘘!? 死んだ!? ここ、こういうときどうすれば良いんだっけ!? 胸骨圧迫!? 人工呼吸!? た、確か、剣状突起を狙って打つべし打つべしだったはず」
「ばかやろう」
慌てて俺は芙蓉を制止して起きあがった。とどめを刺されてしまってはたまらない。しかし芙蓉の珍しい悲鳴を聞けたのはある意味、覚醒を促すのに十分な収穫であった。
*
場所を変え、俺はリビングのソファへ運送された。夕食の時間だそうで、そのために呼ばれたようだが朝以外寝起きは食欲がわかない。
俺は湯呑を片手に何も映っていないテレビにぼーっと視線を向けていた。黒い画面に反射して映る女の顔も依然として冴えない。考え事をしているのか、何も考えていないのか。その虚ろな瞳が物語っている。
吐く息と瞼が重い。そんな己のコンディションにばかり気を取られている自分に、声を掛ける者があった。
「リハビリ行ってたんだって? お疲れ様」
ソファの背もたれに肘をかけ、後ろから覗き込むのはキンギョであった。芙蓉が訪ねていたのはキンギョらしく、芙蓉の帰りに付き添って我が家に邪魔しに来たらしい。ついでの見舞いということらしいがまるで姉のような気遣いが染みる。こちらも長年の付き合いだが、それを思うとまた目頭が熱くなってきた。
「浮かないねえ。やっぱり腕が動かないとストレスも溜まるよね」
「まぁ、ね」
とは言うが、これでもかなり軽減されている方だと思う。二人三脚というか、おんぶにだっこというきらいはあるものの家族に支えられているおかげで、ストレスこそあれど不自由は殆ど無い。
一人暮らしの時点でこの状況に陥っていたら今頃は腐乱死体か白骨化して発見されていることだろう。ゾッとしない。湯呑を握る手に無意識に力がこもった。
「芙蓉ちゃんがいてくれてよかったね」
芙蓉はキンギョの言葉を耳ざとく聞きつけて、むーさんの手料理を頬張った状態でダイニングから声を張った。
「ほんとにね。よもぎにはいっぱい感謝してもらわないと」
鼻にかけるところだけ自粛してくれれば気兼ねなくありがとうを言えるのだけど。
「ありがとね、むーさん」
「えっ、あれっ? 私は?」
「あ、いえっ。ウチこそ、お世話になってるッスので」
「ねえ、私はー?」
「さっき顔をサッカーボールと間違えられたからなぁ」
「わー! それはごめんってば!」
そう俺、根に持つ陰気な男。恨み妬みは墓まで持ち込む所存。死んだら芙蓉の枕元に化けて出ねばならぬ故。
俺が芙蓉をおちょくるのを、キンギョがクスクスと笑った。
「はは、元気そうでよかった。じゃあ、オイラはちょっとお風呂を借りるねー。もう今日は4時起きだったからクッタクタで」
キンギョはひらひらと手を振る。さり気なく廊下の奥に消えようとするのを引き止める。
「あれ、何。泊まってく気なの?」
キンギョは扉の影から首をのぞかせて言った。
「何いってんの。明日からお盆休みだよ」
そういうわけで、と再び姿を晦ますキンギョを見送り、言われて思い出す。いかんせん学生は長期休暇を得ると日付感覚が狂って困る。
そうか・・・。もうそんな時期か。
「芙蓉、明日は時間ある?」
「私は世界が羨むほど暇だよ」
「じゃあ、付き合ってほしいところがあるんだけど」
「何なりとどーぞ」
行き先は察しが付くと思うけれど。俺は目的を芙蓉に告げ、湯呑の麦茶を飲み干した。
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